第45話 日常の復活

 しばしの幸福を味わったセレマウは、決意を新たに約束の塔の中へ入っていった。

 誰でも入ることができる礼拝堂の方には行かず、警備兵が立つ階段の方へ向かう。

 塔内に勤務する警備兵は流石にセレマウの顔を知っているため、ユフィとナナキを連れだって階段に向かってきたセレマウに対し、警備兵が敬礼し道を譲る。


 彼女の顔つきは先ほどまでの弱く、幼い少女のものではなく、一国を背負う法皇のものと変わっていた。

 セレマウが素を見せられるのは、基本的にユフィとナナキの二人だけといる時のみ。


 彼女の想いを思えば、普段の彼女を知る二人からすれば、それはあまりにも酷なことのように思えた。


「公爵への挨拶は私一人で行くから、二人は自分の部屋に戻っていいよ」


 階段を上がりながらセレマウがそう告げる。公爵の息のかかった公の場で二人と親しくすることなどできず、二人が何を言われるか分かったものでもないため、セレマウが二人に配慮した発言だった。

 お世話係兼警護役のユフィと侍女を務めるナナキであるが、法皇とはセルナス皇国で最上位の存在であり、礼を失した振る舞いをすれば、家名に傷がつきかねない。

 特に皇国内での序列最上位を狙うコライテッド公爵にとって同格のナターシャ家は、少しでも足を引っ張りたい存在だ。ユフィの振る舞い一つで父や兄に迷惑をかけることは憚られる。


 セレマウの指示通りに、ナナキは5階、ユフィは9階に用意された自室へと戻って行った。

 9階からは一人で11階まで上がり、セレマウも自室に戻る。塔内に居住を許される者は多くなく、すれ違う者は皆無だった。


 セルナス皇国の実質的な権力を握るコライテッド公爵はすぐ近くにある屋敷に戻ることはほとんどなく、政務のため塔内の10階にある自室で過ごすことが多いため、恐らく今もそこにいるだろう。

 きっと今頃は大司教と共に明日の法話の原稿の確認でもしていると予想する。


 久しぶりに戻ってきた自分の部屋は出発前と変わりなく、豪華な天蓋付きのベッド以外、特筆すべきものもない部屋だった。


「戻ってきちゃったなぁ……」


 寂しそうに一人呟くセレマウに、答える者はいない。

 今回の旅の期間の大半身に纏っていた薄緑の法衣を脱ぎ、法皇専用の純白の法衣に着替えると、セレマウは休む間もなく10階へと向かった。


 序列的に下位に当たる公爵が法皇へ伺うのではなく、法皇が公爵の下を訪ねる歪な構造が、セルナス皇国の実態と知る者は少ない。


 無機質な廊下を歩き、あと10メートルほどでコライテッド公爵の部屋に着くというところで、目的の部屋から一人の男性が出てきた。


「おお、お帰りなさいませ。お出迎えが出来ず申し訳ありません」


 40代前半くらいであろう、軍服を着た凛々しい顔つきの桃色の髪をした体格のいい中年の美丈夫は、セレマウに気付くと彼女の前で片膝をついて跪いた。


「よい。今回の件は私のわがままだ。ナターシャ卿が気にすることはない」


 法皇モードの顔つきになっているとはいえ、まだ少女にしか見えないセレマウの前に軍服姿の男性が跪く様は二人の身分を知らぬ者が見れば、異様に映ったであろう。

 ナターシャ卿と呼ばれた男性の軍服は金糸による装飾が施され、明らかに身分の高い存在であることが見て取れた。その腰には二振りの剣が備えられている。


「娘が何か粗相を致しませんでしたか?」

「そのようなことあろうものか。ユフィには十分に尽くしてもらった。礼を言うのはこちらのほうだ」


 男性の発する「娘」という言葉に対し、セレマウはユフィの名を出す。彼こそがセルナス皇国最高軍事顧問エドガー・ナターシャであり、ユフィの実父であった。


「そうですか、それは安心いたしました。ぜひ法皇様のお話をゆるりと聞きたいところなのですが、少々動かねばならぬことがございまして、申し訳ございません」

「戦か?」


 エドガーが動くかねばならぬ事態など戦い以外に思い浮かばなかったセレマウは、少しだけ眉を顰めて聞き返す。戦争などなくなればいいのにと願う彼女の心が密かに痛む。


「法皇様がお気になさることではございません。明日よりの法話巡礼は国家の一大行事ですので、そちらのみに御心をお配りください」


 そう言って立ち上がり、穏やかに微笑んだエドガーは一礼して階段を下りていった。

 何か隠し事があるのは明白だったが、セレマウはエドガーのことは信用している。彼が大丈夫というのならば、大丈夫なのだろう。


 まだ戦争が続くのか、と溜め息をつきつつも、セレマウは誰もいなくなった廊下を進み、コライテッド公爵のいるであろう部屋の扉をノックする。


「私だ」


 セレマウの名乗りに反応し、即座に扉が開かれる。扉を開けた皇国魔導団のローブに身を包んだコライテッド公爵の従者であろう男性は、頭を下げたままセレマウを出迎えた。


「おお、お戻りでしたか。望み通り、見聞は広められましたかな?」


 室内に置かれたテーブルで何かを見ていた中年の男性が立ち上がりセレマウに声をかける。

 濃い紫色の法衣に身を包んだ金髪碧眼の中年男性は、整った理知的な顔つきをしていた。

 言葉こそ丁寧だが、まるで道具を見るような彼の目つきに、セレマウは無意識に委縮してしまう。


「おかげさまで。いい時間をもたせてもらったよ。私の留守の間コライテッド卿には迷惑をかけた」


 塔に戻るまではあんなにも豊かだったセレマウの表情に色はない。

 セレマウに法皇としての帝王学を教えたのこそ、目の前にいるコライテッド公爵家当主クルゲル・コライテッドその人だ。3年前のあの日から厳しく法皇とは何たるものかを教えてくれた彼に対する感情は感謝などではなく、畏怖。

 必要とあらば肉親ですら切り捨てるのではないかと思うほどに彼は冷淡で冷徹な人間だとセレマウは思っていた。


「滅相もない。法話の準備は滞りなく進んでおります。それに朗報もございますし、明日、信徒たちは喜びに包まれることでしょう」

「ほお……」


 彼の語る朗報など自分には信じるに値しないと胸の中で毒づきつつ、公爵方へ近づくと、テーブルの上に置かれているものが地図だということに気付く。

 カナン大陸全土が描かれた地図だったが、リトゥルム王国のところどころに書き込みがされていた。先ほどこの部屋からエドガーが出てきたということは、両公爵で軍議でも行っていたのだろうか。

 書き込みのある場所には別段注視しなかったセレマウは、地図への興味をすぐに失う。


「明日、私が伝える言葉は?」


 エドガーは本心からセレマウの無事と帰還に安堵している様子があったが、彼からはそういった感情を一切感じない。

 だからこそセレマウも事務的に話がちになる。

 彼の前で感情を出すことの無意味さは、この3年間で身を以て学んだのだから。


「どうぞ」


 法衣の内側から取り出された書状を受け取り、セレマウは黙読を開始する。

 定型的な挨拶に始まり、どんな国を築いていくかという法皇の決意と、驚きもない内容が続くが、中盤から後半にかけての内容を読み、セレマウの表情が強張っていく。


「……これを、私に読めと?」

「ええ、そうです」

「……正気か?」

「私が法話でふざけることがあるとお思いか?」


 形式上はセレマウが立場は上のはずなのだが、彼女の問いにコライテッド公爵は感情も見せず、淡々と答えセレマウの視線を受け止める。そこに敬意など感じられず、セレマウの方が困惑と怒りを浮かべたような表情になる。

 必死に睨み付けるような目で抵抗するも、セレマウには彼に逆らう力はない。


 塔に戻ってくるまでは、あんなに楽しかったのに。幸せだったのに。

 自分は戦争のない世界を目指したいのに。

 自分の無力さに涙が出そうになる。


「明日、よろしくお願いいたします」


 彼の声はセレマウの胸を切り裂くようだった。この塔の中にセレマウの味方はほとんどいない。

 何がセルナス皇国の統治者だと、内心で自嘲しつつセレマウは公爵から渡された原稿を握りしめ、重い足取りで自室へと戻って行った。

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