アルカディアの外側

時計 銀

第1話 旅立ち

見慣れない荷物を見慣れないキャリーケースに詰めていく。自分が未だ着たことのない衣服、未使用の歯ブラシ、財布。


病院生活において必要のなかったこれらの生活用品を触れることにどこか懐かしみを覚えてしまう。

この用品たちはすべて、司馬しばさんやその他の警察の方に買ってきてもらったものだ。ちなみに、全て経費から出ると司馬さんは自慢げにそう言っていた。


開けていた窓から涼しい風が入ってくる。もう、十二月手前だ。

病院での生活が終わる、と思ってしまうと何故か寂しく感じてしまう。ただの治療のために滞在していた場所に別れの悲しみを感じてしまうことは、異常なのだろうか。

…そんな戯けた疑問に答えてくれる人はいないのだが。



ふと、横を見る。

隣のベッドを利用していた知人は既に退院してしまい(怪我は完治していなかったが)、この一ヶ月、看護師と参織以外と話すことは結局なかった。

誰か、病院に面白い人はいないのか、と院内を歩き回ろうと思ったが、部屋を出た直後になにか、センサーでもあるのか、直ぐに看護師が飛んできて部屋に連れ戻される。

これを何度もやっているうちに、堪忍袋の尾が切れたのか、病室に鍵をかけられてしまった。

解せない、としか言いようがない。なぜ、外に出させてくれないのだ。


そんな、入院生活を通して何かが変わった、ということもなく、自分の意識が戻った日に心に決めた、あの決意を心に留めながら、毎日を過ごした。

残念ながら、そんな新たな出会いなぞ起こすことができなかった。病院監禁生活は、この経験に含むべきものなのだろうか。

いや、なにもなかったのだから、要らない経験だろう。


キャリーケースにすべて詰め終わりゆっくりとしめる。キャリーケースでどこかへ行くというのも、自分の記憶にはそういった経験は記されてはいないのだが、それでもどこかで触ったような思い出はある。だけど、うまく思い出せない。

ぼんやりと、頭の中にある風景を見ようとする。それは、今と同じ涼しい風に当たって、誰かに見守られていた感じの。ダメだ、思い出せない。



思い出すのを諦める。自分の不出来な…、自分の記憶力の悪さはいまに始まったことではない。仕方ないのだ。


ベッドの上に置いていたキャリーケースを地につけるために、一旦持ち上げる、すこし躊躇する。

新品のものを下につけることにはやはり忌避感を覚える。だが、それは仕方のないことで、地につけるためにそういう構造になっているのだと思い切って、ローラーを地につける。


しかし、置いてしまえば何も感じなくなり、心が軽くなる。


キャリーケースを転がし、病室から出るために、スライド式になっている戸を引く。

現在時刻は午後三時。微妙な時間帯である。それなのに、廊下の照明は時間を忘れてしまうかのように光り輝き、眩しくてたまらない。


「用意は、終わりましたか」

彼女と会って何度目だろうか、こんな風に気配を殺しながら近くで話されたのは。


「…そこで、待っていてくれたんだ、先にロビーで待っててくれてよかったのに」

彼女、参織さんしきの神出鬼没はいまに始まったことではない。もう、慣れ、しかないのだ。


「否定。そんなことはできません。貴方の側に居ることをマスターから命じられたので」


「ご苦労なことで」


「そうとしか、生まれた頃から教えられていませんので」


「……」

何と、返せばいいだろうか。中々に、話題が重たい。


「まあ、いいや、行こうか。えっと、まずは、ロビーだよね」


「肯定。事務の人に連絡してから、出ろ、と固有名『司馬カナミ』、…訂正。司馬カナミさんから伝えられています。その後に、仮の受け入れ先である目的地、京都府警本部に向かいます。目的地までの道のりは把握していますので、ご安心を」

参織は淡々と告げる。

この後、本来は為縛の跡地に向かう予定だったのだが、まだ入ることはできないようで僕たちはそこへ行くことをやめて、そのまま本部へ向かうことにした。



「なにか、この病院で新たな気づきとか、見つかったか」

ロビーまでの道のり、彼女と話す。


「肯定。色々な料理があり、またそれらは大変美味であると知りました。他にも、その料理等は簡単に調理法が知ることができるとのことも。すこし、試してみたい、と自身は思います」

気づきというか、なんというか。色々な料理を知らなかったということも驚きだが、あのテロ組織に所属していた人が料理に興味を持つというのもどこか滑稽である。


「そうか、なら今度試してみよう。今は警察の方にお世話になっているからね、その後で」


「同意。今は、ヤキリさんの名字について色々調査してもらっていますから。その案件の後でも私は構いません」


「そう言ってくれると助かるよ。そうだ、そのことで一つ質問したいのだけれど、壱無いちなしという名字はなにか、有名なのか?まあ、ありふれた名字ではないけど」

あの日、司馬さんに僕の本当の名字は月見里ではなく壱無である、と伝えられた。ちなみに、灼梨はそのままのようなので、焼きリンゴは続行なのだが。

まあ、この『壱無』という名字。インターネットで検索しても、日本に数名いる、としか検索結果が出てこず、他には何か突発した情報はなかった。



「肯定。日本の政治社会等において最も影響力の強い名家『零依ぜろより家』の分家の一つ、と言えます。但し、表の社会では公表されているのは、本家の零寄家と分家のいくつかだけで、壱無家は公表されていないようです」


「なるほど、だから壱無家は存在していて、それは有名ではないけれど、警察の方々はそれでも調査を行なっていたのか」

経済力を持つ家の分家である。それなら、一旦預かられるのも当然だろう。だが、ホッとしてしまう。もしもここで警察という後ろ盾が無かったら、僕たちはこれからどうやって生きのびないといけないのか、苦悩する毎日になるところだった。


司馬さんの話によると、仕事先等が見つかるまでは世話をしてもらえるような。すごく、優しく見えるのに、なぜ酒波さんはあんなにも毛嫌いしていたのだろうか。


「提案。自身が、ロビーに伝えに行きますので、先に外へ出て待ってください」

外に出るためのガラス張りの扉の前で、参織は離れた受付先に目を向けながらそう言うと、向かっていった。

提案じゃないのかよ。


一応、彼女の指示に従って、外に出て待つことにする。正面は日陰になっており、太陽の眩しさに当てられないことに安堵する。


「あっ、自販機」

見覚えのある全体的に赤色の直方体に懐かしみを、覚えながら目の前に立つ。


「水一本でも買っておくか、一応」

そう独り言を呟き、財布を取り出して小銭を入れていく。


「あのー、すみません」

いきなり、知らない人に声をかけられる。


「はい。えっと、何か御用でしょうか」

あの街から出て来て看護師さんや警察の方々以外で初の現地人との会話といってもいい。すこし、緊張する。


「月見里灼梨さん、であってますか」


「はい、そうですけど、えっ」

普通に応えてしまうが、この会話に疑問を覚える。


まずあの街の外の人は自分のことを知っているはずがない。そして、知っていたとしても、それは『月見里』という名字ではなく、『壱無』という名字で確認をとられるはずだ。


「そうですか、捕縛開始」


「、えっ、ぐほっ、」

その言葉とともに、鳩尾に重い衝撃が走る。意識は綾杉さんとの戦闘で緩くなったのだろうか、簡単に意識が落ちていく。

あの『理想郷アルカディア』と呼ばれた街の外側は、こんなにも危険に満ち溢れているのだろうか。

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