第9話 夜を徹した宴の果てに
さて宴が始まるともう大変である。
酒を無理強いされ、御馳走を食べ過ぎた二の君の婿、中務宮はついに吐いてしまう程。
式部卿宮は浅い木履の片方を何処かにやってしまい、いつもの謹厳さも失っていた。
「それでもあの時の涼の姿程じゃないね」
兵部卿宮はふっ、と笑う。
「それを言わないで下さいな、兄上」
そうあの時。
仲忠が我が子の生まれた喜びで、思わず琴を弾いてしまった時である。
普段の彼なら絶対にしない様な格好で飛び出してしまったのは、まだ新しい思い出である。
「……でもね、兄上。行正だって以前、下袴だけで、すねを出して走ったことがありました」
「ほぉ?」
「……まあだけど、そんな体たらくでもさすがに舞の師、不作法には見えなかったもので…… つまり、私は舞の師でも何でも無いもの。仕方ないですよ」
などと涼も少々拗ねて見せる。周囲もその会話を聞いて笑う。
正頼もふうん、と空を仰ぎ。
「そう言えば、うちの息子の中に、いつもより美しく正装し、笏を持って練り歩く様な時に、袴を括って出たことがあるな。誰だったかな」
該当する息子は思わずうわぁ、と両手をばたばたと振る。
「あーあ、実忠が出てきていればなあ。こういう時には、ぱっといい突っ込みをしてをして楽しませてくれたろうに」
民部卿がふっとため息をつく。それを聞いて正頼はふとつぶやく。
「……あて宮は今夜のことを聞いたらどう思うだろうな。こんな楽しい宴に招待もせずに。きっと父を恨むだろうな。先だって退出したい、と言ってきたのに、そうさせなかったし……」
耳聡い左大臣忠雅はまあまあ、とばかりに正頼を慰める。
「仕方ないですよ。いずれにせよ、東宮のご寵愛の深い今は、そうそう簡単に退出もできないでしょう」
それもそうか、と正頼もとりあえずあきらめる。
*
やがて管弦の遊びも始まった。
琵琶は式部卿宮。
箏の琴は左大臣。
和琴を中務宮。
笙の笛を兵部卿宮。
横笛を中納言。
大篳篥を権中納言が担当する。
仲忠はこの時やっと盃を持って中から出てくる。
紫苑の指貫、同じ薄色の直衣、唐織りの綾の掻練襲を身につけて現れたその姿は、今を盛りとばかりに非常に美しい。
下襲の裾を長くして、その端をひきずり、盃を取って仲間に入る。
すると兵部卿宮が目敏く見つけて声をかける。
「おお、珍しい。感心にも外へも出ずに、よく籠もっていたね」
その声に皆も気づき、皆の視線が仲忠に集中した。
いやもう全く見事な程の帝の婿君だ、と皆が思う。涼と比べたことがあったが、今では彼の方が、と思う者も多かった。
仲忠は杯を式部卿宮に差し上げる。宮はいい気持ちになり、こう詠んだ。
「―――この宿はいつも姫松が生えるので、今度も立ち寄りたくなる涼しい陰ですな」
仲忠はそれに応える。
「―――さあ、まだ男君が立ち寄る様な陰になるかどうかは判りませんが、姫はいつまでも美しく変わらずに居て欲しいと思います」
中務宮がそれを聞いて詠む。
「―――立派に成長して涼しい陰を作って、宮人がそこに親しく集まって楽しむほどにおなりなさい」
その後も皆が先を争う様に、仲忠の娘を祝った歌を次々と詠んだ。
「で、そのお子さんは何処に? 何でも最初が肝心と言いますよ」
式部卿宮が言い出す。
正頼は「ここに居ります」と答えた後、「輪台」という舞をしるしばかり舞った。
すると御前に居た近衛司の楽人達や舞人達、それに雅楽寮の楽人達が皆「輪台」の楽曲を奏しだした。
太鼓と鉦鼓、鞨鼓を鳴らし立てて一度に打ち、笙、笛、篳篥をも吹き合わせた。
宴の席、黒っぽい掻練の袙を一襲に、薄い藍色の斜文織の指貫、同じ色で同じ織物の直衣に、表が薄赤で裏が濃赤の下襲を身にまとった弾正宮が、杯を取って中務宮の所へ行く。
すらりと背も高く、物腰も気高く、その上匂う様な美しい振る舞いが心憎い程の彼が中務宮に杯を渡す。
弾正宮と同じ歳の二十三歳である中務宮は、前例がある、と言い奨められた杯を三度見事に飲み干した。
これを見た正頼は喜んでこう思う。
「いやあ見事なもてなし方。一体誰がこの宮を婿にするだろうな」
一方、左大臣忠雅は「婿君には何を肴にしよう」と催馬楽の「我家」を引きながら、箏の琴で面白くその曲を弾き出す。
式部卿宮も、忠雅と同じように思っていたので、杯を取って舞い始める。
弾正宮はそのまま民部卿宮達の下座に着いた。
杯が回されて行くうちに、正頼がこう言い出す。
「腰の曲がった翁の私にばかり舞わせて、それだけで済ませてしまうのですかね」
すると涼がくすりと笑うと立ちあがり、その場で舞い始める。
官位の上下を問わず、この様なことが色々あって非常に宴は面白いものとなっていた。
そのうちに、二十二になる四宮が杯を取って兵部卿宮に回す。
彼は赤みがかった綾織りの練絹の袙一襲に、表裏とも濃いはなだ色の指貫に同じ色の直衣、それに唐綾の表白で裏青の下襲を身につけている。色白で、若くてはち切れそうな程に大きく立派な身体をしている。現在は宮中に住んで居る。
彼は舞いながら杯を涼に渡す。涼はそれを受け取り、次に弾正宮に回す。四宮は弾正宮に続いて席に着いた。
正頼は彼らの様子を見ていたが、不意にこう口を開いた。
「この順の舞は、きまり通りでなくとも良いので、ご存知のところを一手舞っていただきましょうか」
「では私が」
すっと立ち、万歳楽を舞ったのは左大臣忠雅の長男の忠俊である。正頼はまたそれを見て嬉しそうに言う。
「いやいや、この千歳を祝う万歳楽で老年を忘れてしまうだろうな」
そしてまた一方、六宮も同じように杯を取って立ち上がる。
彼は紅の濃い練絹の袙一襲に、表が白、裏が葡萄染の直衣と指貫、それに表が蘇芳、裏がはなだの下襲を身にまとい、忠雅の方へ向かう。
歳は二十歳、ころころと、腕が短く見える程太って可愛らしい。彼は現在、祖父正頼の屋敷で暮らしている。
忠雅はその様に奨められるままに酒をたくさん呑み、また息子の忠俊にも奨める。それを見てまた六宮が舞う。
その中で不意にどう浮かれたものだか、頭宰相実正が「私も舞うぞ」とばかりに立ち上がる。皆おお、と彼を見る。俗楽が奏でられる中、ひょいひょいと滑稽な動きに皆が腹を抱えて笑う。
八宮は浅黄の直衣と指貫に、流行の桜色の下襲をまとい、忠雅に「もうお呑みなさるな」と優しい声で言う。
十七歳のこの宮が、幼くか弱そうに無心な顔でそう言うのに、さすがに忠雅も逆らえない。彼は形ばかりさっと舞うと、またさっと引っ込む。
その様子を見て忠雅はふふ、と笑う。受け取った杯は、面白い舞を見せてくれた、とばかりに実正へと回す。
さてその後に回ったのが兼雅だが。
「私はこの位しか舞は知らないなあ」
と言いながら「鳥」の舞を形ばかり舞う。
すると右近の幄から孔雀が、左近の幄から鶴が出てきて、一斉に楽器を鳴らし出す。
「こうなったら舞わざるを得ないでしょう」
兼雅は苦笑しながら繰り返し舞う。それにつられる様に、忠雅もまた舞い始める。
するとそこにちょこちょこと小さな宮が顔を出す。十宮である。
「おや可愛らしい。何処の子ですか」
知っていても問いかける。女御の末の子で現在四つ。
色白く美しくぷくぷくと肥えて、振り分けに結んだ髪に濃い綾の袿と袷の袴、それにたすきをかけて直衣の広い袖を背の方へと束ねている。
そんな子供に兄宮達は「誰なの誰なの」と問いかける。
「誰でもありません」
十宮は可愛い声でそう答えると、ちょこちょこと兼雅に近づき、杯を渡す。
兼雅は跪き、十宮を抱いて膝に乗せる。
ふとその杯を見ると、女御の字でこう書かれている。
「―――一夜だけでも久しいという鶴が目の前にちらちらするのですから、千年どころの騒ぎではありませんね」
いつもよりも美しく立派な書きぶりに兼雅の顔もほころぶ。
「ああ、久しぶりに女御の御手を見た気がする。……あれから二十余年にもなるというのに、大層上手になられたことだ。やはり並々のひとではないな」
じん、と感動の思いが感じやすい彼の心に響く。そしてその杯を懐にしまおうとすると。
「いけません。母上からこの杯にお酒を入れてらっしゃいと言われてきたのです」
十宮に止められた。
「んー、でもこれは墨がついてしまっているからね」
そう言うと彼は「こっちのが白いよ」と卓の上にある食器を代わりに十宮に渡す。
十宮は首を傾げつつも、そのままとことこと他の人々を回って行く。
周囲の人々は、兼雅のいつもと違う振る舞いににやりとする。中には昔のことを思い出したのか、ふふ、と笑うものも居る。
皆それぞれの思いを持ちながらも、どんどん十宮の杯に酒を注いで行く。
「ちょっと宮さま、お酒、多すぎませんか?」
そう心配する声もあった。実際杯の中は、溢れそうな程にいっぱいになっている。
だが小さな十宮はむきになってか。
「大丈夫です」
そうけなげに言うと、そろそろと兼雅の元へと持って行く。
「どうも、ありがとうございます」
兼雅は杯を受け取ると、十宮を再び抱きかかえ、次の人へと回す。
その時、順の和歌を行正が書いていたので、硯が近くにあった。
それに気付いた兼雅は、ちょっとした隙をつき、その硯と筆を側に引きつける。そして果物に敷いてある浜木綿の葉を取ると、こう書き付けた。
「ああ、何と久しぶりなことでしょう。
―――いつまでもいつまでもあなたの前に現れるであろう葦田鶴/自分も、どうして昔のことを忘れられましょうか」
そして十宮に「母上にね」と言ってそっと渡す。
何なのか判らないままに、十宮はこくんとうなづくと、そのままとことこと再び母の元へと戻って行く。
そんな一幕が演じられている間に、彼の息子に関する言葉があちこちで発せられる。
「それにしても、まあ皆歳を取っても学問はすることはするんだが、この仲忠は、真面目に一体いつの間に、この様に深い学問をしたのだろうね。こんな無礼講の席に出るのは、彼の本意ではないだろうな」
忠雅が言うと、正頼は扇をぱたぱたとはためかせながら笑う。
「いやいやそんなことは無いだろう。仲忠も今夜は大役だった。全く本当に」
「それじゃどうしてその大役の仲忠の座を低くするんですか。今夜ばかりは彼は上座に。さあさあ」
中務宮も言う。すると聞きつけた兼雅も面白くなり、息子を焚き付ける。
「さあさあ早く、皆さんもそうおっしゃってることだ」
仲忠はこの時、殿上人の座のある簀子に居た。そこから皆に押される様にして、上座へと移動させられる。
「さあさあこれから、御簾の内の女君達から、お食事のお残りを頂戴致しましょう。蒜の匂いのする御肴をぜひ頂きたいものです」
式部卿宮までもそう言う。続いて忠雅が。
「私も兼純も頂戴しましょう。どうか下さいませ」
「さあさあ、左大臣が仰らなくとも、遠慮なしに頂きに参りますよ」
中務宮も言う。兵部卿宮も高い声を張り上げて、あれこれと言い立てる。
*
次第にほのぼのと夜が明け始める。
その中を、行正が階を降りて「陵王」を繰り返し繰り返し、素晴らしく上手に舞う。
おお、と周囲の皆が驚く。
「これはまた、世の中で見たことも無い程、見事な手だな。どうしたことだろう」
「嵯峨院の大后の御賀には、宮あこ君が舞われたのが素晴らしかったのだが……」
「そうか、行正が伝えたのだな」
皆はあの折りの不思議を納得する。
行正はこの日、いい気分になっていたのだろう。普段は隠しているというのに。こうもあからさまに自分の手を披露してしまうというのは。
成る程、と皆が騒ぐ中、正頼の息子達は、客人達への被物を用意していた。
仲忠は宮達に一度に被物を取って渡す。それは皆、女の装束、産着、襁褓が添えてある。
涼も同じ被物を手早く持ち、未だ舞い続ける行正へと砂子の上に降りて渡す。
その様子がまた非常に美しく、人々の目には映る。
左右の近衛司の幄舎の人々は、行正の舞いや、その舞人に被物をする人々、殊に涼の艶に美しい様子を見てこう思う。
「色々と今日はあったけど、これこそ一番面白い見物だな」
被物は続く。
三位中将以上には白い袿が一襲、袷の袴が一具。
四位五位には白い袿が一襲。
六位には白い布で強く糊で張った狩衣。
下仕えには一匹の絹を巻いた「腰指」。
上から下まで、被物の趣味は大層素晴らしいものだった。
そのうち、それぞれの幄舎で唐楽の曲を演奏し、孔雀や鶴の舞いを披露する。
すると御簾の内に居る女君達―――一宮、女御、尚侍をはじめとてた、正頼の娘や御達、それに女房達が、騒いで見ようとする。
その御簾の中から、黄金を柑子ほどの大きさに丸めたのと、小さな銀の魚が二つ出された。
式部卿宮がそれを取り、孔雀に黄金の柑子を、鶴には銀の魚を与えた。
それぞれが、嘴でそれを挟んで舞う様はまた実に面白いものだった。
孔雀の舞人は、禄として袿を、鶴には白い綾の子供の単襲を一具与えられた。
この様にして、皆泥の様に酔って足をふらつかせ、先には転んだりして大変だった。
それぞれが沢山居る子供やお付きの者達に支えられて、よろめきながら戻ることとなった。
正頼も泥酔したのだろう、ずいぶんと大勢の人々を後に従えて屋敷の奥へと戻って行った。
兼雅もよろよろとよろめいている様子だったのを、これまたしどろもどろの仲忠に見送られて行く。
その仲忠は、と言えば、ずいぶんといい気分になっていたらしく、催馬楽の「酒を飲うべて」と歌いながら戻って行く。
あらあら、と女御は御子を抱いて奥の部屋へと逃げ込む。
そんな仲忠が入って行くと、一宮が鳥の舞を見ようと、寝所の柱を抑えて立っている。
「何してんの。はしたないよ~」
あら、と一宮は顔を真っ赤にする。そこで仲忠に見咎められるとは思ってもいなかったのだ。
と言っても当の仲忠自身、ずいぶんと酔っぱらっていて、普段とは様子が違う。そう言えば、母もいつの間にか消えているではないか。
「……はしたないと言えばあなたの方じゃないの? すごくお酒臭い」
「そんなこと言わないでよ。これもおつとめおつとめ……」
そう言いながら仲忠は寝所に座り込む。
そしてそのまま、一宮の手をぐっと引く。
「あ」
元々足に力の無い一宮である。引き寄せられるのも容易い。
仲忠はそのまま一宮を抱きしめる。
「ああ、もう最近ずーっとお産の後だからって我慢していたけど、もう我慢なんてできないや……」
さすがにその様子に、一宮は仲忠が何をしたいのか判る。まあ気持ちは判らないでもない。
でも一応こう言ってみる。
「私疲れているのよ」
「いいじゃない。一宮は何もしなくていいから……」
「ん、もう……」
熱い男の力に、一宮はそのまま崩れ落ちて行く自分を感じる。
何となくなし崩しという感じもするが、まあこのひとだし、と半ばあきらめ、半ば愛しさが、一宮の手を仲忠の背に回させる。
そんな二人の様子を聞くともなし、寝所の外で伺ってしまった尚侍も、呆れた様なため息をつきながら兼雅の休んでいる方へと行く。
全く男達ときたら、いつまでたっても。
その後を、一宮の乳人子や典侍が装束の後片づけをしていた。
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