第2話 ぬれすけ


 確かに、俺の名前は遥である。


 滝本遥たきもとはるか、19歳。今年の初春、大学受験に失敗し、ちょうど今日、親元を離れ、祖母の家で浪人生活をスタートさせるつもりの人間である。


 なので、目の前の女の子が言っていることに間違いはない。


「でも、どうして俺の名前……」


「え、覚えてない? 私だよ! 新庄(しんじょう)のおばあちゃんの家のお隣さん!」


 きらきらと目を輝かせて、女の子が言う。


 新庄は俺の母親の旧姓、つまり婆ちゃんの苗字だ。


「婆ちゃんの家の隣……だとすると、」


 ということは、この子、もしかして――。


 少女の言葉をきっかけに、少しずつ、霞みがかっていた当時のことが晴れていく。


 俺は頭の中を捻って、忘れかけていた記憶の断片を呼び起こしていく。

 

 それは、俺が7歳だった時の夏。



 ※※※



『じゃあ、頼んだわね。お母さん。遥も、ちゃんということを聞くように』


 夏休みの間だけ、俺は祖母の家に預けられることになった。


 父と母の仕事の都合らしいが、なぜか兄と妹は一緒ではなかった。


 だが、そのことについて疑問は持たなかった。


 両親の言うことに間違いはないと思っていたからだ。


『遥、またお勉強かい?』


『うん。お母さんにやるように言われているから』


 テーブルの上に広げられた問題集を覗き込む祖母に、俺はそう答えた。


 親はいないし、祖母は優しい。


 でも、だからと言ってサボるわけにはいかない。


 学校から出された課題と、そして両親が自主的に課す宿題。朝からしっかりやらないと、夏休みに間に合わない量だ。


 やらないと母から怒られてしまう。


『こんなに勉強させんでもいいだろうに……まったく、あの子ったら』


『大丈夫だよ、おばあちゃん。僕、勉強するの好きだから』


『そうかい? 嫌だったら、ちょっとは外で遊んでもいいからね』


『うん』


 そう答えるが、これまでずっと家の中で勉強ばかりだから、敷地ばかりが広い庭で『さあ遊べ』と言われても困ってしまう。


 こういう時、俺みたいな子供はどう遊べばいいのかわからない。多分、ど真ん中でぼーっと立ち尽くすだけでも終わりだろう。


 勉強は嫌いだが、勉強以外、何をやっていいのかわからないから、仕方なく勉強している。


 そんな感じだった。


 喉が渇いたので、祖母が用意してくれたジュースに俺は手を伸ばした。


 良く冷えた瓶のコーラだった。


 ペットボトルや缶ばかり見慣れていた俺にとっては珍しい。


 瓶についた細かい水滴がキラキラと輝いて、とても美味しそうに見える。


『飲みたい……けど空かない』


 飲み口にぴったりとはまった栓を、俺はまじまじと見つめる。


 お菓子の入れられた皿の脇に栓抜きが置かれている――が、上手く扱うことができない。


 わっかに引っかけて、てこの原理で上に引き上げて栓を抜く。使い方ぐらい俺でも理解している。が、腕に力が上手く入らない。思い切り力を入れようとすると、栓にひっかけた栓抜きが外れてしまうのだ。


 あと、力を入れた拍子に瓶が倒れて中身がこぼしたくなくて、それがぎこちない動きにつながっていた。


『ん、しょっ……!』


 気温でどんどんとぬるくなっていく瓶コーラに、俺はいい加減苛立ちを覚える。


 おばあちゃんも栓ぐらい開けてくれればよかったのに――そんな考えが頭をよぎり始めたその時、


『ね!』

『!? おわっ、だ、誰っ?』

 

 至近距離で俺を見つめる、小さな女の子の顔がそこにあった。


『おにちゃん、だれ!!』

『いや、君こそ誰? ここは僕のおばあちゃんの家だよ』

『だれ!!』


 ダメだ、この子全然話聞いてない。


 あと、至近距離で叫ぶように大声を出すものだから、耳がきんきんとする。


 なんだ、この女の子。


 見た感じ、幼稚園児ぐらいだが。


『……僕は遥。ここのおばあちゃんの孫だよ』

『まご! しってる! こどものこども!』

『うん、そう』

『で、おにちゃん、だれ!』

『さっき言ったじゃんか。あと、うるさいし』


 仕方なくもう一度自己紹介をすると、ようやく覚えてくれたようだ。

 ところでこの子、一体誰。


『どうしたね、遥。なんだか騒がしいみたいだけど』

『あ! おばちゃん!』

『おや、三久(みく)ちゃんいらっしゃい。今日も元気だねえ』

『はい! げんきです!』


 どうやら祖母はこの子のことを知っているらしい。しかも、わりと良く訪ねてくるようだ。


『おばあちゃん、この子』

『ああ、うん。この子は早谷さんとこの……ウチのお隣さんの子だよ』

『隣……』


 祖母の家は林に囲まれた敷地あるのだが、そういえば、その隣にもう一つ小さな家があったのを思い出す。


『そだよ! はるかおにちゃん!』

『だからうるさいって』

『えへへ』

 

 それが、俺と少女の初めての出会い。



 ※※※



「……三久」


「よかった。ようやく思い出してくれた」


 俺の口から名前が出て、三久は安堵したように笑う。


「まあ、俺のことを『おにちゃん』なんて変な呼び方するの、三久だけだし」


「だって、あの時はその呼び方しかできなかったんだもん」


 ぷくっと膨れる三久の顔が、昔の幼いころの面影と重なる。


「でも、本当に久しぶりだね。あの夏休みの時以来だから、10年以上ぶり?」


「ああ……まあ、うん」


 本当のところは三久に言わないが、再会にそれだけ時間が空いたのは彼女のせいだったりする。


 あの日以来、なぜかやけに俺に懐いた三久が毎日のように遊び(邪魔し)にやってきたせいで、親から課されたドリルを消化することが出来ず、それが原因で祖母の家にはそれっきりとなってしまったのだ。


 今、それをやっと思い出した。


 一か月という短い期間だったので、幼馴染……というには足りないかもしれないが、仲は良かったと思う。


「でも、なんでおにちゃんがこんなところにいるの? もう絶対にこの町で会えないと思ったのに」


「えっと……それにはちょっとした事情が――」


 と、三久のほうに目を向けた瞬間、俺は、目の前にいる彼女の姿を見て、固まる。


「? なに、おにちゃん。どうしたの?」


「あ、いや、その……前、を」


「前?」


「だから、制服」


「制服――?」


 露骨に三久から顔を背けた俺のことを怪訝な顔で見る三久は、そのまま視線を落としていき。


「……あ、」


 そこでようやく、大変な状況に置かれているのに三久は気づいた。


 実は、祖母の家へ引っ越しをする準備に時間がかかったこともあり、今はすでに5月末。


 すでに夏服仕様になっていた三久の薄手の制服は、突然の雨によって制服が透け、鮮やかなライトブルーの下着がはっきりと見える、所謂濡れ透け状態になっていたのである。


「あわ、あわわ……!」


 俺に指摘されるまで気づかなかった三久の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。


 すぐさま胸を隠すようにして俺に背を向けた三久。


「……いや、その、胸隠してもさ、背中」


「うぎゃっ!?」


 当然、全身びしょびしょなら背中もそうだろう。しっかりとブラ紐が透けている。


 まあ、12年も経てば、昔は小さかった女の子だってそれなりに体も成長するだろう。当然のことだ。


 ちょっとだけ、びっくりしてしまったが。


 俺も、三久ほどとはいかないが、頬に熱を帯びているのを感じた。

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