幽し城

季弘樹梢

第1話

 さよならの言葉は声にならず、ただ薄っすらと白い息が漏れた。いつしか降りしきる雪に埋もれ、惜別の想いは雪解けへと持ち越されることとなった。冬は懐かしい記憶の香りがする。あの日なくした存在は途方もなく大きな穴を私の胸に残し、取り戻せない遠い思い出が代替品のように隙間を埋めている。

 色褪せもはや紅梅色じみてきたマフラーを首に巻き、馴染んだ隘路をゆく。春になればこの路傍にはユキヤナギが溢れる。それはとても綺麗なはずなのに、ここ数年はどこかぼやけて映った。単純に矯正していない乱視がすすんでいるせいだ。鮮やかな景色に感動できなくなったのは物寂しい気もするけれど、この鈍くむごい苦味こそ大人の証明のようで気に入っていたりする。あの子を二度と映すことができないのであれば、この瞳に価値などあるのだろうか。そんな感傷に意味などない。

 開けた場所に出るとそこは森のなかの小さな公園である。名前はない。もしかしたらあるのかもしれないが、きっと誰もしらない。私たち以外の利用者を見たことがなかった。私たちは秘密の公園と呼んだ(ときどきふざけて、死んだ公園とも呼んだ)。砂場と朽ちた東屋があるだけだった。

「もっと空が見えればいいのにね。そうすれば星で遊べるのに」

 夜がくるまで一緒にいると、決まって彼女はそういった。見上げた先にあるのは木々の葉っぱばかりで、その隙間から月明かりが虚しく射している。私はその都度「星なんか、つまんないよ」と応えたけれど、彼女には聞こえていないようだった。

 お腹がすくと、私たちは安っぽい赤いランタンの明かりを頼りに手を繋いで家まで帰った。二人並んで、笑いながら。

 けれど今、ひとり。夜を待たずに帰途につく。あの日と違う、無骨なオイルランタンを一際強く握って。

「また出掛けてたの。こんなに寒いのに」

 クローズドと書かれた板のかかったドアを開けると、暖炉の前のソファでくつろいでいた和泉が声をかけてきた。彼女は膝上の猫、ほるんを撫でていた。私は曖昧に頷いて、マフラーとコートをスタンドに掛け、暖炉の前にかがみ込んで火に手をかざした。

「ほら、見て見て、ほるんめっちゃかわいいから。顔ぺっちゃんこにゃー」

「そうだね」

「雪、降ってた?」

「降ってないよ」

「そっか。夕方から降るかもって予報で言ってたから」

「いい天気だったけどね」

「けど、寒かったね」

 凍えた手を撫で摩りながら和泉を見た。ほるんを撫でるその優しい眼差しは、どこか気持ちを安穏とさせるもので、同時に何かを焦らなきゃいけないという使命感のような焦りが浮かんできて、目を逸した。空中で無駄にあがかせようとする感情は厄介だ。どうすることもできないと分かっているのならば尚更。

「しょうがないよ、冬なんだから」と言いつつ、テーブルに置かれていた飲みかけのコーヒーカップに手を伸ばして躊躇なく口をつけた。舌に触れた液体はぬるく、苦い。コーヒーをブラックで飲む人間の気がしれない。和泉が笑った気配がした。

「変な顔」

「苦いのは好きじゃない」

「勝手に飲んどいてなにいってんの」

 和泉は笑って「はい、抱っこ」とほるんを私の膝の上に乗せてきた。

 この子は和泉の飼い猫であり、今では私の飼い猫でもある。その額にそっと触れると、こちらを一瞥し逃げてしまった。ほるんにとって私は和泉の代わりにはならないのだろう。

 私は和泉とは違う。和泉にはなれない。

 当たり前だ。和泉があの子になれないように。

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幽し城 季弘樹梢 @jusho_sue

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