第6話 女一宮出産、大きな可愛い赤子の誕生に仲忠思わず琴を弾く

 やがて産み月も近づいて来て、母である仁寿殿女御が帝に退出を願い出た。

 帝は問う。


「いつが産み月なのだ?」

「十月頃ですわ」

「おお、では行くが良い。あなたは前々から身籠もったひとを何かと看護してきたからね。一宮の様子はどうだね」

「はい、何も御案じなさることはございません。何でも仲忠どのがもう一宮の懐妊以来、ずっと外にも出ずに付き添っているということです。仲忠どのだけではありません。誰も彼もが大切にしてくれるとのことです」

「うーん、そう言えば一宮の顔も久しく見ていないな。どの様になっただろう。また人妻となって、変わったかな。仲忠と一緒に並んでも似合いの夫婦に見えたがね」

「よその方の目にはどう映るかは判りませんが、それでもまあだいたい合っているのではないでしょうか?」


 ふふ、と女御は扇を口元にあて、笑う。


「前に宮と会った時にも、髪ももう長くなって、袿に余っているくらいでしたわ。姿も決して衰えたりしてはおりません」


 そうか、と満足気に帝はうなづく。


「女二宮はどうかね?」

「あちらも帝によく似ておりますのよ。可愛らしいですわ。まだ少々小さいですが、一宮にも劣らないでしょう。そうそう、どちらかというと、一宮よりはふっくらしてますわね。親しみやすい感じですわ」

「うーむ。やっぱり場所柄かね」

「場所、ですか?」


 女御は小首を傾げる。


「ああ。娘を沢山育てている正頼の館であるから、そなたの生んだ娘達は、他の子とは違うのだろうね」


 恐れ入ります、と女御は父を誉められたことに対して恐縮する。


「では安産である様に、私も祈っているよ。思うままに大勢の御子を安産してそなたに一宮があやかることを」


 はい、と女御は大きくうなづいた。



 その様にして女御は三条殿に退出するとすぐに、一宮と仲忠の暮らす中の大殿へと向かった。


「お母様!」


 気付いた一宮はぱっと顔を上げると、嬉しそうに目を細める。


「あらあらまあまあ、ずいぶん痩せてしまって…… 大丈夫? お父上の帝がずいぶんと心配していらっしゃいましたよ」

「大丈夫ですわお母様。ただちょっと夏の暑さが堪えたから」

「そう。痩せても何でも元気ならいいですけど」


 そのまま、顔をよく見せて、と側に寄る。ああ美しくなった、と女御は感心する。それはまるで、美しく盛りの桜の花が朝露に濡れている様を思わせた。髪は、磨きをかけた様につやつやと輝き、豊かなそれが揺れる様子は、玉が光るかと思われた。

 赤い唐綾の表着を一襲身につけ、脇息にもたれかかる姿は、あの藤壺にいる妹に勝るとも劣らないだろう、と女御は思う。


「仲忠どのとはどう?」

「お母様聞いて下さいな」


 何か不都合なことでもあったのだろうか、とふと母は不安になる。


「さすがにこう毎日毎日ずっとべったりでは、私も疲れてしまいますわ。時々遊びにでも出掛けてもらわないと」

「また贅沢な悩みね!」


 くすくす、と女御は笑う。


「冗談です。あのひとはともかく私が心配なのです。それでずっと何かと世話をしてくれるの。食事の用意もだけど、このままだと何か、お産の時にも付き添って来られそうな勢いよ」

「あらあらあら、それはさすがに駄目ですよ。確かにそこまで思ってもらえるのはとても嬉しいことだけど、男性の方は産屋には入ってはなりません。その位のことは、仲忠どのもご存知でしょう」

「そうでしょうか。知ってはいても、それどころじゃあない、とばかりに入ってきそうな勢いですわよ」


 半ば面白がっている様に、一宮は母に向かって話す。


「でもそれじゃあさすがにまずいですよ。宜しい、私がそのあたりはあのかたに話しましょう」

「お母様、わざわざそこまでなさらなくとも、一つ私に考えがあるのですけど」

「なぁに?」


 耳を貸してね、と娘は母を招き寄せる。女御はそっと娘に近づく。


「ああ成る程。それなら仲忠どのも安心なさるわね、きっと」


 そうでしょう、と一宮は笑った。


「ああそれと、今宮のことも忘れないでね。涼さまが何かと準備をさせているとのことだけど、皆一宮のことで手一杯で」

「妊婦さんが余計な心配をするのではないですよ。抜け毛が多くなっても困るでしょ」



 やがて産屋が三条殿に作られる。

 白い綾をはじめ、手回り道具を全て白一色の銀に替える準備がされる。

 産み月の二月ほど前から不断の修法をさせ、万の神仏に祈りを捧げる。

 さすがにこの頃になると、仲忠も「させておけ」という気分になっているのか、ただもう一宮の近くで心配そうにしているだけであった。



 そしてとうとう十月二十日に、一宮は産気づいて苦しみ始めた。

 東宮の宮達が生まれた時に使った場所をその時同様に産室として用意し、一宮はそこに移される。


「どうですか、一宮さまのご様子は」

「母上」


 五台の車を使って、仲忠の母尚侍も手伝いにやってきた。仲忠は母を車から下ろし、一宮の居る寝所の中へと案内する。

 祖母である大宮もやって来るが、臨時の居間を別に据えて、寝所には入らない。

 仁寿殿女御はやってきた尚侍の訪れを嬉しく思ってこう言った。


「相撲の節会以来ですわね。何もご遠慮は要りませんわ」


 尚侍もそれを聞いて嬉しく思い、結局二人だけで産婦の世話をすることとなる。


「痛みますか? 宮」

「それほどではないけど…… でも、……でも、怖い!」


 それは当然だろう、と二人の母は顔を見合わせる。何と言っても初めての体験なのだ。

 外には仲忠の父、右大将兼雅もやって来る。館の主人である正頼やその子息達は簀子で悪霊などが取り付かないように、弓弦を打ちながら控えている。

 それよりやや内側、格子の内の廂には一宮の兄弟達が、そして仲忠は寝所の前でやはり弓を引いている。

 内裏の帝からは一宮の無事を訊ねる使いが何度も往復する。藤壺のあて宮からも使いがあった。

 三条殿ではこの辺りに他の女君達の婿達が来ない様に、邸内の他の町と間、中門には鎖をさしている。

 その様に皆が緊張して待っている中、寅の刻の頃に、産声が周囲に響きわたった。

 慌てた仲忠は、ばっと寝所の帷子を掻き上げ、問いかける。


「……み、宮! 女の子ですか、男の子ですか!?」

「何です仲忠、いきなり! 失礼ですよ!」


 尚侍の叱責が飛ぶ。そのまま彼女は女御の陰に隠れてしまう。

 仲忠はそんな母の言葉には構わず、女御が妻の世話をしているのを眺める。一宮は母にもたれかかり、ほっとした表情になっている。

 母女御は白い綾の装束に、髪を耳挟みにして、甲斐甲斐しく娘を支えている。その様子は実に落ち着いて頼もしいものであると同時に、気高く愛らしいところがあって、非常に美しいものである。

 一方の尚侍もまた同じ白い装束で、女御に劣らず美しく立派な様子である。


「一宮は如何ですか?」


 女御はその問いかけの意味を察したのか、即座にこう答える。


「まだお腹にものが残っております。でも大丈夫」


 その言葉通り、後産もすぐ無事済んだ。その様子を仲忠はじりじりとしながら見守っている。

 全てがすっかり終わってしまった時、ようやく尚侍は息子に向かって言う。


「夜目にもはっきり判りますよ。女の子です」


 ぱあっ、と仲忠の顔が輝いた。


「本当ですか」

「ええ。すぐにお目にかかれますよ」


 彼は思わず、その場に立ち上がり、万歳楽まんざいらくを踊り始めた。

 繰り返し繰り返し舞うその姿に、一宮の兄、弾正宮が大笑いする。そしてそれを合図の様に、兄弟達もその舞いの曲を高麗笛で吹き始めた。


「何事ですか」


 笛の高い音に驚き、簀子で控える正頼が問いかける。弾正宮はそれにはさらりと答える。


「仲忠が高麗舞をしたので、我々はそれに合わせただけです」

「それだけですか?」


 兼雅が実に物足りなさそうに問いかけたので、周囲がわっと湧いた。

 起こっていることの意味を察した正頼は仲忠に向かって笑いながら言う。


「万歳楽は舞い果てるのが良いのだ。途中で止してはならないぞ」


 仲忠もそれには異存は無かったのだろう。再び立つと、これ以上は出来ないだろう、という程の妙技を尽くして舞い果てた。

 正頼は仲忠に、鶴の浮紋のある織物の直衣を被ける。仲忠はまたそれを受け取りながら、拝舞をする。

 そうしている内に、寝所の中ではまた少し変化があった様で、尚侍が仲忠を差し招いた。


「誰か来て下さいな。へその緒を切らなくてはなりません」

「ああ母上、何が僕にできる? 誰にでもできることなら僕にもできるけど。あ」


 仲忠の視線が切られたへその緒に向かう。


「これはこれはまた、ずいぶんと見苦しい蝸牛だ。ええと、母上、何が入り用なのですか?」


 跪いて仲忠は問いかける。


「あなたの下に履いているものを一つ下さいな」

「え、これを?」

「早く」

「え、ええ……」


 驚きながらも彼は穿いていた指貫さしぬきを脱いで母に差し出す。


「いいえ、もう一枚」

「もう一枚ですか?」

「ええ必要なの」


 母の笑顔が厳しい。仲忠は指貫の下に穿いていた表袴をも脱ぎ、「長生きをする様に」と祝いの言葉と共に母に渡した。

 仲忠はその足で、あて宮の皇子達の住む場所の方へ向かった。代わりの袴等を調達しなくてはならないのだ。

 御衣桁みぞかけへと立ち寄ると、そこに控えていた女房達がどっと笑った。


「色々と大変な夜でね」


 仲忠は半ば照れ隠しの様に女房達に言い、代わりのものを頼んだ。あて宮の使いでこの日やって来ていた孫王の君は、そんな彼に向かい、くす、と笑う。


「大変な夜だからこそ、立ち走りやすい格好にさせられたのでしょう」


 意地悪、と仲忠は彼女につぶやきながら、代わりの袴や指貫を身につける。

 そうこうしているうちに、尚侍が生まれたばかりの赤子を綺麗に拭いて、切り立てのへその緒を袴に包む。

 そしてようやく赤子を抱く。

 その様子を気取った仲忠は、一宮の寝所の側に跪いた。


「まず僕に抱かせて下さいな」


 まあ、と尚侍は驚いた声を出す。


「そんなことできますか。どうして外に出られましょう? 判らないひとね」


 そこで仲忠は帷子かたびらをかぶる様にして、上半身を中に差し入れる。


「あ、大きい……」

「でしょう?」


 女御もそう言って微笑む。


「大きくて――― 首も太くて…… 子犬の様にしっかりして…… ―――うん、可愛らしい子犬みたいだ」

「まあ」


 くすくす、と尚侍は笑う。


「でも可愛い。本当、可愛い」

「ええ全く。こんな、生まれたばかりで可愛らしい子は滅多にありませんことよ」


 幾人もの子を生んだ女御は自信を持ってそう言う。


「ああ…… でもこんなに大きい子だったからこそ、一宮、あなたがこんなに苦しんだんだね。ありがとう、本当にありがとう」


 そう言いながら彼は赤子を懐に入れた。

 やがてその様子を見た正頼が、自分にも抱かせてくれ、と寄って来る。


「すみません。今は誰にもお見せできません」

「おやおや」


 困った奴だ、と正頼は思う。何はともあれ自分はその子の祖父なのに、と。

 だがすみません、とそれでも照れ臭そうに笑う仲忠の姿があまりにも可愛らしかったので、まあいいか、と思うことにした。


「今から誰にも見せないつもりなのだな。大変な姫君だ!」


 仲忠はともかく手の中の赤子をいつまでも離さない。


「珍しいの? そんなに」

「うん…… それだけじゃないよ。母上。うん、とっても――― とっても、……」


 仲忠は言葉に詰まる。どう言っていいのか判らない様だった。尚侍は驚く。

 一方一宮はほんのりと笑う。よかった、と思う。仲忠があんな表情を見せてくれるなら、甲斐があったと思う。


「母上、あの『りゅうかく風』をこの子のお守りにしてはいけませんか?」


 それを聞くと尚侍は明るく笑った。


「まあ、すぐにでもこの子が弾ける様になるようなことを言うのね。それにしてもこんな所でも琴! もっと他に言うこともあるでしょう?」

「こういう時だから、言うのです、母上。あの琴の声がする所には、天人が舞い降りて来ると言うから。生まれた子には、何よりもの贈り物だと」

「そうね。急いでうちの方へ取りにやらせればいいわ」


 仲忠は慌てて館の方へと使いをやる。


「ほら仲忠、君のご所望のものだ」


 使いから弾正宮が受け取り、仲忠へと渡す。彼はまだ赤子を懐に入れたままで、唐刺繍の袋を受け取ると、すぐに取り出す。


「……ああ、ようやくこれを渡すべき子ができた。―――後々がどうなってもいい、今、僕が託すべき子ができたんだ!」


 つぶやくと彼は早速、「ほうしょう」という曲を弾き始める。

 仲忠の引く琴の手は、派手に賑やかだが、一方しんみりとしたものもあり、聞く者皆がぐいぐいと惹きつけられる様なところがあった。

 さしづめそれは、あらゆる楽器と琴を調べ合わせた様な大きな音の様なものだ。間近で近くで聴くよりは、遠くで響きを楽しむ方が心地よい様な。

 そんな音が響きわたったのだ。

 この日邸内に住む婿達皇子達は、やった、とばかりに手を叩いて喜んだ。


「聴きましたか?」

「ええ聴きました。あれはまさしく、仲忠の琴ですよ」

「あの滅多に聴くことができない!」

「帝の命でも動くことが無い仲忠の!」

「皆お聴きなさい、きっとお祝いごとがあったのですよ」

「ああ何で我々は気付かなかったんだろう」

「そうだ、こんなことをしちゃいられない。側で聴かなくては」

「おお、行きましょう」

「行きましょう」


 とか何とか言いつつ、眠っていた者も起き出して、皆慌てて近くへ行こうと支度をする。

 ある者は履き物も穿かず、ある者は着物もちゃんとしないまま、慌てて一宮の産所の前に当たる東の簀子へと集合した。

 その大勢が立つ様子ときたら、木を並べて植えたかの如くだった。

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