七話
休日になってもこゆきは帰ってこなかった。好きにしろとうんざりし、さっさと外に出た。特に当てもなく、ただぶらぶらと散歩したかった。いらいらが込み上げて電信柱をげしっと蹴ったり、壁を強く叩いたりした。いつも怒りでいっぱいになると、こうして八つ当たりするのが蒼人の癖だ。大人しく我慢できない。人間には絶対にしないが、物はどんどん傷めつける。無意識にそうしろと脳が判断するのだ。いつか八つ当たりの対象が人になってしまったらと怖くなる。この治らない癖は誰に似たのだろう。父がこんな性格だったかは覚えていない。
みゆきに電話をかけたいと思ったがすぐにやめた。きっと、こゆきのわがままをバラして心配をかけてしまう。蒼人の願いはみゆきに自由に生きてもらうことだ。みゆきは家事や学校や蒼人とこゆきの面倒で青春を潰してしまった。せめて大学生は自分の好きなように生きてほしい。ずっと愚痴も不満も吐かずに頑張ってきたみゆきを尊敬している。みゆきは八つ当たりなどせず、しっかりと全てこなしていた。蒼人もそうやって強くなりたいのに、うまくいかない。必ず愚痴ったり物に八つ当たりする。
俯いていた顔を上げると公園が目の前にあった。古くて小さくて遊具も少ない。休日だが遊んでいる子供もいない。たぶん何十年も使われていない公園だろうと想像した。ゆっくりと中に入り、汚れたベンチに座ってみた。すると、先ほどまで溜まっていたストレスがするすると消えていく感じがした。誰もいないから邪魔もされないし、全て忘れて胸がすっと軽くなっていく。廃れた公園など魅力はないが、不思議なことにとても居心地がいい。こういうのをまほろばというのかもしれない。小学生の頃、みゆきにまほろばの意味を教えてもらった。
「まほろばは、優れたいい国って意味。居心地がいい場所だよ」
「居心地がいい場所かあ……。姉ちゃんにとって、まほろばってどこ?」
「やっぱり家かな。だって、蒼人もこゆきもいるでしょ?」
「そっか。だけど父ちゃんと母ちゃんはいないよ」
少し間を空けて、みゆきはそっと答えた。
「……そうだね。お父さんもお母さんもいないね。でも、いつかは帰って来るよ」
「いつか? 本当にいつか帰ってくんの?」
「きっと帰って来るよ。とりあえず今はお仕事してるのが外国だから会えないけど。また一緒に暮らせるよ」
信じられなかったが「うん」と頷いた。たぶん帰ってこないだろうと予想していたが当たっていた。こゆきではなく、両親が帰ってこなくていらいらしているのかもしれない。ずっと恨んでいるのは両親の方だ。子供をほったらかしにして手紙もよこさない親などいるのか。まるで捨てられてしまったみたいだ。そしてこの公園も人々から見捨てられた。同じ目に遭った仲間だから居心地がいいと感じるのだろう。
「ここ……。いいな……」
自分だけの心のよりどころが見つかったと嬉しくなった。こゆきのわがままで泣きたくなったら、この公園に癒してもらおうと決めた。いらいらもうんざりも苦しみも解消し元気になれる。
二時間ほどぼうっと座って空を眺めていたが突然携帯が鳴った。こゆきからだ。
「お兄ちゃん、どこにいるの?」
「どこって……」
「帰ったらいないじゃん。お兄ちゃんだって家にいないじゃん」
「兄ちゃんだって暇じゃないんだ。それに今日は土曜日だろ」
「こゆきばっかり叱って。お兄ちゃんだってお友だちのお家に泊まってるんでしょ」
「違う。今日は休みだから」
「嘘つき。そんな嘘つきじゃ、警察官なんか絶対無理だよ。噓つきは泥棒の始まりっていうし。警察官じゃなくて泥棒にしかなれないよ。残念でしたー。お兄ちゃんは泥棒がお仕事でーす」
カッとして、ぶちっと一方的に電話を切った。警察官の夢を馬鹿にされたと悔しくなった。言われなくても警察官になれないのはわかっている。いらいらし他人の笑顔も幸せも妬んでいては警察どころか犯人だ。明るく笑っている人が憎い。俺は酷い地獄に落とされ続けているのに。辛くて苦しくて堪らないのに……。また八つ当たりしたくなったが抑えた。大事な心のよりどころを蹴ったり叩いたりはしたくなかった。携帯の電源を切って、こゆきの待つ家へ走った。こゆきは腰に手を当てて玄関に立っていた。
「嘘つきお兄ちゃん、おかえり」
「嘘なんかついてない」
「こゆきを誤魔化せるとか勘違いしないでよ。こゆきはお兄ちゃんよりずっと立派だもん。こゆきの方が警察官に向いてるね」
ふふん、と偉そうに笑う妹が邪魔で邪魔で仕方ない。昔はこゆきがいてくれてありがたいと感じていたのに、今は正反対だ。
「ちょっと、無視しないで……」
「うるさい! 黙れよ!」
低い口調でついに叫んでしまった。ストレスで爆発してしまった。こゆきは顔を白くして石のように固まった。
「お……怒ってるの……?」
「怒ってるよ。いい加減、兄ちゃんのために家事の手伝いしようとか、きちんと帰って来るとか素直になってくれよ。こゆきのせいで、兄ちゃんは夜も眠れないんだからな」
少し大袈裟にもう一度怒鳴ると、こゆきの目から涙が溢れた。
「酷い。どうしてそんなこと……」
「酷いのはこゆきの方だろ。泣きたいのはこっちだ。このわがまま女。お前がいると、兄ちゃん地獄にいるみたいだ。次、家に帰ってこなかったら姉ちゃんに言うからな。家の鍵取り上げて、二度と入れなくするぞ。お前みたいなろくでもない奴、どっかでのたれ死んでればいいんだ」
まくしたて、大きな音を立てて部屋に入った。はあはあと速い息を整え、がっくりと項垂れた。
ドア越しにこゆきの泣き声が聞こえた。少し言い過ぎたと反省はしたが、あれくらい厳しく叱らないとこゆきはさらにわがままになる。みゆきは蒼人もこゆきも怒鳴ったり叱ったりはせず、常に穏やかだった。
「姉ちゃん……。助けてくれ……」
呟いて自己嫌悪に陥った。蒼人が正義感に満ちて人を護れる警察官になるのは夢のまた夢だ。
「お父さんも、親と暮らしてないんだって」
兄弟三人で暮らすと決まった日に、みゆきが教えてくれた。
「父ちゃんも? 何で?」
「おじいちゃんがだめって言ったみたい。おじいちゃんは、すっごく怖くて冷たい人だったって聞いたよ。すっごくすっごく、恐ろしい人だったって」
「恐ろしい? どれくらい?」
「名前を聞いただけで、みんなぞわぞわしたらしいよ。……喧嘩も毎日してたみたい。いろんな人と」
「ぞわぞわ……」
蒼人の頭の中に、ヤクザという言葉が浮かんだ。毎日喧嘩し名前を聞いただけで他人を震え上がらせるなんて普通ではない。けれどもしヤクザだとしたら、みゆきも蒼人もこゆきも産まれていない。母はベテラン警察官の娘なのだ。警察官の娘とヤクザの息子が愛し合うなど絶対にあるわけない。
「蒼人は、おじいちゃんに似てない優しい子で安心したよ」
みゆきの柔らかな声に、自然に笑顔になった。
「俺、大人になったら警察官になるんだ。みんながにこにこしてるだけで明るくなれるんだ。立派な警察官になりたい」
「蒼人なら必ずなれるよ。頑張ってね。お姉ちゃんも応援する」
「うん。俺、頑張る。姉ちゃんもこゆきも護れるように強くなるんだ」
そして、みゆきと指を絡ませて警察官になるという約束をした。みゆきもこゆきも、みんなを助けてあげられるように。幸せにできるように……。
「どこが警察官なんだ……」
呻き、ベッドに横たわった。この約束は守れないだろう。一人では叶えられない願いだったのだ。蒼人のやるせない気持ちをわかってくれる優しい人はいないのか。天井を見上げ、蒼人の目からも涙が溢れた。
翌朝、こゆきに「おはよう」と話しかけた。しかしこゆきは返事せず、目も合わせようとしなかった。どうやら兄との付き合い方を変えたらしい。わがままはなくなったが、ぎくしゃくとした関係が生まれてしまった。
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