こじらせ初恋のおわりに
アレットもほどなくして寄宿学校へと帰っていった。
そのあともアレットの日記には頻繁にヴァレルの名前が登場する。ヴァレルへ謝罪したいこと、もっと彼と話をしたいこと、アルメート共和国で、あなたはどんな暮らしをしているの、などと。
寄宿学校の話題に絡めてヴァレルとの妄想話まで飛び出してきて、ヴァレルは思わず赤面した。これではまるで……。
(まるで……いや、そんなはず……)
なぜだか妙に胸がむず痒くなってきた。
しかし、手を止めることが出来ずにヴァレルは十六歳のアレットの心の内を、追体験するように彼女の日記を読み進めた。
一年分読んで、十七歳、十八歳になってもアレットの日記には変わらずにヴァレルが登場し続けた。他の話題が出てもそれに絡めてしつこくヴァレルの名前が持ち出されるのだ。恋物語の登場人物にアレットぞヴァレルを当てはめての妄想に、ヴァレルからされたい理想の求婚シチュエーション等。
そうして、運命の日。
ヴァレルとの結婚が決まった日、彼女は日記にその想いを綴っていた。政略結婚だけれどヴァレルと結婚できることに対する喜び、そして結婚の裏事情とヴァレルからの言葉に対する彼女の心情。自分が蒔いた種なのだから仕方がない。ヴァレルに嫌われていても、わたしはまだあなたのことが好き。好きな人と結婚できるのだからわたしは幸せな花嫁だわ、と。
ヴァレルは思わず目をつむった。アレットに意図的に冷たく接していた。皮肉をたくさん言った。彼女はそのたびに傷ついていた。当然だ。ヴァレルはアレットを傷つけるようなことをたくさん言ったのだから。けれど、自分も傷ついたのだからおあいこだと思っていた。
それなのに。
「アレット……」
ヴァレルはアレットの書いた文字を指で辿る。
ヴァレルの本当の妻になりたい。お飾りだなんて嫌。でも、これはわたしがあなたを傷つけてしまったことに対する報いだから。どうしたらわたしの謝罪が彼に届くの。言葉じゃもう届かない。ごめんなさい。言ってしまったことは取り消せないけれど、わたしはあなたのことが好き。大好き。ずっとずっと好きだった。
アレットの率直な言葉がヴァレルの心に突き刺さった氷を溶かしていく。
ずっと解けずに残っていたものが、徐々に小さくなっていく。
(ほんとうに……信じてもいいのか……? アレット)
これがきみの本心だというのなら、自分の方こそずっとアレットに対して酷いことをしていた。それなのに、彼女はまだヴァレルを慕ってくれるというのだろうか。
ヴァレルは立ち上がった。
気が付けば日がだいぶ傾いている。室内に長い影が出来ている。
アレットはどこだろう。ヴァレルはふらふらと屋敷の中を彷徨い、妻の姿を探した。
彼女は屋敷の中ではなく、庭へ出ていた。大きな木の下で、上を見上げている。ヴァレルが一歩踏み出すとかさり、と葉っぱを踏んづけた音がして、アレットがこちらに顔を向けた。
「ヴァレル」
アレットは小さくつぶやいた後、すぐに視線を逸らした。
「アレット、日記を読んだよ」
「そ、そう……なの」
素っ気ない返事が返ってきた。アレットはちらちらとヴァレルとその横に交互に視線をやっている。
彼女はどことなく落ち着きない様子で、特に何かを言うことも無かった。
「あの日記……」
ヴァレルは言葉に詰まる。
なんて言えばいいのだろう。すごいね、なんていうか俺がたくさん出てきて。とか言うのは何か違う気がする。自意識過剰な純情少年のようではないか。いい年なのに、というか二十八なのに。
「全部……読んでくれた?」
「あ、ああ。まあ……」
「わたし、ずっと謝りたかった!」
「え……」
突然アレットが大きな声を出してヴァレルは身がまえた。
「ごめんなさい。初恋を指摘されて心にもないことを言ってしまって。それからあなたはわたしの言葉を信じてくれなくなった。当たり前よね。だって、あんなひどいことを聞いてしまっては、わたしのどんな言葉も作りものに聞こえてしまうもの。本当に、ごめんなさい。後悔している」
アレットの声が小さくなっていった。
最後の言葉を絞り出した後、彼女は頭を下に向けた。
「あなたに信じてもらえなくてもいい。でも、わたしはこれからもずっとあなたに宛てて日記を書き続けるわ」
「どうして」
「エルヴィレア様がおっしゃっていらしたの。亡くなった旦那様に宛てて毎日日記をつけていらっしゃるのですって。とても素敵なことだと思ったわ。だって、愛する人への恋文なのよ。わたしも、大好きなあなたに宛てて恋の手紙を書きたい」
「きみは……俺に恋文を書いてくれるというの?」
「もちろん」
アレットは可愛らしく微笑んだ。
「わたし、あなたのことが大好きだもの」
「ほんとうに……?」
「ええ。舞踏会あなたと踊れてとても嬉しかった」
「他の男とも踊っていたじゃないか」
「あなただって他の女と踊っていたわ。わたしがどれだけ悔しかったかあなた分かっているの?」
「俺だって。俺だってきみが他の男と踊っているのを見て何も思わなかったと思うの?」
「だってあなた言葉にしてくれないじゃない」
ヴァレルは一歩足を前に踏み出した。するとアレットも同じようにヴァレルの方へ足を前に出す。
「十六歳のきみに恋をしたんだ」
「わたし、あの夏にあなたに恋をしたの。わたしだけの秘密だったのに、ヴァレルと仲良くしているところを友達に見られていて……気が動転してしまったの。ごめんなさい、あんなこと言うつもりなかった。わたし、あなたのお仕事の話を聞くのが好きだったの」
「アレットを忘れようと思ってだいぶ馬鹿をした覚えならあるよ。けれど、きみのことが忘れられなかった。寄宿学校を卒業したきみが誰かに見初められると思うと耐え難かった。だから俺は公爵に取引を持ちかけた」
ヴァレルはアレットを引き寄せた。彼女はヴァレルの胸に体を委ねる。
「きみがどうしてもほしかった。それなのに、俺は自分が傷つくことを恐れて、きみの言葉を信じようとしなかった。そのほうが楽だから。酷い男だ」
「でも……今回は、信じてくれた?」
アレットが恐る恐るといった体で顔を持ち上げた。
薄い青色の水晶のような瞳が少し不安気に揺れている。
「日記に書いてあったことは本当のこと?」
「ええ。もっと早く見せればよかった。でも……ちょっと、ううん。かなり恥ずかしくって。だって、わたしの日記、あなたのことばかり書いてあるでしょう。人に読ませることなんてないって思っていたから、あなたへの愛の言葉でいっぱいなの」
アレットははにかんだ。
可愛らしい笑顔だと思った。
「たしかに、ちょっと恥ずかしかった」
「もう」
アレットはとんっとヴァレルの胸の辺りを小さく叩いた。
「でも、俺への恋文なんだろう?」
「ええそう。あなたのことばかり考えていたの。今もそう。あなたが無事でよかった」
「俺も、きみがこうして会いに来てくれて、もう一度会えてうれしい」
「ねえ、わたしたち、これから本当の夫婦になれる?」
「いまだって本当の夫婦だろう?」
「わたしのこと、愛してくれる?」
「もちろん」
「別の女の人に目移りしたら駄目よ。胸の大きい人は特に駄目。わたしだけを見て」
「俺の心はとっくにきみだけのものだ」
「ほんとう?」
「もちろん」
頷くとアレットはヴァエルの胸の中でくすくすと笑った。きゅっと頬をすりよせておもちゃを貰った子供のように嬉しそうな声を出している。ヴァレルはアレットを抱き寄せる腕に力を込めた。ヴァレルが欲しかったのもの。それは彼女のこの、無垢な笑顔だった。ヴァレルだけを慕ってくれる、自分だけの可愛いアレット。
「アレット、上を向いて」
「なあに?」
「愛している、可愛いレティ」
ヴァレルの言葉を受けて熟したリンゴのように真っ赤になったアレットの唇をヴァレルはさっと掠め取った。アレットは何が起こったのか分からないように呆けている。
その唇にもう一度重ねる。今度は長く、そして深く。可愛らしいアレットの声ごと飲み込み、何度も何度も口づけを繰り返した。
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