第126話

 私の名前は早川実嗣。


 早川家のお家騒動により姪が危ないと聞き、玉椿町までやって来た男。

 そして、姪に彼女の亡き父――弟と誤認されたまま否定できず、すっかり父親のふりが板についてしまった男。


 我ながら、自分の道化ぶりに苦笑いが止まらない。

 そして、自分の中にこんな人間らしい感情があったのかと、戸惑いを隠せない。


 思いがけず姪を愛しいと感じたあたりから何か自分でも妙な感じだ。

 早川実嗣とは、こんな人間らしい男だっただろうか。

 ついそんなことを思う。


 弟しか愛せない。


 私は自分のことをそう思っていた。

 しかしその定義が今揺らいでいる。

 目の前の姪に対し私が抱いているのは、弟に対して抱いたものとは違うが、その一方で確かに愛だと言い切れる感情だった。


 私は、弟が残したこの一粒種である姪を護るため、海外から日本へ戻ってきた。

 それはただの約束に過ぎなかった。


 義務感。

 弟を裏切ることはできない。

 ただそれだけ。


 なのに、今、姪の一挙手一投足に、心躍る自分がいることを確かに感じる。

 愛という感情がなんなのか、分からない私が、これがそうだと確信している。


「おとーさん!! ほらっ!! これねぇー、ちぃがねぇ、つくったのよ!! てーぶゆさん!! みんなでごはんたべれるおー!!」


「えぇ、すごいですね、ちぃちゃん」


 どうしてそう感じるのだろうか。

 そうだと感じられるのだろうか。


 論理的な思考というプロセスをすっ飛ばして、私の中にあふれてくる感情。

 それにラベルをつけるのが追いつかない。


 整理する間もなく、ただ、目の前の幼子を可愛いと思う。

 なんとしても守らねばと感じてしまう。


 もしかして、私はそういう性的嗜好の持ち主なのか。

 いや、それも違うと断言できる。


 ただただ、目の前の弟の一粒種のすることが、すべて愛おしかった。


 そんな意味不明の感情に揺さぶり続けられたからだろうか。

 気が付くと私は、一緒にいた女性――千寿の幼馴染と自称する女に、ぽろりと弟への感情を漏らしてしまった。


 これもまた、実に自分らしくない行動だったと思う。

 答えを人に求めるようなことではない。

 そもそも彼女が答えを持っているとも思えない。


 そして、これもまた骨身に沁みて感じていることだが、それは人間的な思考ではないという自覚が私にはあった。


 人は離れていくものだ。

 それを寂しく感じるのはおかしい。


 そう思っていた。


 けれど。


「いないけどわかります。友達でも、幼馴染でも、家族でも、誰だってきっとそうだよ。そんなことになって寂しくならない訳がないと思います」


 隣に居るもう一人の姪の保護者は、私の数十年来の葛藤をあっさりと肯定した。自分の中にある弟――匡嗣への感情を、あっさりと認めてくれた。

 どうしていいかわからず、私は黙り込んだ。


 普通なのだろうか。

 そうなのか。

 これが――。


 そんな私の顔を覗き込んで、心配そうな顔をする彼女。


 たしか、田辺美香と名乗っただろうか。

 田辺さんは、いかにも早川の財産に目がくらんだ女たちと同じ、心配そうな顔をして私の顔をのぞき込んできた。


 心配しているフリ。

 実際には、トークを引き出すためのテクニック。

 そんなことは私も嫌と言うほど経験しているから分かる。

 だがこの時、彼女のそんな挑発に乗ってしまおうと思った、自分が居た。


 やはり、今日はどうかしているようだ。


「……すみません。そんな風に言われたことは初めてだったので」


「あら、そうなんですか。みんななんで当たり前のことを言わないんですかね。別に恥ずかしいことでもなんでもないと思うんだけれど」


「恥ずかしいことだと思うのですが」


「そうですか? 好きな人を好きだと思うことに恥ずかしいことなんて何もないと思いますよ? 私は、そういうの隠すよりもオープンな方がいいかなって思いますね。あ、隠したいなら、それはそれで構いません。あくまで、私はって話です」


 あらやだ、ごめんなさい、おほほと取り繕う。

 やはり私の機嫌をうかがっているのはよくわかった。


 けれども同時に、彼女の言葉が嘘偽りではなく、真実なのも感じられた。


 彼女は確かに私に媚びを売っている。

 けれども、すべてに迎合する訳ではない。

 そこにはちゃんと彼女らしい、彼女だけの、彼女としての意見がある。


 なんだろう。

 いきなり後頭部を殴りつけられた、そんな気がした。


 そして、なぜだかもっと、彼女と話し合いたいと、そんなことを感じた。


 今まで私の話を、聞いてくれる人はいた。

 けれども、こんな風に、自分の意見を交えて、討論してくれるような人は――誰も私の周りにはいなかった。


 話してみたい。

 彼女と。じっくりと。


「……少し。引かないでいただきたいのですが」


「やだなぁ、引くだなんて。そんなことする訳ないじゃないですか。私、こう見えて結構、そういうの寛容な方ですよ。それで、いったい、なんの話ですか?」


「私は自分のことを、ゲイだと思っていました。しかも、血を分けた弟しか愛することができない、特殊な性癖の持ち主であると」


「……えぇ、それはちょっと」


 引いてる。

 めちゃくちゃ引いてる。


 なんだろう、引かないって言っていたくせに、めちゃくちゃ引いてる。

 過去に何度か、うざったく早川の遺産目当てに関わってくる女性に、自分の性的嗜好を暴露して引かせたことはあったが、今回はちょっと傷ついたぞ。


 絶対引かないって予防線張ってもらってから引かれる。

 地味にトラウマになるぞ。


 やはり話すべきではなかったか。

 気にしないでくださいと言おうとしたその時。


 うぅん、と、田辺さんは顎先に手を添えて、小さな声で唸った。


「えっと。ごめんなさい。めっちゃ引いちゃった。けど、待ってね、それ、ちょっとよく状況を聞かせていただけません?」


「状況ですか?」


「いや、まず勘違いしないでいただきたいのは、私は腐女子とかそういうのではないです。そして、この質問もまた、実嗣さんがそう思い込まれているだけで、実際には違うんじゃないかというそういう疑念からくるものです」


「思い込んでいるだけ」


 引いたのに、くらいついてくる。


 どれだけ早川の嫁になりたいのだろう。

 なった所で、私は既に母から絶縁を申し付けられている。


 住所不定無職のごくつぶしを旦那にするだけだ。

 だというのに、そんなに躍起になられてはちょっと申し訳ない。


 いや――。


 違うぞ――。


 そうじゃない――。


「まず、実嗣さんは匡嗣さんの肉体に興味があったんですか?」


「肉体に興味とは?」


「性的な目で弟さんを見てらしたか? って、言わせないでくださいよ、恥ずかしい。けど、ここって大事な所だと思うんです」


「そうでしょうか?」


「だってねぇ、家族愛だとか隣人愛だとかとかく世界にはいろんな愛が溢れているじゃないですか。愛の形って、そういう営みの中に収まるものじゃないと思うんです。逆もまたしかりで、愛しているからゲイだホモだなんていうのは、違うかなと」


 目からうろこが落ちが気分だった。


 愛、というものに、いろいろな形があるのは分かる。

 けれどもそれを、兄弟愛だけしか実感できなかった。

 だからこそ、私は――。


「匡嗣のことを、そういう目で見たことはない。そして、そんなことをしたいと思ったことは一度もないですね」


「ほら、やっぱり。だったらそれはまっとうな兄弟愛ですよ。実嗣さん、全然それは変なことじゃないですよ」


「……そうなんですかね?」


「そうですよ。だって――兄弟でもなんでもない、幼馴染をずっと思い続けた、拗らせ人間が言うんですから。そこは信頼してください」


 えへんと、なぜか胸を張る田辺さん。

 その姿がどうして、また、ほんの少しだけ、愛しく私には感じられた。


 この人は優しい人だ。

 いままで会ったどの女性にもない、優しさを持った人だ。

 でなければ、こんなにも人の心に踏み込んでくることはないだろう。


 多くの女性が、私のことを愛せると言って、逃げるように去っていった。

 あるいは深刻な顔をして、自分の正解を私に押し付け、私から逃げて行った。


 けれども田辺さんは、私の内面に踏み込んで、それをそのまま受け入れて、その上で対等に自分に言葉をかけてくれる。


「まぁ、うん、これだけの材料で、全部否定するのは難しいか。けど、気にすることではないと思います」


「……田辺さん」


「よく分かんないですけど、自分がこうなんだって思うと人間終わりですよ。いろんな可能性があるんだから。弟大好きな自分を受け入れて、もっとニュートラルに見た方が気は楽だと思いますよ。少なくとも私は幼馴染についてそう思ってます」


「そうですかね」


「そうですよ」

 

 微笑む彼女の言葉に嘘はない。

 私に取り入るための虚言はない。

 そう、確信した。


 そしてそれと同時に――どうしようもなく私の胸は締め付けられた。

 異性に対してはじめて感じる、それは不明の感情だった。


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