第29話 コーヒーカップ
【前回のあらすじ】
プリンをかけた壮絶な戦いは、船長ヴィクトリアに軍配があがった。
ミシリと音がした絶対王者のアイアンクローは、いまだクィントのこめかみにクッキリとした爪あとを残している。
数時間が経過してなお、ひりひりと彼を苛んでいるが、それでもクィントはひたすら格納庫の床を磨き続けた。騒動の張本人として、ヴィクトリアから罰則を申し付けられたのである。
言いだしっぺだったはずのサクラ女史は、自身に矛先が向くまえにはそそくさと現場からいなくなり、あれほどいた野次馬達も、気がつけば小波が返すように消えていた。
これを自業自得と呼ぶには、いささか被害をもらい過ぎのような気もするが。
「イテテテ……。ったく、あのメスゴリラめ。ミレニアといい船長といい、どうしておれが知り合う女どもは、ああも強いかね」
ヴィクトリアに痛めつけられた顔面をかばいつつも、ブラシを掛ける手は止まらない。
根がマジメというかお人よしというか、こればっかりは性分だった。
サイロからあふれる海水をかぶり、ヌメリを持った通路が磨かれてゆく。
ひたすら地味な作業ではあるが、掃除好きにはたまらない。
罰則の域を超えて没頭するクィントだったが、しばらくしてホァンが淹れたてのコーヒーを手に、労いにきてくれたので休憩することにした。
ふたりはサイロ脇の手すりに並んで座りコーヒーを口にする。
こうした嗜好品を楽しめるのも、いまの時代では贅沢なことだ。
クィントはこういう時に、あらためてこの船は世界中を旅しているんだと実感する。
「どう?
「どうかな。まだ服は着慣れないけど。ジャガイモの皮むきはシェフより早くなった」
「あはは。そいつはいいや」
ホァンとの当たり障りのない会話は気持ちが楽だ。
クィントの人生において、周囲は常に大人達ばかりであった。
故郷のコミュニティしかり、親方のところしかり。こと同年代の若者とは、接点の薄い生活環境にあったのだ。
またそれを別段、不思議に思っていなかったところに、クィントの性分が現れているのだが、ホァンやルカ達と出会い生活を共にするうち、彼は青春のなんたるかを学んだような気がするのである。
そんなホァンが、なんだか今日はいつにも増して神妙な面持ちだった。
コーヒーカップをジッと見つめていたかと思えば、意を決してなにかを言おうとしたり。しかし、最後の一線が越えられないのか何度も言葉をはぐらかしているようにクィントには感じた。だが、それを聞き返すのもなんだかはばかられ、ふたりはしばし沈黙を友とした。
「あのさ」
これで四回目の「あのさ」だった。それでもクィントは変わらず「うん」と答える。
ほかでもない親友が、なにか大切なことを自分に伝えようとしてくれているのだ。
彼は何度だって「うん」と答えるだろう。
ホァンの気持ちに整理がつくまで。
「ルカのこと……なんだけどさ。どう思う?」
視線をあらぬ方に向けたままホァンは言った。それが彼女のひととなりを訊ねている訳ではないと気付かぬほど、クィントもうぶではない。
互いに口ごもり、しばし時間を持て余す。
本当に伝えたいと思う言葉こそ、逆に考え過ぎてどう伝えたらいいか分からなくなるものだ。
「いい子だと、思う……よ」
「だ、だろっ? ぼくから言うのも変だけど、ああ見えて家事全般も得意だしさ。とても女の子らしいと思うし……か、かわいいし……。だからさ……彼女のこと、頼むよ……」
「な! なに言ってんだよホァン! おれ、そういうつもりじゃ」
「でも、ルカはきみのこと本気みたいだからさ。クィントさえよければと思って」
「待てよ! おまえ、それ本気で言ってんのか? おれから言わせてもらえば、おまえらこそお似合いじゃないかよ。なんでそんなこと言うんだよ」
「だって……ぼくみたいな冴えない奴じゃ、ルカと釣り合い取れないよ。それにぼくは孤児だから、元々ルカにどうこう言えるような立場じゃないんだ」
「おまえ、そんなこと考えて……。馬鹿野郎! シェフや船長が、どれだけおまえのこと心配してるか知ってんのかよ! おまえがメカニックって道を見つけた時のこと、すごくうれしそうに話してくれたんだぞ」
「それは……」
「それってさ。おまえのことちゃんと考えてくれてるって証拠だろ? 孤児だからとか、そんなの全然関係ないじゃないか。みんなの優しさから逃げてるのは、本当はおまえのほうなんじゃないのか?」
自分もまた拾われ児であったという事実が、クィントにそう言わせていた。
ましてやホァンは、すでにこの船での地位を自らの手でつかんでいる。
だのに彼はそれを自身で否定しようとしているのだ。
その苦悩、諦観。
他人事とは到底思えなかった。
なによりも、ホァンの口からそんな悲しい言葉は聞きたくなかった。
自身が親方から受けた恩と愛。
それと同じものが、ブルーポラリス号には息づいていると感じたからだ。
ホァンはクィントの言葉に、打ちひしがれているようだった。ギュッと下唇をかみ締めて、自身の弱さと戦っているかにも思えた。
ホァンは、ルカとの間に自ら壁を作ってしまっている。
それはクィントが、ミレニアに感じたコンプレックスと同じものではないだろうか。
そう考えると余計に黙っていられなかった。
まるで自分まで、ミレニアを諦めろと言われているような気がして。
クィントは、シャツの胸元から革袋を取り出した。
なかにはミレニアの耳飾りが入っている。
「ホァン。おれもね。大切に想っているひとがいるんだ」
「えっ」
「ホァンにとってルカがそうであるように。おれにも、そのひとのことがものすごく遠い存在に感じられたことがあったよ。でもね、本当はそんなこと関係ないんじゃないかって思うんだ。おれがそのひとのこと……好きで、それからそのひとも、おれのことを好いてくれているんだとしたら、それってとても幸せなことなんじゃないかなって。立場とか身分とか関係なしに、お互いをずっと尊敬しあっていけることが大切なのかなって」
「クィント……」
「うまく言えないんだけどさ。いまのおれ達って、そういうのを恐がってるだけだと思う。自分が傷つくのが恐くて、なにかに遠慮して。でも、それだけじゃ絶対後悔するって思うんだ。だからおれ、いつかもう一度そのひとに会おうって決めてる。それから……変な奴って嫌われるかもしれないけど、ちゃんと気持ち伝えようと思う」
真顔でそんなことを語ってしまい、猛烈な気恥ずかしさがクィントを襲ったが、ホァンはそんな彼を笑わなかった。
むしろ彼の言葉に勇気でももらったかのように、口を真一文字に引き締め、ウンウンと小刻みにうなずいていた。
「ありがとう、クィント。ぼくが間違ってた。そうだね、ちゃんと伝えなきゃダメだよね。そのあとどうなるかなんて、誰にも分からないんだから」
「そうだよ。絶対うまくいくって信じなきゃ」
「海人は能天気でいいよなぁ。ぼくなんか、フラれたらどうしようって、そればっかりだよ」
「そん時はそん時だって。それに世界に女がそいつひとりって訳でもないし」
「わっ。すごい暴言だっ」
「だって、女にフラれたらそう言えって親方が教えてくれたぜ?」
「負け惜しみだろソレ?」
「えっ? そ、そうなの?」
この時のクィントの慌てっぷりが、よほど面白かったのだろう。
ホァンはいままでの陰鬱さがまるで嘘のように破顔した。
腹を抱えて笑い、目には涙が光る。
それを見てクィントも笑った。
誰にはばかることなく、力いっぱい。
男同士の友情に、コーヒーカップで乾杯する。そんなヘンテコなふたりの様子を、プルルは不思議そうにサイロから眺めていた。
〈つづく〉
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