ドーンヴィル、それぞれの初冬5
クローディはグロシア夫人と一緒に夕暮れ時のドーンヴィルの町中を歩き、自宅へと帰った。母はすでに夕飯の準備の真っ最中だろう。すっかり遅くなってしまった。クローディはグロシア夫人に「ここで大丈夫です」と言って家まであと一歩の距離を走った。
家に帰ると母から「またこんな遅くまでほっつき歩いて」というお小言を貰ったが、深く問いただされないのは普段からクローディが絵を描くために外をふらふらしているのを知っているからだ。夕飯の下ごしらえは通いの女中が済ませてくれている。町の中でも比較的裕福な暮らしができているのは父が町役場で働いているからだ。クローディは部屋に荷物を置いて手を洗い夕食の準備を手伝った。食事の支度も、夕食を食べている間もクローディは気もそぞろだった。寝支度をして寝台に入った後もなかなか寝付けずにいた。同じ部屋で眠っている弟のエメルトはすでに夢の中だというのに、胸がどきどきしていて眠れそうもない。なにしろ、今日クローディはあの、アレット・カイゼル夫人と話をしてしかも彼女の住まいに招かれてお茶とお菓子をご馳走になったのだから。
もしかしたら全部白昼夢だったのかもしれない、とアレットは翌日の朝起きぬけに考えた。だって、良く考えたらおかしいではないか。あんなにもきれいな人がクローディの描いた絵に興味を持つなんて。両親からもいい顔をされていない趣味なのに。クローディはともすればぼんやりしてしまうところに鞭を入れて身体を動かした。弟を起こして朝食の支度を手伝い、細々とした家の雑事を母とこなしていると午前中はあっという間に過ぎて午後になった。時間の経過はどの人間にも等しくて、そして無情だ。本当にカイゼル家を訪れてもいいのだろうか、昨日のあれはアレット流の冗談だったのではなどと考えるのにクローディは念のため、と鞄の中に今まで書き溜めたスケッチを入れて出かける準備をしてしまう。
そっと家を出たクローディはどうか人と会いませんようにと祈りながらカイゼル家の屋敷へと向かった。今日はアマンダが来ると言っていたから、クローディの願いとはすなわちカイゼル家でばったり彼女と鉢合わせをしないということでもある。風に夕暮れの冷たさが混じり始めた頃合いを見計らってたどり着いた屋敷でクローディは途方に暮れた。こういうとき、どこから訪問すればよいものか。やっぱり正面玄関ではなくて使用人用の勝手口だろうか、そもそも奥様に招待されました、なんて言って信じてもらえるのだろうか。
悶々と悩んでいると灰色の髪をした、人形のように表情のない使用人が屋敷の外に出てきて「奥様がお待ちです」とクローディを屋敷の中へ連行した。
やはり夢ではなかったらしい。
応接間に通されたクローディの目の前には本日も大変に麗しいアレットが親しみやすい笑顔を浮かべている。クローディは落ち着かなくて背中に嫌な汗を掻いていく。目の前にはほかほかと湯気を立てるお茶と、クローディがこれまでの人生でお目にかかったことも無いような種類のお菓子の乗った銀の盆。アレットは「どうぞ、遠慮なくつまんで頂戴ね」なんて言うけれど、どうしたらいいのかわからない。昨日はまるい形の、中にクリームの挟まったクッキーのような、けれどもクッキーよりも口の中ですぐに解けてしまうような甘いお菓子だったから、つい摘まんでしまったのだけれど。今日は円い焼き菓子の上に果物が乗っているものや、クリームがたっぷり乗ったケーキが置かれている。甘いものには興味はあるが、粗相をしたら同じ部屋の隅に控えている灰色の髪の召使に視線だけで殺されそうである。
アレットは小さく首をかしげて微笑んでいる。
「あの! これ。持ってきました」
沈黙と場の空気に耐えきれなくなったクローディは鞄の中から紙の束を取り出した。用件をさっさと終わらせてしまえ、と考えたのだ。
「まあ。ありがとう」
アレットは華やいだ笑顔を作り、クローディの描いた動物画の紙をぱらぱらとめくっていく。興味深そうに眺め「これは、なんていう鳥? こっちのリスは?」などと描いた本人に質問をしていく。途中でアレットは一枚の紙に釘付けになった。
「角赤毛シカだわ。とっても素敵。わたしが一度見たままの姿」
アレットはクローディの描いた絵を褒めたたえ、それから「わたしにも描けるかしら」と問われた。クローディは、うーんと考えた。もしかしたらこの奥様は絵を習ったことがあるのかもしれない。お金持ちのお嬢様は色々な習い事をさせてもらえると自慢されたことがあるからだ。アマンダにである。だからクローディは特に何も考えず「練習をすればたぶん」と答えた。それを聞いたアレットは「そうよね」と頷いて、それから。クローディはアレットの私室へと連れていかれ、即席お絵描きの会が始まったのだった。
◇◆◇
翌日の午後もクローディはカイゼル家を訪れた。正面玄関の扉を叩くと召使が開けてくれ、そのまま二階へと案内された。灰色の髪の女性とは違う人間だ。
(それにしても……どうしてこうなったんだろう?)
クローディは階段をのぼりながら考える。理由は簡単だった。アレットの絵心が壊滅的だったから、の一言なのだが。奥様の話だとピアノは得意だけれど絵は苦手なのよ、とのことだ。幼少時に遊びで描くくらいしかしてこなかったらしい。それで突然弟のために鹿の絵に挑戦しようと思い立つのもすごいが。というか暇なのかな、とも思った。とにかくクローディの目から見ても斬新すぎて鹿には見えない鹿が何枚もの紙に描かれた結果、アレットは明日も練習に励むからコツを教えて頂戴ね、とクローディに頼み込んだのだった。
「いらっしゃい、クローディ」
「こんにちは。奥様」
朗らかな声を出す奥様は本日も麗しい装いである。深い青色のドレスはくたびれていない新品同様のもので、金色の髪の毛は既婚女性らしく頭の上でまとめている。
「アレットって呼んで頂戴」
「し、しかし……あ、ええと。じゃあアレット様で」
即座に拒絶しようと口を開きかけるとアレットの顔がみるみるうちに曇ったためクローディは負けてしまった。敬称をつければ問題ないか、ととっさの判断であるが、アレットの表情から翳りが消えたのでホッとした。
アレットは熱心な生徒だった。クローディは我流ではあるが、普段どういう風に動物画を描いているかをアレットに教えていった。大まかなあたりをとって、ざっと全体図を描いてバランスを見る。それから細部を描き加えていく、というようなことを言うとアレットはクローディの描いたお手本を食い入るように見つめ、封筒に入る大きさのカードに黒鉛を使って描いていく。アレットはたくさんの種類の便せんやカードを持っていてクローディは珍しくてついじっと見てしまう。こんな田舎町ではまずお目にかかることなんてできない、彩り豊かな便箋たち。きっと手仕事に違いない、美しい色で塗られた草花で彩られている。手持ち無沙汰気味のクローディに気が付いたアレットが「一緒に描きましょう」と言うからクローディは自分では絶対に買うことのできない質のいい紙を使って絵を描いた。
「クローディはわたしよりも少し年下かしら?」
「今十六です」
「次で十七?」
「はい。今度の四月で」
「わたしはこの間十九になったところよ。あまり変わらないわね」
いや、だいぶ変わるだろうとクローディは即座に感じた。だって、アレットはすでに結婚をしているのだ。これはクローディの中ではだいぶ大きい。自分と二、三歳しか変わらないのに彼女はもう嫁いでいるのだ。それも海を越えた遠い異国に一人で。
「フラデニアは遠いですか?」
「そうねえ……」
アレットは手を止め、別の紙を引っ張り出す。そこにすらすらと地図を描いていく。西端海によって隔たれた二つの大きな大陸。アルメートの向かいにあるのはディルディーア大陸である。そこにアレットは細かく線を引いていく。
「ここがインデルク、こっちがロルテームでここがわたしの生まれ育った国のフラデニア。下がカルーニャね」
昔学校で習ったことがある。しかし、その時のクローディにとって世界とはこの小さなドーンヴィルの町と町を取り囲む牧場や荒野、それから森だけだった。ダガスランドだって地の果てのように感じていたのに、海の先に大きな大陸があってたくさんの国があってなんて聞かされてもまるで他人事だった。けれどもこの若奥様は地の果てのように感じるダガスランドよりももっと遠いところからやってきたのだ。それは、一体どういう感覚なのだろう。クローディはまるで想像もつかない。自分の世界はこの狭い町と、せいぜいが近隣のグランストンくらいなものだ。
「想像がつかないです」
「そう? こことあまり変わらないわよ」
「まさか」
「わたしもアルメート共和国に移住するまでは不安なこともあったけれど。でも、いまわたしとクローディは普通に話をして一緒に絵を描いているでしょう?」
「……言われてみれば」
クローディは口元をほころばせた。そうだ。自分は今遠い異国からやってきた人と一緒に絵を描いているのだ。それってちょっとすごいことなのかもしれないけれど、普通のことなのかもしれない。だって、目の前のアレットはとても気さくで優しくて、クローディと普通に話しているから。
「ふふ。だいぶ様になってきたと思わない?」
じゃーん、と見せてくれた鹿の絵は確かに最初の頃よりずっと上達をしていた。
「来週にダガスランドに戻ることになっているの。手紙と贈り物を一緒に出したいから上達してよかったわ」
アレットは満足げに自分の作品を眺めて頷いた。
「帰られるのですか?」
「ええ。二週間ほど。でもまた戻ってくるわよ。夜会があるの」
そういえばそんな話をアマンダが言っていた。カイゼル家の夜会に招待されたから忙しくなるわ。ドレスを新調してくれるとお父様がおっしゃったの、とかなんとか。
アレットはクローディがこの短時間に描いた絵を見つめてほうっとため息を吐いた。
「クローディは絵が上手ねえ。画家を目指しているの?」
「え……」
無邪気な問いかけにクローディの思考が止まる。
と、そのとき扉が控えめに叩かれた。アレットが「どうしたの?」と問いかけると扉が小さく開かれ、彼女の侍女という女性が入ってきた。灰色の髪の女性だ。ソレーヌという名前の彼女はアレット専用の侍女という役職だという。召使とどう違うのかは分からないがアレットが彼女をわたしの侍女よ、と紹介したのだ。
「奥様。ウォーラム家のご息女がいらしています」
「今日は約束はなかったはずだけれど」
アレットがおっとりと首をかしげる。クローディの心臓が跳ね上がる。アマンダがカイゼル家にやってきたらしい。今日は誰との約束も無いというからアレットの誘いを受けたのに。
「なんでも刺繍で教えてほしいところがあるそうです」
「まあ、そうなの」
いいわ、通してあげてとアレットは続けてしまった。それから立ち上がり机の上を片付け始める。乱雑に散らばっていた書き損じの紙の束を一か所にまとめて片したり、道具を仕舞ったりする。
「じゃ、あ……わたしはこれで」
クローディはそろりと立ち上がる。アマンダと一緒の席とか、面倒な予感しかしない。さっさと退散するに限る。
「まだいいじゃない。クローディったらお菓子の一つも食べていないでしょう。料理番が張り切って作ったの。食べてあげて頂戴」
「で、でも」
アレットは天使のように邪気の無い微笑みを浮かべている。クローディは弱ってしまった。昨日みたいに用事があるから、と適当に言って部屋から出ればいいのだが、途中でアマンダと鉢合わせるかもと頭の一部で思い浮かべて二の足を踏む。結局ここでばったり顔を合わせるのも同じなのに、判断が遅れてしまうクローディである。
「奥様、アマンダ様をお連れしました」
「どうぞ」
かちゃり、と扉が開いた。
「アレット様、刺繍で教えてほしいところがありますの。淑女たるもの刺繍は嗜みですものね」
元気よく入ってきたアマンダはアレットに甘えた声を出したあと一瞬クローディの方に挑発的な視線を寄越してきた。もしかしたらクローディが先客としてこの部屋にいることをソレーヌが伝えていたのかもしれない。
「あら、どこがわからないの? といってもわたしも刺繍は……本当に嗜みくらいなものだけれど」
アレットが答えるとアマンダはアレットの横に椅子を持ってきて座った。丸テーブルの上に持参した刺繍の道具を取り出して、甘えるように高い声を出してここがわからないと訴える。ソレーヌは少女三人の座るテーブルの上に淹れたてのお茶の入ったカップを置いていく。クローディは完全に出て行く機会を逸した。しかたなくゆっくりと着席をしてアマンダとアレットのやり取りを眺める。アマンダが取り出した布きれにアレットが視線を落とし、口元をほころばせる。「ここは、こうやって。この糸をこうして」と教えていく。ソレーヌがアレット用の刺繍道具を持ってきた。「わあ、とってもきれいな指ぬき」とアマンダが弾んだ声を出す。たしかに陶磁器の指ぬきは金色や青や緑といった色で細かい模様が描かれている。クローディもしげしげと眺めてしまう。
アマンダはクローディがいないもののようにアレットにのみ熱心に話しかける。丁寧に教えてもらって嬉しそうにはしゃいでいる。反対にこの場の主人たるアレットの方はクローディとアマンダのどちらとも公平に話しかけてくる。
「クローディも何か刺してみる?」
「いえ。わたしは」
「刺繍の道具ならここにあるもの。好きなものを使ってね」
その瞬間アマンダがどこぞの悪魔もびっくりなくらいの形相をクローディにだけ見せた。
「わたしは刺繍は得意ではないので。絵を描いています」
「今度はわたしが教えてあげようと思ったのに」
少し頬を膨らませるアレットの表情にアマンダの顔がさらに強張る。
「アレット様。ここのやりかたも教えてほしいんですの」
アレットの関心がクローディに向くのが面白くないのかアマンダが大きな声を出して会話に割り込んだ。アレットがアマンダの方に顔を向ける。
「え、ええ、いいわよ」
その後もアマンダはたっぷりとアレットに甘えた。普段クローディたちに威張っている姿からは想像もつかないくらいにしおらしい。人が違えばここまで態度も変わるのか、という姿勢に呆れを通り越して感嘆してしまう。クローディはせっかくだし、と割り切って絵を描いた。上等な紙に室内に飾られている花をスケッチしていく。動物を描く前は動かない植物をよく描いていたな、と思い出す。野花とは違い室内に飾られているのは花びらが何枚も折り重なった薔薇で、はじめて描くそれはなかなかに手ごわい。クローディが夢中になって薔薇を相手に格闘している傍らではアマンダが「アレット様。わたし、またファッションプレートを見たいですわ」とおねだりをしていた。
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