第6話
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立ち昇る火の粉は、身を焦がす蝶のように不規則にひらひらと舞い上がりながら、晩夏の夜空に溶け込んでいった。
暗闇のグラウンドの中心には、太い薪を四角形に四、五段組み立てたキャンプファイアーが燃え盛ったまま直立し、みんなの足元を提灯の明かりのようにぼんやりと照らしていた。
ぼくはまるで黄泉の国の切れ端にいるような心地でいた。頼りないマッチの火をつけて、暗闇の底を延々と歩いているような、さびしい気持ちになった。
何もかもが夢のように過ぎていって、もしかすると太陽は死に絶えちゃって、ぼくらも死んでしまって、二度と光が戻らないような気がした。
キャンプファイアーの焚き木がばちばちと爆ぜていた。その音だけは耳に心地よく、次第にぼくはウトウトし始めた。
役目を果たし、ぺったんこに畳まれたテントみたいにぼくも夢の中に沈んでぐったりと眠り込もうとしていた。
後夜祭があったことなんて、すっかり忘れてしまうくらいに。
「起きろー、起きろー、起きてくださーい。馬役のお通りですよー」
この煩わしい声は。あれだ。無視してもいいやつだ。
「なに塞ぎ込んでるんですかー。騎馬戦で負けたのが、よっぽど悔しかったんですかー」
ああ、面倒くさい。
「まあそりゃあね、俺も多少は期待してたよ。もしかしたら、奇跡あるんじゃない? って思っていた時期が私にもありました」
ああ、そこはかとなくうざい。
「けれどあんなにすぽーん、って負けるもんかね。すぽーん、だぞ、すぽーん。俺は、口ぱっかーんって開けて、お前のはちまきが風に揺らめくのを古色蒼然として見ていたのよ」
悪かったな、すぽーんで。野球部のエースピッチャーに帰宅部が敵うわけねえんだよ。
「まあ、そう拗ねるなって。俺はなんだかんだ楽しかったけどな。まさか一番最後まであの場所に立っているとは思わなかったし。ちょっと誇らしい気分だよ」
そっか。それは良かった。
「言いたかったのはそれだけ。ずっと隅っこに座ってたら風邪引くからなー、お前も動けよー」
と言い、彼はぼくのもとから去ろうとした。そうだ、ぼくも、彼に言わなきゃいけないことがあった。
おーい、柏木ー。
「なんだー」
ずっと背負ってくれてありがとなー。
「おーう。じゃあ、また明日なー」
明日は代休で休みだけどね、細かいことはどうでもいいか。柏木はみるみるうちに闇にぽちゃんと消えていってしまった。
またしてもつれない静寂がじんわりと染み渡ってきた。心細さと、虚無感と、埋められない不足が胸に穴を開けていた。すかすかの食パンみたい。バターを塗ってあげたいよ。
耳を済ますと、秋の虫の音色が聞こえてきた。鈴虫、松虫、轡虫。君たちは夜の風鈴みたいだね。優しい孤独みたいに。
「どうだ、大将の気分はだいぶ抜けたか」
うん。まあ、それなりに。負けてしまったら普通に現実が戻ってきたって感じだよ。ところで、怪我のほうは大丈夫なの、椎名。
目線の先にはあの凛々しい顔があった。眼鏡のレンズにかすかに炎が反射していた。
「心配するほどじゃない。軽く頭を打っただけだ」
あのときの椎名の素早い判断がなかったら、最後まで残っていなかったよ。
「どうだかなあ」
椎名は照れ気味に頬をかいた。
ねえ、椎名。ぼくはあのとき、砂煙りに巻かれて見えなかったんだけど、あの細腕の主はやっぱり竹熊だったのか?
「いや、実は違うんだ。竹熊はほとんど自分の陣地から動いていなかったし、この目でしかと見ていた」と椎名はため息をつくように言った。
「それに、竹熊の腕があんなに細いはずがない」
うん、ぼくもそれが気になっていたんだ。あれはまるで、女の子の腕。
「真相は俺にもわからない。あのときの俺は、とにかくあの腕からお前を遠ざけるのに夢中だった。それで気づくと、俺のはちまきは地面に落ちていた」
考えれば考えるほどわけがわからなくなるね。
「試合は生き物だ。何が起こるかわからない」
うーん、二度とごめんだ。
「松郷はいい試合をしてくれたと思う。青団のみんなもお前の頑張りに熱くなった、って言っていたぞ。よかったな」
うん。その反応は素直に嬉しいな。流れでさせられた大将だったけれど、それなりに役割を全うすることができたのかな。
「ああ、それなりにな」
ありがとう。
「それじゃあ俺はこれで。体育祭実行委員会の打ち上げに行かなきゃならなくてな」
うん。またね。
「おつかれ」
椎名は最後まで委員長の顔をして、放射冷却で急激に冷えたような闇の中に消えていった。
キャンプファイアーの焚き木がぼろぼろと崩れかけていた。火柱がピサの斜塔みたいにかたむいて、生徒たちが悲鳴を上げた。橙色の火柱はもう直にいのちを終えようとしていた。それは粉々に砕け散って、刻一刻と小さくなって最後の最後の最後に、熟れた赤い果実を切ったときのようなじゅっとした音をさせて死ぬのだろう。
ぼくもいつかは死ぬ。
今日のことなど空っぽに忘れてしまって、懐かしい思い出もなくなって、全部置き去りにして消えていく。
「見つけた。ここにいたんだね」
ふっと、上から声が落ちてきた。お昼の水滴と同じみたいに。
「柏木くんに居場所教えてもらっちゃった」
こんばんは。
「こんばんは。ひとりなの?」
うん、ひとり。
「ひとりでいいの?」
うん、いい。
「ほんとに?」
わからない。
「となり、座っていい?」
いいよ。
「よっこいしょ、っと。はあー、今日は一日疲れたねー」
うん。すごく疲れた。去年の倍は疲れたかな。
「だって騎馬戦すごかったもんね。あんなに動いたら大変だよね。怪我とかしなかった?」
見てくれてたんだね。
「やっぱり男子の競技って、迫力が比べ物にならないね。教室とかではみんな馬鹿なことばっかりしているのにさ、ああいう競技になると全然雰囲気変わるんだもんね、男子ってすごいよ」
やっているほうはいつも必死だよ。もう、くたくた。
「だよね。──ねえねえ、聞きたいことあるんだけどさ」
なに。
「なんで大将になったの」
それはね、じゃんけんで勝ってしまったから。
「なにそれおかしいー」
笑い事じゃないよ。すごくいやだった。
「でも、一番最後まで残った。えらい」
みんなの支えがあったからだよ。
「友情だね」
そうかもね。ああ、あとね、
「ほかにもあるの」
うん。試合開始前の、メッセージ。
「ああ、あれか」
うん、あれ。
「どうだった」
最高だった。今日イチ。
「やったー。褒められた」
夏の、女の子。
「? なにそれ?」
なのに、名前は冬みたい。
「もしかして、わたしのこと?」
うん。
「夏の女の子かあ。はじめて言われた」
変?
「ううん、悪くない」
よかった。──あの、ぼくもひとつ聞きたいことがあるんだけど。
「いいよ。なんでも言ってみなはれ」
お昼の空き教室のこと。その、竹熊とのこと。
「ああ、それねえ」
聞いちゃだめなやつ?
「いや、いいよ。だってちゃんと事情話すって言ったもんね」
無理しなくていいからね。
「うん。そのね、実はあのお昼、竹熊に呼び出されたんだ。で、あそこに行ってみると真剣な顔をした竹熊がいて、『後夜祭のとき、またここに来てください』って言われたわけ。伝えたいことがあります、って」
伝えたいこと。告白かな。
「やっぱりそうだよね」
だって、ねえ。後夜祭に呼び出す理由って、そのほかに思いつかないし。っていうか、今も後夜祭だよ。
もしかしてもう行った、とか?
「あのねえ、わたしは後夜祭の間、ずっと君を探していたんだよ」
ぼくを?
「そう、君を」
竹熊のことは行かなくていいの。
「うん、あんまり好きじゃないし」
ああ、そうなんだ。ぼくはてっきり、ふたりは付き合っているのかとばかり。
「やだ、むりむり」
そんなに拒絶しなくても。
「でも考えるとウケるよね。今わたしはここにいて、竹熊は空き教室でわたしが来るのをずっと待っててるんだよ。暗い室内に、幽霊みたいにぼんやりと立ってさ」
それは笑える、し、少し気の毒な気もするね。
「今日は一日いろいろあったなあ。笑って、応援して、走って、汚れて」
最後にはみんな空っぽになって、泥臭くばたりと倒れて。
「これってさ、青春みたいじゃない?」
うん、青春みたいだ。
「ねえねえ、松郷くん」
なんでしょう、安藤さん。
「今ってなんの時間だっけ」
青春の延長、かな。
「ふざけてるでしょ」
ふざけてないよ。本気本気。
「だめー、そうじゃないんだって」
じゃあもう一回やってみる?。
「うん、やる」
準備はいい?
「いいよ。えーっと、こほん。──ねえねえ、ま、松郷くん」
なに、安藤さん。
「今って、えっと、なんの時間だっけ」
誰かが告白をしわすれた後夜祭。
「それじゃあ、その、」
なんでしょう。
「あなたが、わすれた人の代わりに、やっていただけませんか。告白を」
……ぼくで、いいの?
「うん。お願い」
夏の終わりのせいにしない?
「うん。しない」
じゃあ、うん、わかった。
安藤さん、そこに立ってて。ここは空き教室で、ぼくが外から入ってくるから。
そしてぼくは彼女の待つ教室の扉をゆっくりと開いた。
△
おわり
さよなら三角、また来て四角、もしくは互角 瀞石桃子 @t_momoko
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