蠱惑の泉


 台北最北部、北投ほくとう区。


 日本と同じく、環太平洋火山帯に位置する台湾は、それゆえに、温泉大国でもある。島内に百ヶ所以上もある温泉地。その中でも、最も早く発見された老舗温泉宿。それこそが北投にある『北投日勝生にっしょうせい加賀屋かがや』だ。

 この名に、違和感を覚えた読者もいるかもしれない。まるで・・・日本名のようだ・・・・・・・、と。ご明察である。


 この温泉宿――当時は『天狗庵』という名称だったが、一世紀少し前に、日本人により発見され、開業された宿なのだ。というのも、当時の台湾は、日本による統治時代。人も文化も、多くが、日本から台湾に流入した時代なのである。


 こうして、温泉という文化も、台湾に流れ入った。その始まりがいまでは、日本の、石川県にある有名温泉旅館、『和倉わくら温泉加賀屋』の唯一の海外系列店として、台湾屈指の高級温泉宿へと成長したのである。


 ゆえに、その接客は、『おもてなし』の精神を体現した日本式だ。接客に限らず、繊細優美な和食。客室も、畳を敷き、ゆったりとくつろげる日本風のものが多くある。日本庭園を模した宴会場すらあり、日本に生まれ育った者であれば、外国に来ていることすら忘れるのではないかというほどの、和風旅館であった。


「あ、あ、あ、ああああぁぁぁぁ――――」


 思わず漏れる声が抑えられないように、男は、腹の底からの唸りを上げた。長旅の疲れと汗を流し、至福のときである。煙幕のような湯気に満たされた浴場では、夢も現も混然としたような、まどろみのようでもあった。


 とはいえ、気を抜いてばかりもいられない。そんなことは解り切っているのだが、それでも、的確にツボをついてくる攻勢に、男はなすすべもなく悶えていた。


「ああああぁぁ――そこそこそこそこ――――」


 むず痒いような、痛気持ちいいような感覚が、全身を巡る。ほぐれていく。というのは、まさに言い得て妙だ。この快楽の中では、緊張することすら許されない。いくら相手が、特段に親しくなく、乱暴に言ってしまえば敵のような存在だとしても、うまく警戒が働かない。


「気持ちいいですか? ハク様」


 腰に体重をかけるついでとばかりに、彼女は男の耳元にささやきかけた。その声音がまた、絶妙に心地よい。


「あ、ああああああぁぁ……」


 肯定なのか、喘ぎ声なのか解らない声を、男は唸る。どちらにしたところで、ネガティブな感情ではなかった。

 だから男にささやきかけたあるじは、くすり、と、笑う。


「はい。全身マッサージの完了です、ハク様。お疲れさまでした」


 最後にやや強めに男の肩を叩き、そばかすメイドは男の背から退く。「ああぁぁ――ああぁ――――」と、名残惜しそうに男は唸り、少しの間そのまま、動かなかった。


        *


 一般的な台湾での温泉地では、多くが、混浴を基本にしている。男女ともに水着を着用し、同じ湯につかる。日本人の感覚としては、温泉というより、温水プールに近いかもしれない。日本よりよほど気候が温暖な台湾の湯はぬるめで、その点においてもそのように感じるだろう。


 だが、この『北投日勝生加賀屋』は、日本風の温泉宿だ。つまるところ元来、男女別の浴場となっている。しかし、この日はそばかすメイド――あるいはWBOの計らいで、宿を貸し切っていた。それにより、男とそばかすメイド、そして女傑は、ともに入浴しているという構図となっているのである。

 もちろん、水着は要着用だ。


「ああぁ……すげえ……。すげえってかやべえ。ぜんぜん体に力が入らねえ」


 マッサージからややあって、男はずるずると、四足歩行で湯船に戻ってきた。そのまま、なだれ込むように入浴する。


「なにを腑抜けとんねん、ハク。解っとるはずやけど、いちおう、あいつは敵やねんで」


 長い前髪を湯につけた女傑が、その隻眼で、男を侮蔑するように見下した。『あいつ』は男のマッサージを終えたのち、体を洗いに隣の浴場へ行ってしまった。おそらく体を洗うために水着を脱ぐからだろう。


「解ってるよ、警戒はしてる」


 ほんまかいな。と、女傑は内心突っ込むが、たしかにどうやら、警戒を怠ってはいけない、という意識自体は感じたので、言葉は飲み込んだ。あくまで意識のみで、結果は出せていない様子ではあったが。


「だが、おまえもいちおう解っとけよ。あくまで『異本』の件については、平和的な交渉として来てるんだ」


「やけど、今回ばかりは、実力行使もやむを得えへん。そうやろ?」


 女傑の言葉に、男は瞬間、口を噤む。そして念のため、周囲を――隣の浴場の様子を、窺った。いや、この会話の傍聴に関する警戒は、女傑がしているだろうとは、解ってはいるのだが。


「ここまで、776冊、そのすべての『異本』蒐集に肉薄してる時点で奇跡だ。そして、ここにWBOの持つすべてを加えれば、本当にほぼすべての『異本』が集うことになる。ノラの話だと、たしか――」


「行方不明の『異本』が、あと、二冊や」


 女傑が話を引き継いだ。それはどこか、少女の名を忌避するような、そんな口の挟み方だった。


「俺の持ってねえ『異本』の、ほぼすべてがWBOここにある。『無形異本』は『先生』が完成させ、現状、個人所有になっている『異本』も、WBOここに集いつつある。……だよな?」


「ああ。……うちの感覚からすると、個人所有やった三冊の『異本』。そのうち二冊は、現状でもう、集っとる。最後の一冊も、そろそろやろ」


 個人所有、最後の一冊。その言葉に、男は、思いを馳せる。


織紙おりがみ四季しき、か。あいつもここに来んのか?」


 それは、幸であるか不幸であるか、いまいち決めきれない情報だった。かの青年は、女を追っている。それはつまり、男たちとも敵対していると言っても、そうおかしな表現ではないだろう。いや、それ以前に、生きていたとはいえ、彼は、老人の仇だった。それはやはり、男から見れば、敵に違いない。『太虚転記たいきょてんき』をわざわざ持ってきてくれるのは、手間が省けるというものだ。しかし、とはいえ、彼の強さを聞く限り、必ずしも打倒し得るとは限らない。そのうえ、話が通じる相手だとも、思えなかった。


「微妙なんやよなぁ。ぶっちゃけ、あいつの行動原理が、うちにはよう解らん」


 女傑は、両手を後頭部で組み、天井を見上げるようにして、言った。水着を着用しているとはいえ、その豊満――というよりもはや、巨大すぎる胸の脂肪が湯船に浮かぶので、男は目のやり場に困る。


「そりゃ、面識ねえだろ。解らねえほうが普通だ」


 女傑の洞察眼が、幼少のころと比べれば天と地ほどに卓越したことは、男も理解している。だが、どれだけ、世界に溢れる情報や、誰かからの外聞、これまでの行動の流れを見知っていても、やはり、本人に会っているかどうかは、その者を理解するのに重要なファクターだろう。百聞は一見に如かずともいう。


「せやな」


 端的に言うと、女傑はふと、ぶくぶくと、湯船に潜ってしまった。……そしてそのまま、出てこない。


「おい、パララ?」


 彼女のいたあたりを手探りするが、なににも触れられなかった。滅多なことはないだろうが、どうしたのだろう? そもそも彼女ほどの高身長な女性が、素潜りできるほど深くもないはずなのだが。


「あら、なんの悪だくみですか、ハク様」


 不意に後ろから、彼女は声をかけた。だから男は反射的に姿勢を正し、緊張した。


 声の主は、もちろんそばかすメイド……だろう。まだ振り向いていないので、確認はできていないが、確信はできる。

 ぽちゃん。と、静かに湯に入る音が、男の背後で波打った。


 ともすれば、彼女の姿を確認し、女傑はどこかへ移動するため、素潜りしたのだろうか。周囲を軽く見渡してみるが、どこにも顔を出した様子はないけれど。まあ、女傑なら、長時間の素潜りも可能なのだろうし、とうぶん、そのへんに潜り続ける気かもしれない。


「べつに、なんでもねえ。詮索すんな」


 そばかすメイドは、広い大浴場であるのに、男のすぐ背後に入浴したらしいので、男はやや距離を取り、さきほどまで女傑がいたあたりに移動した。それからようやく振り向くと、たしかにそこにはそばかすメイドがいた。女傑とは違い、しっかと長い髪を上で纏めて、湯船につけないようにしている。印象的な丸眼鏡も、もちろん外しており、だいぶ雰囲気が変わっていた。


「そう言われますと、逆に気になってしまいますね。ねえ、ハク様?」


 せっかく距離を取ったというのに、そばかすメイドは寄ってきた。男の横にすり寄り、湯船の中で、その腕に、自らの腕を絡めた。あるいは、決して大きくはない、胸部をも。


 その感触に、男は狼狽する。けっして、女性の胸部に欲情したわけではない。いや、ある意味ではそれも正しいのだけれど、問題は、その、肌触りだ。


 こいつ、水着、着てるか? そう疑問を持つ。腕に触れる感覚は、肉体の肌の感触しか感じられなかった。だからといって、確認するのに視線を向けるわけにもいかない。男は改めて、頭がぼうっとしてきた。


 そもそも、目的地が温泉ということで、男はやや、安堵していたのだ。当然と、男女の分かれた大浴場を想像していたから。ようやくそばかすメイドからの監視を、ひとときでも躱せると。その隙に、軽くまどろんでおこうと思っていたのだ。そろそろ、男の眠気も限界なのである。


「ね、わっちにだけ、こっそり、教えて?」


 身を寄せ、女性の柔らかい肌を絡ませ、男の耳元に、囁く。くらくらとするほど濃い、女性の匂い。もちろんそんなことで、男は口を割る気もなかったが、こうやって主導権を握られ続けるのもまずい気がした。


 なにか、言い返さねばならない。なんでもない、と、強く拒絶しなければならない。そう思うが、眠気も相まって、強く感情を荒立てることが、できない。ほぐされた体が、まだ引き締まってもいない。気を抜けばこのまま、なにもかもしゃべってしまいそうだ。


「フルううぅぅアあぁ! おんどれぇ! いい加減にせえよぉ!!」


 潜ったまま、どこにいたのか、唐突に女傑は、水中から勢いよく現れ、叫んだ。その声に、さすがの男も、覚醒し、気を――体を引き締める。


「なぁんや、パラちゃん。おったん?」


「おるに決まっとるやろぉが! いてこますでほんまぁ!」


 男を挟んで、女子ふたりが取っ組み合う。その狭間で、男の頭は押さえられ、沈められ――。彼の意識はとうとう、虚空へ旅立って行った。



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