第200話

 伊勢中川駅は、三重県内にある近鉄の駅の中で最も重要な駅だ。

 大阪と名古屋へと伸びている近鉄路線、そのちょうど中継地点にあり、多くの都会に夢を求める若者達や、仕事を求める労働者達がこの駅から旅立っていく。


「……廸子、廸子、起きろ。着いたぞ」


「……んあ? マジで?」


「急げ、もう電車止まってる。親父も待ってるってメール来てた」


「……ちょっとの仮眠のつもりが、疲れてたんだな。分かった、すぐ降りる」


 鳥羽行き近鉄特急の扉が閉まる。

 ごうごうと、音を立てて走り去るそれを見送って、俺と廸子はホームを地下通路へと降りた。それから、ちょっと寄り道と言い、俺は廸子を強引に連れて降りたのと違うホームへと上がる。


 四番線と五番線ホーム。

 そこは、名古屋方面と大阪方面に向かう電車の多くが停車する場所。


 駅内に進出しているマミミーマート。

 そこから漏れてくる淡い光が、このホームを他よりひときわ明るくしている。


 あれ、ここってと、廸子が目を擦りながら周りを見渡す。

 地下通路を通った時点で察して欲しいところだが、寝ぼけているのだ仕方ない。

 そんな中、俺は一緒に降りた松田ちゃん――廸子に見つからないように、壁の柱にそっと隠れている――に向けて、ありがとうと視線を送った。


 本来降りるのは、もう一つ先の駅だ。

 けれども、俺たちはあえてここ、伊勢中川で降りた。


 どうしても、廸子に言っておきたいことがあったからだ。

 これからの俺について。そして、これからの俺たちについて。


 この、伊勢中川という人生を分岐する駅で。


「ここ、伊勢中川じゃん。おい、陽介、なに寝ぼけてんだよ。降りるのはもう一個先だろ。おじさんからも、まだ着いたって連絡来てないし」


「ごめん廸子。けど、どうしてもここでお前に言っておきたいことがあったんだ」


 聞いておきたいこととは言わない。

 どういう返事がきたところで、俺の思いは変わらないし、俺たちのこれからは変わらないだろうから。廸子がなんと言ってきても、俺はそれを受け止めるし、廸子にもそれを受け止めてもらう。


 自分勝手な話である。


 けれども、結局、俺たちはいつだって、自分本位でしか話ができない。

 それをどう思うのか、どう感じるかは相手次第なのだから。


 そういう風に人生を受け止めた――言ってしまえば開き直った俺には、もう、廸子に対してなんら言葉を選ぶことはなかった。


 すっかりと日が暮れた伊勢中川のホームには肌寒い風が入り込んでくる。

 震えた廸子に、俺は慌てて上着をかぶせるとそのまま彼女の手を握った。

 寝ぼけていた廸子の顔が急に冴える。


 これからするのが、真面目な話なんだと、彼女は分かってくれたみたいだった。


「……廸子。今日の診察でも言われたけれど、俺は、いろいろと田舎で生きていくのが難しい人間みたいだ。あれだけ好き勝手に乗り回していた車も、先生に言われた途端に、乗るのが怖くなってる。ほんと、どうしようもなく弱い人間なんだ」


「……そんなの、今更だろう。なんだよ、改まって」


「俺と一緒に生きていくっていうのは、そういう俺の都合にお前と子供を振り回しちまうことになる」


「だから、そんなの今更だろう。分かってるよ、そんなことくらい。そんなの、私は知っててお前と一緒になったんだ。きっと、お腹にこの子がいなくったって、そうしてる。陽介と一緒に居ることを私は絶対に選ぶ」


 だからそんなこと言うなよということだろう。

 廸子の真っ直ぐな瞳は、俺の弱気を許さぬ力強さがあった。


 金色の髪が静かに闇の中で揺れる。

 彼女がずっと、十五年間染め抜いてきたその黄金色の髪を指で絡めとって、俺は愛おしくゆっくりと梳く。


 気恥ずかしげに顔を赤らめる廸子。

 俺より、ほんの少し身長の小さい、愛しい妻は、俺のちょっとした悪戯心に揺れることなく、真っ直ぐに俺を見続けてくれた。


 いつだって、廸子は優しい。

 本当に優しい。


 ここで、自分がどうすればいいのか分かっている。

 俺がこれから言うことも、きっと分かっている。


 今ここで、俺から目を逸らしちゃいけない。

 それが分かっているからこそ、彼女はその愛しい顔を少しもゆがめることなく、超然として俺の前にあってくれた。


 けれども俺は知っている。


 彼女が、今まで、そんな風にして、どれだけ気を張ってきてくれたかを。


 できれば、そんなあり方をやめさせてあげられたらと、俺は思うのだ。

 俺が彼女の心の支えになってあげたい。

 そのような、強がった生き方から、昔のような――俺に頼るおとなしい女の子のように戻してあげたいと思うのだ。


 けれども、俺たちは、もう子供じゃない。


 それぞれがそれぞれに、どうあるべきかを分かっている。

 悲しいくらいに、自分たちの弱さが分かっており、補う合うために、共に生きていくために何が必要なのか分かってしまう。


 だから、きっと、廸子は分かってくれると思った。


「廸子。もし俺が玉椿町を出て行くとしても、お前は一緒にきてくれるか? 誠一郎さんや、九十九ちゃん、マミミーマートや姉貴達との関係を捨ててまで、俺と一緒に来てくれるか?」


「……」


 沈黙。

 しかし、それは戸惑い混じりのモノではなかった。


 そんなことがなんだという無言の肯定。


 廸子は、黙って俺を見ることで、何も言わないことで、俺の言っていることがどれほど問うことが無意味なことか思い知らせてきた。


 思わず、その頑なな表情に、笑いがこみ上げてきた。

 なんで笑うんだよとも言わずに、俺を見続ける廸子に――。


「文句があるなら、言ってくれてもいいんだぜ?」


「ある訳ないだろう。陽介、お前は言っておきたいことがあると言ったんだ。だったら、アタシがなんと言おうと、そうするんだろう」


「そうだったな」


「だったら、もう、私は黙ってついて行く。最初から、そういう話だし、それ以外に答えはない。だから、答える必要もないし、答えるつもりもない」


 けど、と、廸子は俺の首に手を回して顔を引き寄せた。

 真っ赤にゆであがったその顔を、極限まで俺に近づけて、彼女は瞳を潤ませる。


 夜空に浮かぶ星を拾って、幾千にも輝く彼女の瞳に、吸い込まれそうになりながら、俺は次の言葉を待った。


 妻は、言葉より先に俺に唇を重ねると、困ったように眉をゆがめた。

 それから少しだけ拗ねたように視線を逸らす。


 こんなことを言わせるのに罪悪感を俺が感じるより早く。


 妻は湿った唇を弾いた。


「私は、陽介と一緒が一番幸せだし、きっと、お腹の子も、陽介と私と一緒に居ることが一番幸せなんだと思う。その幸せを守るためなら、私は、なんだってする」


「……誠一郎さんを捨ててもいいのか?」


「陽介の所に面倒見て貰えばいいだろ。もう、お互い、本当に親戚なんだし」


「……ちぃちゃんと会えなくなってもいいのか?」


「困るのはお前だろ。それに、アタシたちの子供を構うのにいっぱいいっぱいで、たぶん構ってあげられなくなるよ」


「マミミーマートのキャリアは? せっかくの正社員なのに?」


「寿退社って言葉があるの知ってるか?」


「お前、玉椿町でしか暮らしたことないだろう? なのに、都会に出て行くの、怖くないのかよ?」


「怖いよ。だから、ずっと一緒、そばに居てね、陽介」


 そう言って、また、キスをねだる。

 どうしてこの幼馴染みは、こうも俺の心を揺さぶってやまないのだろう。

 柱の陰に松田ちゃんが隠れているのを知っていて、俺は廸子に、これでもかと情熱的に愛を注いだ。

 求められるままにそれに応えた。


 周りの人間が、騒ぎ出す。

 ようやく唇を離した俺たちは、逃げるように伊勢中川駅の階段を駆け下りる。


 そして、親父が待っている駅へと向かう電車が停まるホームに向かうのだった。


「……陽介」


「みなまで言うな、もう分かってる」


「本当にぃ? 本当かなぁ? 本当に分かってるのかなぁ?」


「分かってるよ!!」


 階段を降りきった所で、また、俺たちはキスをする。

 追ってきた松田ちゃんをからかうように、俺たちは伊勢中川駅の地下道を走った。二人で、手を繋いで走った。


 廸子。


 これから俺は、君の人生を誰のモノにもされないように奪う。

 我が儘な俺を笑って許してくれた君のために、俺は生きるよ。

 全力で、この人生を、走り続けるよ。


 だから、一緒に走るその横で、笑い続けてくれ。


 今、みたいに。


 ずっと、ずっと。


 君が横に居てくれれば。

 君達が横に居てくれれば。


 俺はそれだけで幸せなのだから。

 幸せだときっと思って生きていけるのだから。


【第四部 了】


【俺の幼馴染がコンビニで働いているのでセクハラしにいくことにする 完】


★☆★ ここまでお読みくださりありがとうございました。後日譚もありますが、もしよろしければ評価・フォロー・応援よろしくお願いいたします。m(__)m ★☆★

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