第170話

 鳥羽での休憩から一時間ちょっと。

 俺たちは御座浜海水浴場へと到着した。


 例によって海水浴シーズン。

 盆前の海岸沿いには人が蜃気楼のように蠢いている。

 そして、穏やかな波が静かに浜辺に押し寄せては返していた。


「うーみーだー!! うーみー!!」


「うーみー!!」


 ちぃちゃんと光ちゃんが、浜辺に駆け出すや大声で叫ぶ。

 そんな子供達のはしゃぎ声も、海辺の賑やかさにかき消される。

 夏特有のなんとも形容しがたい熱気がそこにはあった。


 鳥羽の潮風とはまた違う、気持ちのいい風が浜辺に吹いて俺の髪をくすぐる。


「だーもう、めっちゃ疲れた。なんで志摩の道ってこんな入り組んでるのかねえ。こっちで暮らしている人たちはよくこれで苦労しないね」


「運転おつかれさま美香さん。すぐにビーチパラソルを用意するから、そこでゆっくりと休もう。なに、泳ぐのは別にいつだってできるさ」


「ありがとう実嗣さん。それと、冷えたビールと枝豆、焼きそばに肉っぽい食べ物があると最高なんですけれど」


「任せてくれ、すぐに準備するよ」


 実嗣さんに対する要求エグくない?


 美香さん、はじめて出来た彼氏なんだから大事にしておやりよ。

 実嗣さんも、ビーチパラソルで陣地作るなり、すぐさま海の家に駆けていったけれど、そんな忠犬みたいに尽くすことないと思うよ。


 独身を拗らせすぎだよ。

 これ破局しちゃったら目も当てられない状況になるな。

 責任とってちゃんと結婚してね。

 でないと、俺らにもフォローできる範囲があるんだから。


 とか思ってたら、なんか顔をしわしわにして実嗣さんが帰ってきた。

 手には何も持っていない。


「……すまない、クレジットカード払いに対応していないと言われてしまった。美香さん、お金を貸してくれないか」


「ふふっ、ごめんなさい、実はそうなると思って、わざとおつかいを頼んだの」


「美香さん。君って人は意地悪な人だな」


「意地悪な私は嫌い?」


「いいや、それくらい我が儘なくらいが、私にはとても愛らしく思える」


「……実嗣さん」


「……美香さん」


「実嗣さん!!」


「美香さん!!」


「ただでさえ暑苦しいのにそういうのは余所でやってくれませんかね!!」


 一緒に買いに行きましょうと、二人は手を繋いで海の家へと行ってしまった。

 なんだい、心配させるだけさせといていつものバカップルかい。

 いい歳して恋とかするとバカになっちゃうからほんと困るわ。


 ほんと、こっちをもやっとした気分にさせて、自分たちだけ愛の空間作り出して逃げるから始末に負えないわ。


「おっさんたちラブラブだなぁ」


「あれはけっこんびょうよみだな」


 そして子供達にも変な影響与えるしさ。

 もう、勘弁勘弁ってもんである。


 それはそれとして。


 実嗣さんが建ててくれたビーチパラソルの下に俺たちは荷物を降ろす。


「それじゃ、私たちはちぃちゃんたちと着替えてくるから」


「おーう、荷物番は任せろ。美香さんと実嗣さんが戻ってきてから行くわ」


「よろしくねお兄ちゃん」


「それじゃあお先です、陽介さん」


 俺を残してぞろぞろと海の家に併設された更衣室へと移動していく廸子たち。

 どういうグループという感じの、性別も年齢も多種多様なその集団を見送って、俺はクーラーボックスから親父の入れてくれたお茶を取り出した。


 塩みのよく利いた麦茶。

 ちょっと歩いただけだというのに、汗のにじんだ身体には有り難い。


 浜辺には人がひしめき、家族連れからカップルらしき男女、さらに大学のサークル仲間たちのような人たちまで、いろいろな姿が見える。


 流石にちゃんとした海水浴場。

 変なナンパ集団みたいなのは見当たらない。

 大学のサークルの連中もおとなしめだ。


 まぁ、志摩なんて田舎の海に、遊びにくる人は、地元民くらいしかいないよな。


 ふと、そんなどうでもいい思索にふけっていた時だった。

 ひとり、と、俺の首筋に冷たい感触が突然這ったのは。


 思わず、奇声を上げて飛び上がれば、けたけたと笑う女の姿。


 あれ、と、一呼吸置いたのは、その人物がここにいるのが意外だったから。

 タピオカドリンクを手にして、くすくすと笑うのは、仕事先でのどこか堅苦しい格好から解放されて、Tシャツにホットパンツという同年代にしては勇気の要る格好をした女性だった。

 茶けた髪が潮風にまぶしい彼女の名を、俺は知っている。


「豊田くん、みーっけ」


「山波さん!?」


 山波さやかさん。

 俺の高校時代の同級生。

 昔はやぼったい女の子だったのに、垢抜けた感じになった魔性の女。


 なんで、どうして、彼女がこんな所にいるんだ。


 まさか俺をつけて――いやいや、ないない、それはない。


「おっかけてきちゃった」


「はいぃ!?」


「やだうそ、冗談に決まっているじゃない。大学で仲良かった娘たちとの女子会。こっち方面の出身の娘がいたから遊びに来てたの」


 主人にないしょでね、と、彼女は呟いた。


 一瞬、こんな真夏だというのに空気が凍る気がした。


 もう会わない方がいいと言った山波。

 そんな彼女が、俺を見かけて近づいてきたことに、何かよくない思惑が彼女の背中でうごめいている気がした。


 もっとも、それに気づいたからと言って、俺が何かできる訳がない。

 それを言葉にして尋ねることもできない。


 にんまりと、山波は口の端をつり上げる。


「豊田くんはどうしたの? もしかして、彼女さんとデート?」


「いや、姪っ子とその友達を遊びに連れてきていて」


「へぇー、いいおじちゃんやってるんだ。えらいね」


「……そんなもんじゃないよ」


 どう返していいか分からず視線を逸らす。

 けど、それを許さないとばかりに、山波は俺の視界に入ってきた。

 張り付いた笑顔の元同級生が俺を見ている。


「いま一人なんでしょ? いいじゃん、お話しようよ?」


「もう会わない方がいいって、言ったのは山波じゃないか」


「……言ったっけ、そんなこと?」


「勘弁してくれよ」


 冗談冗談、と、彼女は乾いた笑いを零して俺に背中を向ける。

 首筋に当ててきたタピオカドリンク。それを啜って、山波は海を眺める。


「いろいろよねー。久しぶりに友達と会ってさ、びっくりしちゃった。皆もう、ちゃんとしたお母さんやっててさ。私だけだよ、こんな格好してるの」


「……まぁ、ちょっと、その格好は勇気いるよな」


「バッチリこの日のためにプロポーション整えてきたのに、皆ワンピとかだよ。酷いと思わない。しかも、子供連れてきてる娘までいるし。今日は立場を忘れて昔に戻ってリフレッシュ、子供は親に預けよう、って言ってたのにさ」


 仕方ないよねと言った瞬間、とてつもなく寂しそうな顔を山波がした。

 見たことがない顔をして、彼女は海風が吹く中で乾いた笑いを零す。


 そういえば、俺は山波から、それについての話をされるのは初めてな気がした。


 夫婦間で何か約束事があるのか。

 あるいは彼女自身それを望んでいないのか。

 望んでも授かれないのか。


 俺も踏み入って話をしていないのでよく知らない。

 けれどもそうだ、確か彼女は――。


「私もさ、子供がいれば、もうちょっとこの人生も違っていたのかなって」


「……山波」


「子供みたいなこと言って拗ねている暇もないっていうのかな。とにかく、君にしたようなことをしなくてすんだのかもねって、ちょっと思ったよ」


 ごめんね、と、振り向かずに謝る山波。


 彼女が何に悩み、何を不満に思い、どうしてあんなことをしたのか。

 誠実さにより保たれる男女の関係に、彼女がなぜあそこまで思い詰めたのか。

 あるいはそれは、思い詰めるだけの余力が彼女にあったということかもしれない。そんな余裕がなくなるような存在があれば、あるいは――。


 けれども、それは、仮定の話。

 そんな経験もない俺には、事実も何も分からない。


 結婚もしていなければ、守るべきものもない、この俺には。


 その時だ。


「陽介!! 誰だよその女は!!」


「……廸子?」


 廸子が突然、こちらに戻ってきていた。

 まだ、水着には着替えていない。

 なぜかと思えば、彼女の鞄がビーチパラソルの下にあるのに俺は気がついた。


 どうやら、着替えを忘れたらしい。


 まずい。


「誰ですか、貴方。私の――幼馴染みに何か用ですか?」


「……へぇ、なるほど」


「山波。あの、これは」


 いいからいいから、分かってると、山波は俺と廸子に微笑む。

 敵愾心をむき出しにして山波を睨んでいる廸子。そんな彼女に、何を思ったか近づいた山波は、そっと何かを彼女の耳元で呟いた。


 途端、その顔が青ざめるのを、俺ははっきりと見た。


 何を言われた、廸子。

 何を言った、山波。


「山波!!」


 思わず俺は叫んでいた。

 浜辺の人々が思わず振り返るような大声で叫んでいた。

 顔は、もう、きっと酷いしかめ面になっていたんだろうと思う。


 そんな俺を、相変わらず山波は笑う。


 どこに彼女は過去の自分を置いてきたんだ。


 本当に、もう、会うべきじゃなかったんだ、俺たちは。


「……大丈夫、陽介。なんでもないから」


「だってさ、豊田くん?」


 ふざけるな、と、言いそうになった俺に、廸子が抱きつく。

 大丈夫、本当になんでもないのと、そう言った幼馴染みの肩は強く震えていた。


 とても、大丈夫には見えない。

 けれども彼女を振りほどくことも出来ない。


 俺たちを残して、じゃぁね、と、山波は雑踏の中へと去っていった。


 まるで、夏に吹く風のように。

 ゆっくりとおだやかに。

 そして、どこに消えるとも分からないように。


 その後、俺と彼女がその浜辺で出会うことはなかった。


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