第7話 仲忠くん、生まれた子にめろめろ、そして一宮に甘えまくる
その音は、無論涼が休んでいる北東の大殿にも聞こえてきた。
はっとして飛び起きる涼に、横に休む今宮はどうしたの、と眠そうな声を掛ける。
彼女もまた産み月が近いこともあり、こちらはこちらで連日大騒ぎだった。
それだけに、涼自身も少々疲れており―――その音に気付くのに、少し遅れた。
「これは……」
「琴…… かしら」
寝ぼけ眼の今宮もすぐに音の正体には気付く。
「これは…… 仲忠だ」
「仲忠さま?」
「うん、そうだよ今宮、これは仲忠の音だ」
「え? でもあの方、滅多に弾かないのでしょ?」
「確か今日――― そうか! おめでたいことがあったんだよ!」
「生まれたのね!」
今宮は起きあがって手を叩く。
「そうだ、そうだよ! それもたぶん女の子!」
思わず二人は手を取り合う。
「ああ見たいわ、私!」
「君は女だから、子供は後でもゆっくり見られるよ。それよりまず今は仲忠の琴だ!」
「そっちなのあなた! ああ全く琴に関しては皆もう!」
「男は皆馬鹿なんだよ。でも耳を澄ませているといい。皆外へ行ってしまってこっちは出てても大丈夫だろう。きっと素敵な音が聞こえてくる」
そう言うと涼はともかく着物と冠を手に外へと飛び出した。
途中で冠を頭に置くことはできたが、さすがに簀子を走る中では指貫も直衣もまともに着ることはできない。
「おやおやおや」
「天下の色男がまあ」
その場に集まってきた上達部達が思わず苦笑する。普段の彼からは考えつかない様な乱れ方なのだ。
「仕方ないじゃないですか。仲忠の奴、この友達の私にすらお産が今日だ、ということを言ってくれないんですから。いやあなた方も同罪ですよ! 誰もかれももう……」
「いやいやいや、そちらはそちらでお産で慌ただしい、ということで皆差し控えたのでしょう。それより早くお姿を整えなさいな」
はいはい、と涼は石畳の上で衣服を整える。
そのうち仲忠は堂々とした曲を思い切って高い音で弾き始める。
と。
ざわざわと周囲がざわめく。風が吹いてきた、という声。空が荒れてきた、という声。
ああこれはまずい、と彼は気付く。いくら嬉しくとも、自分の「本当の音」はこの場では弾けない。弾いてはいけないのだ、と。
自分の音は幻想を作り出す。その場に居る者達はともかく、この懐の愛しい子にまで聴かせてはならない、と。
仲忠は琴を尚侍に渡す。
「どうしたの」
「
何をいきなり、と尚侍は驚く。だが彼女とて、かつて「なん風」を山で弾いた時に不可思議なことを体験した身である。息子の手にある程度何かを感じていたことは間違いない。
彼女は寝所の床から降りると、琴を受け取る。そして一曲だけ、と奏で始める。
「……ああ」
一宮はその音が耳に飛び込むと共に、目をふっと伏せる。
何と心地よい音なのだろう。仲忠の音もとても素晴らしいけれど、尚侍の音は、それだけではなかった。身体が感じている苦痛も、それによって生じた心の疲れも、全てが何処かへ行ってしまうかの様だった。
「何となく、うきうきとした気持ちになりますわ」
女御もそっとつぶやく。
「命が延びる思い。お母様、起こして下さいな」
女御は驚く。
「大丈夫?」
「ええ。尚侍さまの音を聞いたら、何か身体に力が湧いてきて」
中の動きを感じた仲忠は慌てて問いかける。
「一宮、苦しくはないの?」
「もう大丈夫。この音を聞いたら、途端に元気になっちゃったわ」
「そうなんだよ。これがずっとあなたにも聞かせたかった、母上の音なんだ。誰もが元気になってしまう」
「ああでも今起きてはなりませんよ、一宮」
女御はすっと風が入り込んで来るのに気付く。曲が終わった尚侍もまた、一宮を寝かせようとする。
「風邪をひかれます」
「…皆心配しすぎだわ」
「僕も心配だから、今はゆっくり休んで欲しいよ」
そう言うなら、と一宮は再び横になった。
その枕元には弾き終わった琴が元の袋に入れられ、守り刀と一緒に置かれた。
*
やがて夜が明けたので、格子を全部上に吊し上げて明るくし、外から見えない様に几帳を立てていると、一宮の同腹のきょうだい達が崩れる様に一緒に階を降りた。
そして正頼の息子や婿達と共に、皆並んで祝いを言うために拝舞をする。
なのだが。
仲忠は未だに生まれた赤子に夢中で、拝舞の答礼もせず、ひたすら子を抱いたままだった。
内裏からは頭中将を使いにして帝からの消息があった。
「無事ご安産で、目出度く有り難いことがいろいろ起こる様子、この上なく嬉しく思う。こういう時には慣例として朝臣を昇級させる筈だが、その欠員が現在は無いのが甚だ残念だ」
などとあった。
お産は喜ばしいことではあるが、血の汚れもあるので、帝の消息を受け取る時の普段の作法もしない。しかし勅使ではあるので、仲忠も階から降りて拝舞し、返事をする。
またその一方で、蔵人式部丞を使いにし、尚侍の所にも文があった。
「頼み甲斐の無いひとと思われない様に、と思っていたが、心ならずも無沙汰してしまったことを許されよ。
あの初秋の日のしみじみとしたそなたとの対面の時に僅かに弾いた琴の音を忘れがたく思ったからこそ、時々参内せよと申して、公の役につけたのだ。
しかしあなたの夫君はそれを見抜いたのか、実によくあなたの参内を抑えたものだと思う。
私の所でこうあればいいと思ったことが、そなたの所では色々とあるのも、非常に羨ましい。
女一宮のことも心配になるが、女御に加えそなたまでが世話をしてくれたということで、宮は苦しみも忘れただろうと心強く思う。
それにしても、私の出歩きがもう少し容易であったなら。そうしたらそなたの傍らへとすぐにでも行かれるのに。
そなたは内裏には来ないつもりの様だから」
それを見た尚侍は少し困りつつも、返事をしたためた。
「畏れ多いことでございます。女一宮のお側に居りますのは、仲忠が私を力にしておりますが故。私などは数の内にも入らないも者でございますが、せめて雑役でも人と一緒に致そうと存じまして参りましただけのこと。
……何やら色々と仰せられますのは一体どういうことでございましょう。私もとうとう孫を持つ身となりましたので、齢比べでも、とお見えなのでしょうか。
参内致しませんのは、こういう里住みでさえまだまだ私には不慣れな気持ちが致しますので、ましてや晴れがましい内裏に参上致しますことなど、気後れが致します。
誠に勿体ない仰言を返す返す御礼申し上げます」
この文の使いにも血の汚れのために禄は差し控えた。
*
やがて赤子に乳を呑ませる時刻になった。
まず仲忠が自分の懐に入れたまま、赤子に薬をふくませる。
最初の乳を含ませることになっている、連純の北の方が既に待機している。そこへ
その後の乳母も既に決まっていた。一人は民部大輔の娘、あと二人は五位程度の者の娘達。
産湯を使わせる儀式の段になると、全てに
浴室に設えた所には、東宮の若宮に迎え湯をした典侍が白い綾の生絹に単襲の袿を上に着て、綾の湯巻きを湯漕にも敷いた。
一方尚侍は、ここでも甲斐甲斐しくお世話をする。迎え湯の役である。彼女もやはり白装束であるが、裳唐衣も付け、その裳を腰巻に結び込むという勇ましい姿である。
仲忠は白い綾の袿を一襲、同じく白の直衣指貫姿で魔除けの弓を弾いている。
正頼の子息達も同じ様に弓を弾く。
白一色の厳粛な雰囲気の中、女御が赤子を抱いて差し出すと、尚侍がそれを抱いて典侍に渡す。そこでやっと産湯を使わせる。
迎湯のために待つ尚侍の姿は、実に生き生きとして美しいものだった。髪は裳に少し足らない位だが、白い装束の上につやつやとした黒い髪が隈無く広がる様は類い希なるものである。
とても今孫を持った様な女性には見えない。せいぜいがところ二十歳を少し過ぎた程度――― 子のはずの仲忠と年二つくらい離れた姉の様にしか見えない。
やがて典侍が産湯を使わせ終わり、赤子を尚侍に手渡す。
「……いやぁ、昔から長年、こういうお子さんを見ておりますが、この赤さんより大きくって、身体の汚れも少しもつけておいででない方はいらっしゃいませんよ。この赤さんは二月も湯浴なさった様に綺麗でいらっしゃいます」
「僕がついていて、始終懐に入れていたからでしょう」
まあ、と典侍は仲忠の言葉にやや呆れる。
「私がお付き申し上げておりますから、大切にお扱い申し上げます。たとえ親の方でいらっしゃいましょうとも、ここからはお離れ下さいませ。御子は女でいらっしゃいますから」
「いや、何、その所を上手く取り繕ってくれないかなあ」
典侍はこんなひとは初めてだ、と思う。
「何をしていらっしゃいますか。女御さまが早く赤さまを、と」
判ってはいるが、側に仲忠が居るのでなかなかそれができない。
「仕方ないわ」
尚侍がさっと赤子を取り上げて、几帳の中へと入り、一宮の側に寝かせた。
するとそのまま、仲忠までも入って来る。
「仲忠、あなた、何ですか、人目もあるというのに」
「いいじゃないですか」
駄目だこれは、とばかりに女御はすすす、とそっと一宮の前から外に出てしまった。
「女御さままで出て行かれてしまったではないですか」
尚侍は呆れて息子に向かってつぶやく。
「あんまりここのところ眠ってないんだ。宮の側で寝たいんだよ。いいだろう?」
今度は母ではなく、妻に向かって仲忠は言う。母ははあ、とため息をつく。
「何を馬鹿なことを言っているの。じっとしてらっしゃいな」
だが既に仲忠は一宮の隣に横になると、そっと囁いた。
「こういう子がまた欲しいな。今度は男の子がいいな。この子はあなたに良く似ているから、今度は僕に良く似た」
「何を言っているの。こんな怖いことまたさせようって言うの?」
一宮はお産の苦しみを思うと、しばらくはこんなことはこりごりだと思う。
そう彼女は、初めての体験に既にへとへとだったのだ。
確かに尚侍の琴で元気にはなった。だがそれはあくまで一時的なもので、長い妊娠期間の間だの疲れが取れた訳ではない。
全く男のひとというものは。
呆れた様に一宮は夫を見る。すると既に仲忠はすうすうと眠ってしまっていた。
確かに疲れていたのだろう。気を張ってずっと出産を待っていたのだから。それ以前もひたすら彼女の身を気遣って、世話の殆どをしてきたのだから。
彼女は少し前のことを思い出す。
「さすがにそこまではしないわよ」
と、やはり妊娠中だった今宮も驚いた程だ。
「じゃあ、あなたの涼さまはどうなの?」
「普通よ。いたわってはくれるけど、それ以上のことはないし。ああただ物語本とか今までよりねだると沢山持ってきてくれるわ」
結構愛されてるじゃない、と一宮は思ったものだ。今宮の好きなものを良く知っている。彼女のことを良く知ろうとした上での計らいだ。
だが仲忠のそれはやや違う。
仲忠が妊娠中の一宮に熱心に尽くしたのは、確かに愛情かもしれない。だが一宮の気持ちを考えたものではない。
「そんな苦そうなもの」
「そうは言ってもね、身体にいいんだから」
そういう言葉で食べさせられたものがどれだけあったろう。実際それで身体の調子が良くなったことはあったが、何となく一宮は首をひねる部分もあるのだ。自己満足じゃないか、と。
だからと言って彼が嫌いになるという訳ではない。人目をわきまえない程のあからさまな喜びなどは可愛らしいものだと思う。
ただ、もう少し自分の気持ちになってもみろ、と思いたくなるのだ。
二番目の子はもう少し後がいいわ。それまでは私とこの子に彼の気の済むまで尽くしてもらおう。
彼女はとりあえずそれで心の折り合いをつけた。
隣では夫が、実に心地よさそうに眠っている。
やがて寝所の西方にあたる母屋に設けられた御座所に、大宮や妹の宮達が集まってくる。皆姉の子がどんなに可愛らしいのか、少女らしい思いをめぐらせている。
一方、西の廂に尚侍の控えの間として設けた部屋には、兼雅がやってきた。お産の様子や、その時の仲忠のうろたえ方などを話すと、兼雅は大きな声で笑った。
ちなみに尚侍の元には大人十人、童と下仕えが四人づつ控えている。彼女の召し上がり物は正頼方から出された。
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