六話
曇り空を眺めながら、天気予報士の声を聞いた。雨は降らないと話している。確かにそれほど厚い雲ではないし、傘は必要ないと決めた。華弥はすでに買い物に出かけていて、行ってきますも言わずにさっさと学校に向かった。
父が単身赴任という出来事で、磨弥の心は不安定に揺れていた。これから始まる息の詰まる華弥との二人暮らし。避けたかったのにやって来てしまった。ぎくしゃくとした関係のまま、うまく過ごしていけるのか。おまけに華弥が泣きながら囁いていた「ユウ」という謎の人物が、もっと不安にさせる。まさか浮気でもしているのかと疑惑が沸いて、無意識に俯いた。いつも通りの学校生活はつまらなかったが、逆にそういった暗い想いを忘れさせてくれた。休み時間になると、磨弥をカラオケパーティーに誘ってきた二人が近づいてきた。
「悠崎さん、この間のカラオケパーティー、めっちゃ楽しかったよ。悠崎さんも来ればよかったのに」
「ごめん。わざわざ誘ってくれたのに」
「イケメン揃いで歌もうまくて最高だったよ。悠崎さんにお似合いの男の子もいたよ」
「私にお似合いの?」
とても頷けない言葉だった。大きな黒縁眼鏡の磨弥に見合う人などいるわけがない。
「お似合いなんて……。いるわけないよ……」
首を横に振ったが、二人の勢いは増した。身を乗り出し、ぎゅっと手を握り締めた。
「勘違いしちゃだめだよ。自分は可愛くないなんて考えちゃだめ。悠崎さんって頭いいし大人っぽいし、可愛いというより……綺麗なんだよ。みんな羨ましがってるんだよ」
褒められて嬉しかったが、もう一度首を横に振った。
「だけど全然笑わないし、眼鏡かけててダサいでしょ? 女の子はにこにこしてる方が人気じゃない。私は、そんな笑顔作れない」
この笑えない性格が嫌で堪らなかった。雅人から、「磨弥はママにそっくり」と何度も驚かれた。瓜二つで、引っ込み思案なのも大人しいのも全て一緒らしい。ただ一つ違うのは心の形だ。磨弥は正常だが、華弥は身も心も傷だらけで立つのもやっとだったようだ。母親が悪魔で死神なら当然だ。
「じゃあ、どうして今のママは元気なの?」
質問すると、雅人は即答した。
「大雨に打たれたからだよ。傘を忘れて制服も鞄もびしょびしょになったから、ママは幸せになれたんだ」
「雨に打たれたから? 雨で幸せになんかなれるの?」
暗いし濡れてうんざりする雨。とても幸せになれるとは思えなかった。磨弥の想いが届いたのか、雅人はもう一度話した。
「どんな天気でも幸せは訪れるんだよ。ママは雨の日に幸せが訪れたってだけだよ」
「……雨の日に……」
呟くと雅人は磨弥の頭を優しく撫でた。これ以上はもう何も言わないと伝わった。
生まれつきなため、この性格は変えられない。笑ってもぎこちないし、頑張っても柔らかく微笑む技は見つからなかった。成長するにつれて冷たい態度がはっきりと表れるようになり、磨弥と関わりたくないと周りの人たちも距離を置いていく。そんなつもりはないのに他人を怖がらせてしまう。そんな時、磨弥は本を読んで落ち込まないようにしている。磨弥にとって本は大切な存在だ。人間はころころと好き嫌いを変えて突然縁を切ったりするが、本は絶対に裏切らないからだ。いつも磨弥に寄り添い、さまざまな世界へ連れて行ってくれる。幼い頃から磨弥の手の中には本があった。雅人にねだって大きな本棚を買ってもらい、たくさんの本がところ狭しと並んでいる。棚に入りきれずクローゼットや机や床にも置いている。マンガなどの絵が描かれているものではなく文章のみの本を選んでいるからか、みんなから頭がいい、物知りと尊敬される。現在は読んでいる本はなく、探している状態だ。
雲が黒く変色して雨が降り始めた。傘を持っていない子は焦って迎えに来てくれと電話をかけている。なぜか磨弥は冷静で、傘なんか必要ないと考えていた。水に濡れるくらい痛くも痒くもない。濡れても乾けば元に戻る。汚れたら洗えば問題なしだ。
「悠崎さんも電話かけた方がいいよ。傘持ってないんでしょ?」
「大丈夫だよ。これくらい」
「だけどかなりの大雨だよ。迎えを呼んだ方が」
「たまには雨に濡れるのもいいものだよ」
遮って、すたすたと昇降口へ歩いて行った。
確かに酷い雨で、風も強く雷の音も薄っすらと聞こえる。しかし磨弥は構わなかった。雅人の一言が心に浮かんでいた。
「大雨に打たれて服も鞄もびしょびしょになれば、幸せが訪れるんだ……」
ということは、磨弥も幸せになれるかもしれない。華弥とのぎくしゃくとした関係が解消されたら。行き詰る毎日を少しでも軽くしたい。だがいつまで経ってもただ雨が降るだけで結局そのまま家に辿り着いた。まだ買い物に行っているらしく華弥の姿はなかった。洗面所に入って制服を脱ぎ捨てシャワーを浴びた。やはり幸せはそう簡単にはやって来ないと改めて感じた。風呂からあがりしばらくソファーに座っていると玄関で音がした。
「磨弥! 大丈夫だったの?」
「何が?」
「大雨降ってたでしょ?」
どうやら傘を渡すために学校に行っていたらしい。華弥も服や髪が濡れていた。
「探してもどこにもいないから……。心配しちゃったよ」
「雨くらいどうってことないよ。それよりママもお風呂入ったら? 気持ち悪いでしょ」
「困った時はママを頼ってね。磨弥のためならどんなこともする」
「わかってる。ありがとう」
感謝を告げると華弥は洗面所へ移動した。ふう、と息を吐いて呟いた。
「ママって過保護だなあ……。雨くらいであんなに慌てて」
高校生は義務教育が終わっているし、一人暮らしを始める子も多い。それなのに華弥は磨弥を愛し、どこにも行かないように束縛しているみたいだ。磨弥を透明の糸ですぐそばに置いている。一体いつこの糸は消えるのだろう。華弥の過保護という愛の糸で、磨弥は自由になれずにいる。そろそろこの束縛をやめてもらいたい。磨弥の人生を華弥に邪魔されたくない。自由になれば恋だってたくさんできるし、もしかしたらこの陰気な性格も治る可能性だってある。愛されないのも辛いが、愛され過ぎるのも同じくらい辛いのだ。
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