第1話 決算期の牡蠣鍋 上

 三月。

 それは出会いと別れの季節――……なんて、おセンチなものではなく、経理回りを仕事にしている俺達にとっては、地獄の始まりを告げる月である。

 

 ――そう恐るべき『本決算』である。


「ええ、はい……そこを何とか。今の内に一通り数字を確定させておけば、二次決算の時に助かると思うので――は? 来いですか? 出張費、支店持ちで良いなら、喜んで。――はい。よろしくお願いします」


 俺は支店との内線を切る。

 前の席に座る石岡さんが尋ねてきた。


「何だって?」

「支店決算の数字、事前にチェックしといてくれるそうです。持つべきは話が分かる支店長ですね」

「……いや、あの人、結構、怖いんだぞ……?」

「? そうですか?? 去年、出張した時も、美味い飯、食わしてもらいましたけど」 

「……俺の時は、誘ってもくれなかった……」


 目の前で、御歳三十歳になる石岡経理主任が落ち込む。……地雷を踏んだか。

 俺は自分のパソコンに向き直り、決算書の数字チェックを再開する。

 ――うちの会社は業界内だと中の上位の規模。

 給料だって悪くないし、有給もしっかり取得出来るし、福利厚生もきちんとしている。

 だが、しかし……そんな会社であっても、総務・経理・財務が兼任状態にある。

 世間は案外と人材不足なのだ。三年目の俺が主戦力の一角として決算作業をする位には。なお、俺が入る前までは、人事まで兼任だったらしい。何それ、怖い。

 ちらり、と時計を確認。

 既に定時の五時半はとうに過ぎ、針は十九時を挿している。

 事務方は早めの帰社が推進されているとはいえ、決算期はどうしようもない。

 決算作業+日常業務も当然、存在しているからだ。

 

 ……本格的に作業を開始する来月は、本物の地獄。

 

 数字があっさりと合えば良いけれども、合わない場合は…………タクシー帰りはなぁ。

 身体を伸ばし、立ち上がる。石岡さんを含め、他の人達にも聞く。


「珈琲買ってきますけど、いる人います?」


※※※


「寒っ」


 コートを羽織って外へ出た俺は、思わず呟いた。

 俺が務めている会社は東京でも中心部といっていいオフィス街にある。

 なので、周辺には珈琲のチェーン店や、車上販売の珈琲屋が多い。

 お気に入りの車上販売の珈琲屋で人数分の珈琲やココアを注文し、ついでに甘い物も幾つか購入する。決算期において、お菓子は必需品なのだ。

 若い店主が珈琲を狭い車内で淹れているのを眺めていると、携帯が震え、メッセージが入った。


『きーたーくー。そっちはー? 仕事、終わったー??』

『…………貴様。分かっていて、言ってやがるな?』

『えーまっさかぁー。もう、19時過ぎなのに帰れないなんて……雪継、可哀想ー。あ、珈琲屋さんのお菓子、お土産希望☆ 今月も営業成績№1! な、私、四月一日幸の為にね!』


 「…………」思わず、殺意がこみ上げてきた。何時も以上にうざい。

  あの女……俺の行動パターンを把握していやがる。

 ……まぁ、普段はそれなりに早く帰れているので、文句を言うのは筋違いなのだが。普段、事務方が残業数十時間する会社は人手不足か、体制そのものに欠陥があるからだと思うし。

 珈琲を受け取り、歩きながら書き込む。


『今晩は遅い。21時過ぎ。飯は各自』


 …………既読にはなったものの、何も書いてこず。

 あれで、仕事に関しては優秀な奴だし、理解してはいるんだろう。

 さて、戻って、もう一踏ん張りするかぁ。


※※※


「…………で? お前は何をしている??」

「あ、雪継、おかえりー」


 二十一時過ぎに帰宅した俺を待っていたのは、スェット姿に着替え、炬燵に入りながらFPSゲームをしている、眼鏡をかけた小柄な女の姿だった。

 此方には視線を向けず、黙々とプレイ中。

 ……こいつ、滅茶苦茶上手くなっていやがる。

 高校時代はゲームなんて一切、やったことがない生き物だったのに。

 若干、動揺しつつもコートを脱ぎ、かける。

 そんな俺に気づかず、四月一日は盛り上がり中。


「残り3チームでこっちのチームは全員金アーマー。いけるっ! チャンピオンは私のもの――あーあーあー! 止めてっ、撃たないでっ! まだ、心の準備が出来てないっ!!!」

「油断は死を招くぞ」

「うーるーさーいぃぃ!」


 最終決戦に熱中している同い年の先輩様を放っておき、俺はキッチンへ。

 ――そこには、何故か土鍋が鎮座していた。

 蓋を開けて見ると


「牡蠣鍋かー」

「牡蠣鍋よー」


 後ろから四月一日がやって来た。

 振り返ると、ゲーム画面は消されている。ふむ。


「負け」「何のことかしら?」


 満面の笑み。これ以上、この会話は危険過ぎる。


「……で? どうして、お前は俺の部屋でゲームをして、牡蠣鍋をこさえているんだ?」

「え? だって、私の部屋にゲームないし? あと、今年の冬、散々、鍋食べたけど、牡蠣鍋はしてなかったし? あと、私が食べたかった!」

「一理ある」

「十理でしょ? 重いから運んで!」

「へーへー」


 鍋掴みを両手に装備し、土鍋を炬燵へ運ぶ。

 四月一日は回り込んでガスコンロを設置。

 土鍋を置き、火を点ける。ぐつぐつと煮えだす。美味そうだ。


「雪継ー何、飲むー? ビールね。りょーかい」


 ……勝手に飲む物を決められている気がするが、まぁ、今晩は良し。

 そう思いながら、俺はネクタイを緩めるのだった。

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