第11話 振り返る

 道すがら、家庭訪問でのことを尋ねてみたくなった。



「先生、今日はどうしてなかなか本題に入らなかったんですか?」



ハテンコー先生は、僕の顔をまじまじと見つめて言い放った。



「なかなか勉強熱心だね!ちょっと変わってきたんじゃない?」


「こんなふうにスムーズに家庭訪問が行くなんて、思ってもみませんでした。正直、すごく不安でした。いつもいつも電話をかけてくるあのお母さんと顔を合わせるのは正直、すごく嫌でした」



そう言うと、僕は頬に生温かいものを感じた。すると、堰を切ったようにポロポロと涙があふれ出した。張り詰めていたものがどっと押し寄せてきて、僕の頭は真っ白になった。



「うん、そうだね。不安だったよね。怖いよね。精一杯やっても、うまくいかないこと、理解されないことなんて山ほどあるよ」



ハテンコー先生の優しい声が胸に響いてきた。



「そうやって、どん底を知っておくこと、自分の限界を知っておくこと、弱い自分に気づくこと、むちゃくちゃ大事なんだよ」


「はい…」



僕は震える声で返事をした。



「いいかい。すべての出来事は今の自分に必要な出来事なんだわ。そこから何かを学んでほしくて、自分の前に神様が用意してくれたプレゼントなんだ。成長を期待されていない人間の前には、そのプレゼントはやってこないの。田坂先生は成長すべき先生なんだよ。期待されてるってことだよ」


「そうなんですか…?」


「登山、行ったことある?」


「あります…」

「登ってる最中って、全然進んでいるように見えないじゃん?だけどさ、あるときふと立ち止まって振り返るとさ、すごく高いところまで自分が登ってきたことに気がつくんだよね」


「はい…」


「学校で起きる問題なんてのは、上り坂みたいなもんさ。それがなければ、ずっと平坦な道を歩いているようなものさ。全然成長もない。こういうことが起きるたびに、感謝なんだよ」



どういうことだろう。事件が起きるたびに感謝するなんてことがあるのだろうか。



「事件が起きるたび、問題が起きるたび、心に問いかけるんだ。このことから学べることは何だろうって。このことを通して、自分はどう成長できるだろうってね。そうやって考えるとさ、僕らは子どもたちに育てられているってことに気がつけるはずさ」


「先生が生徒に育てられているって、逆じゃないですか?」



ハテンコー先生は、自販機で買った缶コーヒーを僕に手渡すと、さらに続けた。



「そうだよ。僕らは子どもたちに育てられているんだ。目の前の子どもたちをハッピーにすることを志事にする。うまくいかなきゃやり方を変えるし、うまくいったら感謝する。そうやって、PDCAを回していく。PDCAはサイクルじゃない。本当はねスパイラルなのね。一周回ったらさ、さらに高みに行ってるわけね。だから、そうやって子どもたちは日々僕らに課題を与えてくれるわけだよ」



僕は、缶コーヒーに口をつけながらうなづいた。



「こういうときの家庭訪問はだれもが不安だよ。でもね、これだって経験。自分が一人前の先生になるための大事な大事なステップだよ。電話で終わらせるのは簡単だけどさ、そうやって逃げてたら成長しないじゃん?」



僕は、袖口で涙を拭った。たしかにそうだ。僕は電話で済ませようとしていた。それは幸子の母親から逃げるためだったのだ。会うことが怖かった。だけど、こうして会って話して、ようやくわかりあえた。経験することの大切さがよくわかった。今ならハテンコー先生の言っていた「百回の電話より一回の家庭訪問」の意味がよくわかる。それが経験なんだろう。



「目の前の子どもたちがどうしたらハッピーになるかなって考える。やってみて、ダメならやり方を変える。うまく行ったら感謝する。それを繰り返してるうちに、自分がもう一つだけ上のステージに上がっていることに気づくはずさ。だから、逃げちゃダメ。失敗してもいいんだから。いや、失敗して当たり前なんだよ」



 目の前の子どもの幸せ…。僕は子どもの幸せなんて考えたこともなかったな。子どもたちが自分の思い通りに行かないことにイライラしてばかりいた。生徒は先生の言う通りにするものだし、そうなるものと信じていた。今、そんな自分のことがつくづく嫌になった。そう思うと、今日家庭訪問を一緒に付き合ってくれたハテンコー先生にただただ感謝の念が沸き起こってきた。



「先生、本当にありがとうございました…。また、一歩成長できたなって思います」


「まあ、一歩も二歩も成長してくれなきゃ。どんどん成長してくれなきゃね」


「はい…。それで、先生、今日ず~っと雑談していたじゃないですか?なかなか本題に入らないなって思ったのですが。何か意図があったんですか?」



ハテンコー先生は、飲み終えた缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てた。



「そうだなぁ。相手が受け取る準備ができるまでは伝えない。これが大事だと思うんだよね」


「受け取る準備…ですか?」


「そう。受け取る準備。相手がさ、こちらの言葉を受け取る準備ができていないときには、何を伝えたって入ってこないと思うんだよね。だから、まず謝罪したの」



「でも、今回の件で言えば、問題の発端になったのは鈴木本人なわけですよね。なんで、僕らが謝る必要があるんですか?」


「違う違う。事件について謝ったんじゃないよ。鈴木さんのお母さんを心配な気持ちにさせたわけじゃない?そこに謝ったんだよね。先生って職業の人はさ、謝るのが下手なんだよ」


「あっ…、でもわかる気がします。謝ったら負けみたいなところありますよね。交通事故でも、謝ったら過失を認めることになってしまう、みたいに」



ハテンコー先生は大きくうなづいた。



「そうそう。でね、謝り下手だから問題をこじらせてしまうことが多いんだよ。まず謝罪。ご両親に心配をおかけした、そのことに謝るわけ。で、ご両親の心を開いていくの。心を開いてくれて、相手がこちらの言葉を受け取る準備ができたらさ、そのときがようやく本題に入るタイミングだよ」



「たとえば、相手が受け取る準備ができていないときに本題に入ったら、どうなるんですか?」


「ん~、そうだな。人間ってさ、感情の生き物だよね。嫌いな相手の言葉って、腹が立たない?」


「そうかもしれません…」



僕は、ハテンコー先生に会ったばかりのころ、この先生が嫌いだった。何で口を突っ込んでくるんだと、声を聞くたびにイライラしていたのだ。



「相手に対する気持ちで、言葉なんてどうとでも受け取れるんだよね。だから、相手が受け取る準備ができていないときに本題に入るとさ、言い訳にしか聞こえないわけ。こちらは一生懸命説明していても、向こうは何言い訳してるの?って思っちゃうんだよね」


「説明をしているのに、言い訳に聞こえるんですか?」


「そうそう。子どもたちとの会話でもないかい?何で忘れ物したの?って聞いて、子どもが理由を言ったらさ、言い訳するな~!みたいに叱ってしまうこと」



僕は返す言葉がなかった。そんなの日常茶飯事だったからだ。バツの悪そうな顔で苦笑いを浮かべる僕に、話を続けた。



「説明が言い訳に聞こえないようにするためにはさ、受け取る側の準備が必要なわけだよ。だから、雑談はその地ならしって感じだよね」


「先生、あと、その説明なんですけど…。あれでよかったのでしょうか?」


「んっ?何が?」


「だ、だって事件の発端は鈴木だったんですよ。彼女が起こしたトラブルじゃないですか?そこ、ちゃんと伝えなくてよかったのかなって思うのですが」


「ん~、伝えてどうなるの?」


「どういうことですか?」

「いや~、だからさ、伝えてどうなるのかなって思って」



僕は混乱していた。事件が起きたら、それをきちんと親に伝えるべきだと教わってきた。今日の話は事実とは少し違うのではないかと思う。



「だって、三人だけの内緒って言ってた秘密をバラしたことが原因ですよね。それって、鈴木が余計なことをしなきゃ、こんなトラブルは起きなかったわけですよね。そこをきちんと保護者に話して家庭でも指導してもらう。これが普通の生徒指導じゃないですか?」



気がつくと、学校の正門にたどり着いていた。子どもたちのいなくなったグラウンドを眺めながらハテンコー先生は言った。



「いいかい。事実は一つかもしれないが、認識はひとそれぞれ違う。考え方が違えば、ものごとの見え方も違う。これまでは先生の言うことは正しかった。無条件で先生はリスペクトされたし、学校でゲンコツをもらってくれば、殴られたアンタが悪いって言われるのが、これまでの世の中だった。けれども、今は違う。多様な価値観が認められるようになったんだ。一方で、他者に無関心で不寛容な時代になったよね。これまでのやり方が正しいとは限らない。僕らは変わらなければならないんだ」


「じゃあ、先生は事実と違うことを伝えてもいいと言うんですか。それだって逃げじゃないですか?」



ムキになって話す僕に、それでもハテンコー先生は穏やかな表情でこう諭した。



「お母さんの気持ち、幸子さんの気持ちに寄り添うんだよ。必要なのは、相手が受け取れる言葉で伝えることなんだ。たとえ、それが事実であっても、相手が受け取れなければそんなの自己満足なんだと僕は思うんだ。ものの見方は人それぞれ。たしかに、加藤さんの側から見れば、秘密をバラされた、かもしれないね。だけど、幸子さんの側から見ればどうだろう?」



「加藤さんのために…」と僕はつぶやいた。



「そういうこと。事実は一つだけど、その出来事に対する認識は、人それぞれの立場によって変わるよね。本当は、いつだってニュートラルなポジションにいたいんだけどさ、それってすごく難しいことなんだよね。だから、寄り添うって大事なんだな」



 あのとき、僕なら何と言っただろうか。三人だけの秘密だと言っていたのに、幸子がバラした。原因は幸子にある。約束を守るように家庭でも指導をしてほしい。そう伝えたと思う。その言葉に両親は納得しただろうか。娘が孤立しているのに、原因はお前の娘だ!って言われているのだ。きっと納得しないだろうし、不満に思うだろう。これでは、たしかに自己満足だ。



 「先生、今日は本当にありがとうございました」



 そう伝える僕に、ハテンコー先生はにっこり微笑んだ。

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