第2話 ミレニア

 心地よい緊張がミレニアの胸中を支配した。

 聞こえるのは自身の心臓の鼓動と、ソナーの反響音だけである。


 古来、戦闘機や戦車の例をとっても、およそ搭乗型兵器のコクピットというものは狭くて寒い。ましてや深海を主戦場とする武装マリナーの操縦席など、常に低温の海水と、大水圧による圧壊の危険にさらされているのだ。


 継ぎ目のない水密服に身を包んだミレニアの視線は、無骨なヘルメットのゴーグル越しに正面キャノピーを捉えていた。


 目視操縦が基本となるマリナー。

 耐圧クリア樹脂で作られた大型の覗き窓の向こうには闇海が広がっている。

 光の届かない深海のただなか。

 自機の放つ微細な照明だけがあたりを照らしている。

 キラキラと輝くマリンスノーが、一瞬だけミレニアに戦場を忘れさせた。


 刹那、眼前を覆うマリンスノーが揺らぎ、水流が変化したのをミレニアに教えた。

 ――何かが来る。


 操縦桿を勢いよく倒すと、コクピットが即座に傾斜を変える。キャノピーの向こう側では、剣を備えた自機の腕が、迫り来た巨大な銛を打ち払っていた。


「銛だけ? 『赤鬼』はっ?」


 焦燥のこもるミレニアの独白がヘルメットの中でこだまする。

 自機の位置を中心とした天球状のソナー表示画面には、高速で移動するひとつの点があった。とてつもないスピードのあまり、自機の発するエコーが敵機を捉えて戻ってくる頃には、すでにその場からいなくなっているという状況である。


 それに対抗するため、ミレニアも不規則に移動しながら視界を巡らすが、一向に相手の姿は見えない。そして、


「うわあっ!」


 警告を意味する赤ランプの明滅と共に、コクピット全体が強震する。身体を固定するシートベルトが、薄いブルーの水密服に深く食い込んだ。


 即座に機体を立て直そうとするミレニアだったが、計器類のすべてが緊急事態であることを告げていた。

 本来であれば戦線離脱が賢明の策であるのだが、


「まだまだぁ!」


 ミレニアの戦略理論に撤退の二文字はなかった。

 機体ダメージを手早く算出すると、破損箇所を強制的に切り離した。左腕部を肩から丸ごと、そして背部にあるメインスクリューを止める。隻腕となった機械仕掛けのヒトガタは、わずかな浮力を頼りに深海を漂う。


 息遣いが、荒くなる。


「下かっ?」


 ソナーに反応があった。真下から接近する高速の機影は、ミレニアの予想をはるかに上回るスピードで眼前に出現する。それは頭部に二本の角を持った真っ赤な機体。そして、振り上げられた剣と共にキャノピーに映るのは「作戦失敗」の文字だった――。


 バシュっという気密が開放される音とまぶしい光。


 直後、暗転したキャノピーがせり上がり、コクピット内に外気が押し寄せた。脱力したミレニアは、軽い嘆息をもらすと自身を拘束していたシートベルトを外す。


 ミレニアが搭乗していたのは、ほぼ実寸大に設計されているマリナーのコクピットを模した筐体である。

 マリナーの基本操作はもちろんのこと、戦略的運用方法も学べるシミュレーターだ。


 外見は卵に似た流線型をしており、実物には後背に直接メインスクリューが搭載される。このコクピットを中核とし、さらに手足が付く。マリナーとは一般的に海底作業用の機械を指す言葉だが、多くの場合、ヒトの形を有してるのが普通であった。


 そんな筐体が数機も並んだシミュレーションルーム。いまだ稼動中の機体もいくつかあり、どうやら勤勉なパイロットというのは、ミレニアひとりではないようだった。


 やおらシートから立ち上がったミレニアがヘルメットに手を掛ける。現れ出でたのは見事なまでのブロンドヘア。整った目鼻立ちと、透けるような白い肌、そして、意志の強そうな精錬な瞳が、言わずともミレニアという少女の生まれの良さを誇示している。


 外したヘルメットをきつく抱き、暗転したキャノピー型ディスプレイを睨み付ける。その表情が分かりやすいほど、彼女の悔しさを物語っていた。


「なぁに? また負けたの? 懲りないわねぇ」


 不意に掛けられた容赦のないセリフに、言い返す言葉もなく振り向いたミレニア。そこには彼女と同じ継ぎ目のない水密服を着た女性が立っていた。ただひとつ違うことは、ミレニアの水密服とは異なり、プロポーションだけで性別を判断できるという点だった。


 彼女の名はパティ。ミレニアの同僚である。

 褐色の肌と優れた肉体美を持つほかは、兵士としてそれほど実力の差はないと信じている。


 そんな彼女の言う「また」とは、あの二本角のマリナーのことである。俗に『赤鬼』などと呼ばれる凄腕の傭兵で、それに勝つことこそがミレニアの目下の課題であった。

 ……まあシミュレーションではあるが。


「『赤鬼』の移動速度がちょっと速すぎやしないか? 戦闘水域でソナーの補足を凌駕するなんて反則だろう?」


「残念でしたぁ。あれはつい最近『海賊ヴィクトリア』と交戦した部隊から届いた最新のデータで出来てんですぅ。勝てないからってシミュレーターのせいにしない!」


「う……」


 ビシィっと突きつけられたパティの指先が痛い。実際、相手の性能が上だからといって負けた言い訳になるはずもない。

 もし実戦で出くわせば、待っているのは確実な死だ。

 いつか戦場でまみえることがあるとしても、事前に何度も練習が出来るということに感謝せねばなるまい。

 悔しいがいまの彼女に出来ることと言えば、緊急時の脱出訓練くらいだったりするのだが。


「まあ実際この広い海で、そう簡単に遭遇するとも思えないけどね。それにあたしら、護衛が任務なんだから、テキトーに時間稼いだらスタコラサッサでしょ?」


「な! なんてこと言うんだ! 我々は栄誉あるユニオン親衛隊の一員なのだぞ? 巨悪を前にして正面から一合も切り結ばずに敗走しろとでも言うのかっ。パティ、きみはいい奴だが、少々けれんがすぎるようだ。前々から言おう、言おうとは思っていたが、今日ばかりはすこしキツく――」


「ハイハイハイハイ! 分かったから早くシャワー浴びよ? もう汗臭くってたまんないわ」


「ちょ、話はまだ終わってない……」


 ミレニアを軽くいなしながら、パティがシミュレーションルームを出ようときびすを返す。通常胸の前に装着させる酸素ボンベを小脇に抱え、水密服のジッパーを下ろすと豊満なバストをはだけさせた。


 それを目にするたび、このスタイルの個体差は、人種の違いにおけるポテンシャルの差であると自分に言い聞かせたくなる。

 ミレニアの主張によると、自分はコーカソイドとしては標準……なのである。


 ふたりが討論の場をシャワールームに移そうと動いた時、部屋中をしばしの緊張が支配した。それはひとりの人物の登場によって引き起こされたものなのだが、当の本人は、敬礼する部下達に対して返礼をすると、各々の作業に戻るようにと穏やかに指示を出した。


 オリーブ色をした軍服の襟には大佐の階級章が輝く。見た目にはまだ二十代半ばの瑞々しさを色濃く残すことからも、若くして要職に就いたエリートであることが伺える。


 アルフォート・ラザル。ミレニアのノヴァク家と双璧をなす、由緒正しいユニオン党を代表する名家の次男坊である。才覚と家柄に恵まれた幸福な男であった。


「ミレニア・ノヴァク少尉、ならびにパティ・ルーブ少尉」


「はっ」


 ふたりは上官を前に姿勢を正す。対する彼女らの上官は、パティのあられもない姿に目のやり場に困ったような様子だった。それでも気を取り直して、大佐の威厳を咳払いひとつで演出してみせる。


「訓練もいいが、結成式には遅れるなよ。今回は総統が直々にご登壇されるんだ。くれぐれも粗相のないように行動してくれ。特にパティ、なんというかその……身だしなみには細心の注意を払って臨んでほしい」


 と、またひとつコホンと咳き込んだ。

 察しが付いたのか、パティは胸元のジッパーを素早く上げた。そのやり取りを見たミレニアはなんだか無性におかしくて、笑いをこらえるのが大変だった。


「と、とにかくっ。式には遅れないように。以上だ、行ってよし」


「はっ!」


 敬礼。そして、アカデミー仕込みの鋭角な曲がれ右をして退席しようとするふたり。


「あ、ミレニア」


 それを呼び止める声は、上官が部下に投げかけるには少々、親しげな印象だった。


「なんでしょうか?」


 一方ミレニアはいつもの調子で素っ気無く、あくまでも人前では大佐と少尉という関係を崩そうとはしなかった。


「いや……呼び止めてすまなかった。また後で会おうノヴァク少尉」


「はい。ラザル大佐……」


 さみしそうな上官の視線を背に受けて。

 ミレニアはパティと横並びにシャワールームへと消える。その足取りには、マリナーの操縦訓練とはまた違う、ある種、別の疲労感すら漂っていた。



〈つづく〉

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