第63話

「おらっ!! なぁに背中丸めて歩いてんだボウズ!! そんな俯いてても、道端にエロ本なんざ落ちてねえぞ!!」


 玉椿町は町全体がリング。

 いつだって、油断したら後ろからドロップキックが飛んでくる。

 そういうバーリートゥードゥなんでもありの町なのである。


 常在戦場の心持で田んぼ道を歩いていないと用水路にリングアウト。

 そして無情にテンカウントである。


 今日も元気だ、病気はどうした。

 廸子の爺さんこと誠一郎さんとビハインドエンカウントした俺は、気づく間もなく背中を蹴られて用水路に落っこちた。


 オラが町の水は湧水を引いてるから綺麗なんだな。

 ザリガニもタニシもいっぱいいるでよう。

 昔は廸子とよく遊んだもんだべ。


 って。


「なにすんだこのクソ爺!! 俺が引導渡してやろうか!! 病気患ってデバフかかった爺の相手なんざ、この俺でもできるぞ!!」


「おー、なんだ、珍しくやる気じゃねえかボウズ!!」


 ステテコ姿に腹巻して長靴。

 野良作業ファッションの誠一郎さんに向かって俺は構える。

 舐めるな、神原道場の道場主とはいえ、もはや齢七十を越えた爺である。


 対して俺はアンタの年齢の半分だ。

 若さが年月を凌駕する瞬間というのがあるということを教えてやるぜ。


 ここで会ったが百年目。

 俺は誠一郎さんに向かってとびかかり、そして、見事にカウンターを喰らって、また用水路にダイブしたのだった。


 とりあえず、格闘技のレギュレーションを整理する所から始めた方がいいと思う。


◇ ◇ ◇ ◇


「だっはっは、悪い悪い。ずぶ濡れだぁなぁ。いや、そこまでびっちょびっちょにするつもりはなかったんだ」


「だったら蹴るなよもう!! 爺さん、アンタホントに七十歳かよ!! 病気患ってんのかよ!! 元気過ぎじゃねえ!!」


「そのはずなんだけれどな。まぁ、三十代でも生きながら死んでるような奴もいるし、そこら辺はなんとも言えないんじゃねえかな」


「おれのこころのやみをさらっとえぐるのやめてくれます?」


 冗談じゃねえかよと俺の背中を叩く誠一郎さん。


 激戦終わってしばらく。

 俺と誠一郎さんは肩を並べて、神原家が所有する畑であぐらをかいていた。

 すっかりと牛糞の匂いが抜けたそこからは、穏やかな土の匂いしかしてこない。

 そんな上に、俺の濡れたTシャツを置いて天日干し。


 ひどい平日の過ごし方だなと思いつつ、俺は田舎のだだっ広い空を眺める。


 どこまでも水色。

 雲一つない快晴。


 都会じゃ見られぬ光景だ。

 きっと、都会で育った人間は、この空の青さに感動したりするんだろうけど、田舎で生まれてそこそこ見慣れた俺からすると、別になんでもないのよね。

 ただただ空ってだけ。


 田舎になんか特別なものがあるなんて考えちゃいけない。

 田舎には本当になにもないのだ。


 というか、特別なものがあるのはもともと田舎に居た人だけ。

 そして、あっても、たいていどうでもいいもの。


 幼馴染と、その爺さんでことあるごとに俺を蹴飛ばす埒外野郎とか、ね。


 はぁとため息を吐くとなんでえと誠一郎さんが睨みを利かしてくる。ほんと、そういうところがどうでもいいんですよと、俺はまたため息を重ねた。


 まぁ、誠一郎さんも空気の読めない人ではない。

 俺が本当に辟易していると察するや彼もまた視線を外した。


 もそりと、そのしわがれた手が、ステテコの胸ポケットをまさぐる。

 一昔前までは、そこから出てくるのはハイライトと決まっていたのだが。

 俺がこっちに帰って来てから、それは飴菓子の入れ物に代わっていた。

 タブレットから錠菓を掌に出すとそれを口に入れる誠一郎さん。


 深く息を吸い込んで吐き出すが、煙草を吸っている時のような、満足感はその顔の中になかった。


「……廸子に止められたんですっけ?」


「あぁ。長生きしたいならやめろってさ」


「したいんすか?」


「んー、したくねえが、しねえわけにはいかねえだろうよ、お前。孫娘が俺に泣いて頼んでくるんだぜ。放っておけねえやな」


 かぁ、と、渋いため息を吐き。

 それから、誠一郎さんは咳き込む。

 大丈夫ですかと問うと、大丈夫だと、ちっともそんな感じじゃないのに強がってみせる。健康だと、廸子の奴からは聞いていたが、それでもやっぱり、昔と比べたら随分弱っている。


 離れていたからこそ分かるのか。

 それとも、世話してもらっていたから分かるのか。


 なんだかんだ悪態をつきつつ、俺は、誠一郎さんにこの町で育てて貰った子供に間違いなかった。

 廸子という幼馴染を経由して、彼の薫陶を受けて育った子供に間違いなかった。

 そして、一度彼と町から離れた人間だからこそ、共に暮らしてきた孫以上に、分かるものがあるように思えば。


 たとえば彼が何を憂いているのか。

 たとえば彼が何をまだ背負っているのか。

 くたばっちまえばいいものを、まだ無様に生にしがみつくのか。


 もう一度、かぁと誠一郎さんは喉を鳴らす。


「どっかの誰かがよう、孫娘をさらって行ってくれてりゃ、気が楽なんだがな」


「……すんません」


「おめえに言ってねえよ。病人に誰が大事な孫娘をやるか。はよ治せ、馬鹿」


「……すんません」


「……そういうとこだぞ、おめー、陽介」


 ぎろりと光る爺の眼。

 ヤニに焼けた茶色い瞳が、ぐるり日の光を拾って揺れれば、その中に俺を移している。セピア色になった俺が泳ぐそれを真っすぐに見つめれば、誠一郎さんの顔がここ一番と引き締まったものに代わる。


 この人がこんな顔するのは、本当に怒った時だけだ。

 いや、本当に大切なことを言う時だけだ。


 その言葉に、俺は何度、人生における金言を貰ったことだろう。

 冗談抜きに、この老人の言葉に救われたことは数知れない。


 そんな顔をして、誠一郎さんは。


「いいんだよ、別によう。順序なんてバラバラで。お前の悪いところはよう、なんでもかんでも、こうでなくちゃいけねえっていう、筋道がねえと行動できねえところだ。そうじゃねえ。人生はもっと単純でいいんだ」


「……単純ですか?」


「したいからする。やりたいからする。そんだけだろ。道理だの筋道なんてのは、後からつけても問題ねえんだ。廸子さらって所帯持っちまってから、俺の所に挨拶に来たって、そりゃなんも間違ってない。病気治す前から一緒になって、二人で治していくのもかまわねえ」


 大切なのは何がしたいかだ。

 そう言って、誠一郎さんは俺に、メンソール系の錠菓が入ったタブレットを差し出したのだった。


 手を出す。


 土に汚れたその上に、こつりこつりと落ちた二つ部の丸い粒。口の中に含めば、ほんのりとした土の香りに混ざって、強烈なメンソールが鼻を抜けた。


 辛い。

 人生のように、辛い。


 きっと俺の心が正常ならば、その辛さの先に爽やかさだって感じられるだろう。


 なのに、な。


「……やっぱ、それはまだ、ちょっとできそうにないっす」


「……そうか」


「すんません」


「気にすんな。そうは言っても、人生、できねえことの方が多いんだから。俺だってよう、本当だったらここで煙草の一本でも出して、おめえに吸わせてやりてえところをこんな菓子で誤魔化してるんだ」


 えらそうなこと言ったが、所詮人生こんなもんさ。

 気負うなよと、誠一郎さんは俺に言った。


「……はい」


 と、その言葉には、俺もちゃんと答えることができた。


 やっぱ敵わんな。

 この人には。


「しっかしまぁー、メンソールは苦手だったんだがな。今じゃもっぱらこればっかりよ。人ってのは、変われば変わるもんだねえ」


「他のにはしないんすか?」


「んー、やだ」


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