ドーンヴィル、それぞれの初冬10

 ダガスランドでの二週間はあっという間だった。

 ヴァレルは忙しそうに動き回っていたが、途中何度かアレットのために時間を作ってくれて一緒に出掛けることもできた。それに、学生時代からの友人に夫婦で夕食会に呼ばれたとき「俺の大事な妻だ」なんて言ってくれて、それもこそばゆかった。気持ちが通じ合う前は彼のこの言葉も演技なのでしょう、と耳を素通りしていたから余計である。


 要するに遅れてやっていた新婚なのである。彼がアレットを見つめる視線の中に愛情を感じ取って、アレットはそれだけで胸がいっぱいになるのだ。毎日が暖かでまるで冬を通り越して春がやってきた気分である。


 とはいえ現在はやっぱり冬で、アレットの部屋は十分に暖められている。ダガスランドよりも北に位置するドーンヴィルに戻ってきて、その寒さを実感するアレットである。アレットは室内を見渡した。お客様を迎えるための準備は完璧である。お茶もお菓子も美味しいものが揃っている。外は冬だけれどせめて室内では華やかな気分になってほしいと思って薔薇のお茶を用意したのだ。カップに注ぐと甘い香りが鼻腔をくすぐるのである。添えたのははちみつとバラの花びらのジャム。お菓子はビスケットとマドレーヌである。一階の応接間だと堅苦しいので二階のアレットの私室にお茶の準備をしてもらった。


「ようこそ。クローディ」

「こんにちは。アレット様」

 アレットはクローディを招き入れた。今日の彼女は髪を降ろしている。

「ダガスランドはいかがでしたか?」

「楽しかったわ。夫と一緒に出掛けたの。魚市場に行ったり」


 アレットはダガスランド滞在期間中の話をかいつまんで話した。弟妹達に宛てた手紙も無事に出すことができたことも。妹アナベルには七蝶貝ななちょうがいで作られた櫛を送ることにした。アレットも同じものを買ってもらった。


「そうだわ。あなたにもお土産を買ってきたのよ」

 ほら、とアレットは同じく七蝶貝で作られた飾りボタンをいくつか取り出した。

 受け取ったクローディは目をぱちくりとさせた。

「こんな、頂くわけには」

「アマンダにも同じものを買ってきたのよ。女の子はこういう小さいものが好きでしょう。わたしもいくつか買ったの。室内着を作るときに袖口に付けてもらうのも可愛いと思って」


 アマンダにも同じものを、と言うとクローディは納得をしたらしい。そういうことなら、とまだ遠慮がちではあるが「ありがとうございます」とお礼を言った。それからしげしげとボタンを持って角度をかえて眺める。


「きれいですね」

「ええ。わたし海を見たのはお嫁に来る時が初めてで、それから三週間も船に乗ったのよ。大きな海には色々な生物が住んでいるのよね。本当に面白いわ」


 アレットはダガスランドに来てから食べた赤大エビやカキに当たったこと、魚市場では時折大きなサメが売られることがあるなどという話をクローディに聞かせた。シレイユからの受け売りがほとんどだが、クローディが興味深そうに話を聞いてくれるから話し甲斐があるというものである。


「あなたのおかげでフィリップに平角赤毛シカの絵を描いて送ることができたわ」


 アレットは前置きをして立ち上がった。今日彼女を屋敷に招いたのはお礼のためだ。アレットは部屋の隅に隠しておいた包みを抱えてテーブル席へと戻った。


「あなたへのお礼よ」

「え……」

「開けてみて」


 アレットは微笑んだ。どんなときだって贈り物を贈るときが一番わくわくする。相手がどんな顔をするのか、喜んでくるかなと思いながら品物を選ぶのが楽しいのだ。

 クローディは突然に手渡された包みに目を白黒とさせている。アレットがさあ、ともう一度促すとゆっくりと包みをほどき始める。現れたのは水彩絵の具と筆と紙である。


「これ……」

「クローディはわたしに絵の描き方を教えてくれたでしょう。それから、絵も描いてくれたから。そのお礼なの」

 クローディは画材一式を眺めて口をぱくぱくと動かしている。

「絵って、わたしは別に」


「あら、あなたの描いてくれた平角赤毛シカと薔薇の絵よ。とっても上手。特にね、薔薇の絵は素敵。ヴァレルから貰った薔薇だったからわたしとても嬉しくって」


 たくさん貰った薔薇の花束。花瓶に生け、部屋に彩を加えてくれた他にも押し花にしたり、乾燥させてポプリにもした。そして生き生きとした生来の姿をそのままに残してくれたのがクローディの描いた絵だった。黒鉛のみで描かれたそれは、けれども薔薇のみずみずしさをきちんと描いており、アレットの記憶を鮮やかに蘇らせてくれる。


「あれは別に……そういうつもりで描いたわけでは。たまたま部屋に飾ってあって目に留まったから描いただけで」

「わたしは嬉しかったの。だからこれはお礼よ」

「でも……」

「クローディは絵を描くことが好きなのでしょう。それとももう持っている?」

「まさか!」


「だったら是非取っておいて。これがあれば好きな時に絵が描けるでしょう。これからもたくさん描くことができるわ」

「そんなこと……」

 クローディが少し低い声を出した。アレットはどうしたのかと首を少しだけ傾むける。


「絵を描き続けるだなんてできるはずもありません」

「絵が好きなんでしょう?」

「好きだけじゃ無理です。それに、わたしはこんなものが欲しくて鹿の絵も薔薇の絵も描いたんじゃありません!」


 クローディはものすごい剣幕だった。一気に言いたいことだけを言って部屋から出て行ってしまった。アレットは呆然と見送った。喜ぶだろうと思っていたのに、彼女の眼は傷ついていた。泣きだしそうな顔をしてアレットを睨んでいた。

 アレットは一人取り残された。


◇◆◇


 その日はずっと心に重しが乗っているようだった。気もそぞろになっていることをヴァレルが見逃すはずもなく、夕食後二人きりになったときに「どうしたの?」と聞かれた。

 一応いつもと同じように振舞っていたつもりなのに。アレットは空笑いをした。


「アレット。気を使うのは駄目だよ。何かあったんだろう?」

 思いのほか真剣な声を出されてアレットは観念した。

「ええとね……。わたし、クローディの気を悪くさせちゃったみたいなの」

 二人で夫婦用の居間の長椅子に腰を下ろす。暖炉の火がぱちぱちと燃えている。

「クローディって、ああ絵の具を買ってあげた子だね」


 水彩絵の具を買ったことはヴァレルも知っている。彼女の描いた絵を見せたらヴァレルも上手だと感心をしていた。アレットはぽつりぽつりと昼間の出来事を話していった。喜んでくれると思っていたのだが、反対に怒らせてしまった。お礼が欲しくて絵を描いたのではない、とも言っていた。アレットのしたことは完全に余計なことだったのだ。アレットはただ、絵の上手なクローディに何かをしてあげたかった。自分に絵を教えてくれて、それから薔薇の絵を描いてくれた彼女が喜ぶものをあげたいと思ったのだ。水彩絵の具はいい案だと思った。油絵よりも手軽に塗れるし、なにより今後とも絵を続けていくのならあっても困らないと思ったからだ。それに黒鉛だけを使ってもあれだけ素晴らしい絵が描けるのだ。色を付けたらもっともっとよい作品を描けるのではとも考えた。せっかくの特技なのだ。これからも続けていくのだろうと思っていたのだが。


「わたし完全に押し付けだったのね」


 アレットがしゅんと肩を落とすとヴァレルがアレットの背中に腕を回して彼の方に頭を傾けさせた。アレットはされるまま、彼の肩に頭を寄せる。


「アレットはそのクローディという少女が喜ぶだろうと思って贈り物をしたんだろう?」

「ええ」

「なら、きみはそれでいいんだよ」

「でも……」

「どういう形であれきみは彼女の描いた薔薇の絵を気に入ったわけだし。鹿の描き方を教えてもらった。お礼をしたいと思うのは当たり前だ」

 ヴァレルの声はとてもやさしかった。アレットはそのまま耳を傾ける。


「次から人に親切にしてもらって、お礼をしようと思ったら相手に相談するのも手だと思うよ」

「相談?」

「なにか困っていることがあれば手伝うとか。どういうお礼なら気兼ねをしないとか。町の娘が突然に高価な絵の具を貰ったら、まあ、普通はびっくりするよね」

「あなた止めなかったじゃない」


 絵の具が高価なものだなんて知らなかった。それに、そこまでたくさんの絵具を買ったわけではない。画材屋でヴァレルにやんわりと止められたからである。突然にたくさん贈ると相手もびっくりするよ、と。


「うん。このくらいの量なら喜んでくれると俺も思っていたから」

 だから、もしかすると別のことで彼女の琴線に引っかかったのかもしれない、とヴァレルは呟いた。


「この件は俺が預かるよ」

「でも……」

「夫として俺からも一言お礼が言いたいからね」

「どうして?」

「俺の贈った薔薇を描いてくれたんだろう? 可愛い妻を喜ばせてくれたお礼を言っておかないとね」

「まあ。ヴァレルったら」

 ヴァレルがにこりとしたのでアレットは言葉に詰まる。


「わたしも学ばないといけないことがたくさんあるわね。お義母様がね、教会の子供たちに手袋と靴下を編んであげようとおっしゃったの。わたし、子供相手ならおもちゃのほうがよいのではないかしらって思ったのだけれど」


 相手が必要としているものを贈るということなのだろう。おもちゃよりも実用品を選んだのはエルヴィレアなりの気遣い、もしくは子供たちを世話する大人から今必要なものを聞き取ったのかもしれない。


「おもちゃを贈ることもあるよ。今年はそろそろ子供たちに新しい手袋を、という話になったんだろうね」


 ドーンヴィルにある教会では親を亡くした子供の面倒を見ている。エルヴィレアは数年前から慈善活動の一環として定期的に教会の子供たちのために寄付をしているのだ。

 アレットも、もっともっと視野を広げないといけないのだと夫の隣で物思いに耽った。

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