第9話 ワダツミ
【前回のあらすじ】
自分の命を救ってくれたクィントを痴漢だと思い込んだミレニアは、必殺の格闘術をもって彼を組み伏せることに成功した。半死半生のクィントは何とか身の潔白を訴えるのだった。
「早くそう言えばよかったじゃないか」
こんなことを言うのは、さっきまでクィントの腕をひねり上げていた張本人である。
勘違いでひとの腕を折ろうとしていた人物の口から出た言葉としては、驚異的に申し訳なさと気遣いが欠けていた。
「言う暇がなかったんですけどね」
あまりに呆れてしまって、クィントとしてはこれ以上返しようがなかった。
あの時。
潮に呑まれていった水密服を追って断層へと潜航した頃にはもう、彼のマリナーには酸素が残っていなかった。
潮流に乗り、さらなる深海へと沈んでしまう前に出会えたことは奇跡だったと思う。
それから安全なところにまで避難して、救助した人物の安否を確認しようとした時、はじめて彼女が女性であることを知った。酸素ボンベを装着していたせいで、彼女の慎ましやかなバストは完全なる穏行に成功していたのである。
苦しかろうと思い、まずは生命維持装置であるヘルメットは外さずに、胸元だけゆるめてやろうとしたのがまずかった。問われて正直に答えるのも難しい状況ではあるのだが、せめて釈明する時間くらいは欲しかったというもの。
「そういや名乗ってなかったね。おれはクィント。クィント・セラ。
「うみ、うど……」
彼女は海人という語句にあきらかな不快感を示した。それがどういう意味か、分からないほどクィントもうぶではない。
「あんたユニオンか? なまえは? 命の恩人に名乗るくらいは、ユニオニズムに反するとも思えないけど」
「ば、馬鹿にす……ミレニアだ。ミレニア・ノヴァク。ユニオン親衛隊少尉」
ミレニアはすこし、ばつが悪そうに顔をそむけた。それからなるべくクィントから遠ざかるようにして座りなおし「ここはどこだ?」と聞いた。
「地殻変動が起きた時に、裂けた地面へうまいことはまり込んだ廃ビルのなかだよ。土砂やら落盤やらで偶然エア溜まりが出来たんだ。どうやら昔のオフィスビルみたいだね、燃やすモンなら山ほどあるし、しばらくはなんとかなるさ」
「なんとかっていっても……なぁ」
「大丈夫だって。救難信号も出しているし、近いうちにあんたのお仲間が迎えに来てくれると思うよ?」
と、クィントは愛機である有線式マリナーを指差した。崩落した床の一部がまるで入り江のようになっていて、そこにくたびれた一体の球のお化けがある。
潮流の激しさを物語るかのように、二本あったロボットアームのひとつを失い、また外装に取り付いていた照明装置も破損していた。
それを見たミレニアは立ち上がって、こう言う。
「なんだ、マリナーがあるんじゃないか。脱出方法があるのだから、わざわざこんな過酷な場所にとどまる理由もあるまい。小型だが、無理すればふたり乗れないこともないだろう?」
「無理だよ」
「なぜだ?」
「ここは深海三〇〇メートル付近だ。海溝で潮の流れも複雑だし、人食いザメ達がうようよしてる。そんな場所を泳ぎ切れるほどの性能がそのマリナーにはない。それに電池切れ寸前だしね。救難信号用には予備のバッテリーを積んでいるから問題ないけど。せっかく助かった命を、わざわざ危険にさらすような真似はおれには出来ないよ」
「う……」
「ここは根気よくいこうよ。近くをユニオンのマリナーが通ったら、そいつに回収してもらえばいいんだ。さ、こっちきなよ。寒いだろ? 火に当たって温まれば気持ちも落ち着くさ」
「どうしてそこまで冷静でいられる?」
「……『ワダツミ』が困っている奴を見捨てる訳がない」
「馬鹿な!」
ミレニアはすごい剣幕でクィントのほうへと近づいてきた。
まるで威嚇をするかのようににらみ付けてくる。
それでもクィントは笑顔で彼女に、火に当たるようにと勧めた。暖簾に腕押しとでもいうのだろうか、ミレニアは仕方なく折れた。
「おまえ達のいう『ワダツミ』とは一体なんだ? 神か?」
膝を抱えながらミレニアはつぶやいた。
彼女の碧眼には炎が映り込み、まるで海中から見上げた太陽のようだとクィントは思った。その瞳を見つめながら、彼は海人という生き方を語り始めた。
「まずは信じることからはじめてくれ。そういう意味では『ワダツミ』は神だ。だけど、確実にこの世に存在するものなんだ。きみ達が誤解しているような、抽象概念ではなく、もっとシステマティックに地球に作用している」
「……それは、惑星が持つ環境調整機能のことを言っているのか?」
「そうとも言えるけど、それがすべてじゃない。きみ達が知らないだけで、水は意思を持っているんだ」
「水が……意思を?」
「そう。それが『ワダツミ』だ。おれ達の身体にも水は流れてる。雨が降り、海に溶けて。そして、また水蒸気となって天へと昇っていくんだ。みんな、つながってるんだ」
「……信じがたいな」
「それでいいと思うよ」
「え?」
「みんながみんな信じる必要なんてないんだ。だって、おれときみは別の人間だろう? だから他人だと認識し合えるんじゃないか。そっちのほうが自然だよ」
「それも『ワダツミ』の教え?」
「そだよ」
よほどクィントの受け答えがおかしかったに違いない。仏頂面だったミレニアが急に噴出したのだ。それを見てクィントも笑った。
なんだか無性に楽しかった。
明日の命など分からぬ身のうえで。
〈つづく〉
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