幕間(2027‐2‐3)

物語を進める者


 2027年、二月。台湾、台北。

 WBO本部。最上階。


「私の方でできる準備はすべて終えました。あとは、彼が動くかどうかですが――」


 いまにも落ちてきそうな、巨大な月を背景にした、壮年の背中へ、若人は語る。


「動くさ。必ず」


 壮年はやけにはっきりと、答えた。


「やはり、迎えくらい出すべきでは? せめて、連絡をいれるなど」


「心配性だな。ソナエは」


「いや――」


 むしろ、あなたが楽観的すぎるのでは? そう思うが、言葉にはしない。壮年を尊敬しているからでもある。だがこのときは、自分のことを振り向いた壮年の瞳に、強い確信を見たからでもあった。


「物語は、進むように進む。なるようになるのだ。ソナエ。誰も運命プロットからは逃れられず、また、運命エピローグはとうに、決まっている」


 また空を見上げ、壮年は、わけの解らないことを、やはり確信的に、言った。

 続く言葉を、若人は知っている。


「おまえは、私のために死ねるか」


「ええ。いつでも」


 呆れた。そのように容易く、なんでもないことのように、肩をすくめて、即答する。


 死に対する恐怖は、ある。だが、若人にとっては、それよりも怖いことが多すぎた。壮年に失望されること。壮年の役に立てないこと。壮年のことを理解できないこと。

 いや、それだけではない。彼にかかわらないことであろうと、普通に数々、ある。つまりは、ただ単に、彼は一般人より、よほど多くのことが、怖いのだ。そしてその中でも、『死』は比較的、怖れるに足りないだけである。


「そうか」


 壮年は淡白に、そう言った。

 彼はそんな若人に対して、好悪どちらの印象も、抱いていなかった。それは、いついつでも、自らを偽っていないからこその自信だ。自分は自分で好きに振る舞って、それに心酔されるなら、仕方のないことだ。もちろん、殺意を向けられるほどに嫌悪されたとしても仕方がない。ただ、自分らしく生きて、それに相手がそのように感情を抱くなら、それはそれで、自分にはもう、どうしようもない。それだけである。


「ソナエ」


「はい」


 きらきらと、月光にその瞳を輝かせた若人が、振り向いた壮年の目に、写る。

 それは、いつかの誰かを見るような、まばゆく、そして忸怩たる、膿のような後悔の、狂気に満ちていた。


「……おまえは生きろ。それが、私の願いだ」


「解りました」


 きっと彼は、真逆のことを言われたとて、同じ反応をするのだろう。そのような軽さで、小さく笑った。

 すでに背を向けてしまった壮年に、一礼をして、退出する。


 壮年は強く、瞼を、結んだ。


        *


「ク――」


 喉の奥からひねり出すような低い声が、一息、突き出る。


「ハハハハハハハハ――。珍妙な主従関係だな。末裔」


 月光のみにて照らし出される、薄暗い部屋。その闇から蠢き出でるように、その仙人は、現れた。


 まさしく、奇怪に。その空間には寸前まで、たしかに何者も――何物もなかったはずであるのに、ふと唐突に、しかして、まるでずっと長く居座っていたかのように、ソファと、そこに態度悪く横になる、総白髪の精悍な老爺が、まさに仙人然と、現出したのである。


 月の光を浴びて、その白髪はきらきらと輝く。その様は、水銀を零したように美しく、力強い。


「主従などではありませんよ。孟徳もうとく公。私たちは対等だ」


 壮年は、若人に向けるよりかはやや鋭利さを増した瞳で、彼を振り向いた。


「確かに、主従という語彙は不適切やも知れぬな。だが、あえて主従と定義したとしても、それゆえに対等でない、とはならぬ。人を治める。人に従う。それら役職ロールに、貴賤はない。いや、これも言葉遊びか。貴賤はある。だが、貴賤それは、人間の本質的な価値を定めるには足りぬ」


 演出されたような、呂律のやや危うい、セリフだった。それを後付けするように、仙人は、どこから、いつから取り出していたのか、瓢箪を傾け、内容されているであろう液体アルコールを、あおる。


 クハハハ――。さも本当におかしそうに、大仰に、彼は笑った。


「であれば、これは依存か。クックック――。なれば、珍妙というのは取り消そう。これはまったくもって正常な、現実からの逃避だ。己からの逃避、と、言ったほうが正確か。各々同じ感情から、同じものから逃げておるのに、その結実は対極的だな。彼奴きゃつは依存。そしてぬしは――」


 無情、といったところか。言葉を重ねるたびに、語気を鎮めながら、仙人はそう言った。その言葉に、自ら納得をしていないかのように。美しく整った顎髭を撫で、思案顔をする。


「げに……人間の感情とは、不可思議なものだ。かつて、その感情に自ら進んで弄ばれた男が、いまではそれを、完全に支配下に置いている。ましてや、他の者のそれまで――」


「黙れ」


 壮年は、細めていた目を見開き、言った。


「あなたに対しては、先達として敬意を払っているまで。いまは対等な協力関係であることをお忘れなく。意味もない人生相談に乗っていただく義理はありません」


 クハハハハハ――。仙人は、壮年の言葉など意にも介さないように、やはり、笑った。


「あいや、これは失礼をしたな、末裔。これでも人間と会話をするのは久方ぶりでな。つい不要なことまで語ったらしい」


 口元は笑おうと、目は剣呑に、壮年を射抜く。そのまま立ち上がると、彼が体を横たえていたソファは、もとより塵であったかのように、消えた。


「もちろん、貴様の人生だ、好きに死ね。我はひととき、闘争を愉しめれば、それでよい」


 小柄ながら、壮年を見下すように見上げて、また口元だけほころばせる。そうして振り返り、背を向ければ、……仙人も、ソファと同じように、消え失せた。


 ク――。笑い始めの一音だけが、残響をとどめて。


        *


 リュウよ――。


 いつかの声が、壮年の脳内にこだました。かつての記憶が想起される。だが、それもつかの間。


「リュウよ」


 同じ声が、現実に響く。


「『先生マエストロ』……」


 いまや古い記憶の呼び名を、呟く。かつて彼と過ごした時間を懐かしんで、わずかに、瞼を落とす。若かりし日の自分と、友人たち。そして、かつての恩師。もろもろの半生を、じんわりと思い出す。


「おまえ、こんなことがやりたかったのか?」


「さあ」


 まだ彼は、月を見据えたままだ。訪れた老人に、一瞥も目を向けない。


「私は、物語の通りに行動しているまでです。そこに感情を差し挟んでなどいない」


 老人は、納得いかないようにひとつ、嘆息した。呆れた、という感情にも、見える。


「のう、リュウよ」


 語りかけて、言葉を止めるから、怪訝に壮年は、ようやっと振り返った。臙脂えんじ色のダブルスーツを着込んだ、壮年だ。少しだけ色が薄くなった、ダークグレーの髪。どうやら天然であるらしい癖のある髪型だ。目元が少し隠れるくらいに長い。襟足も伸ばしており、やや清潔感は低めかもしれない。地位の高い者としては、若干、見栄えの悪い髪形かもしれないが、組織的に、さして対人するということも多くはないので、問題はないのだろう。


「シンファは、もうおらんのじゃぞ」


 老人の言葉に、壮年は、わずかに目を細めた。しかし、それを意識的に戻したのだろう。しっかと目を開き、老人と目を合わせる。互いの考えていること、感じていることは、きっと、それだけで伝わっていた。


「解っていますよ」


 だから、決意だけを、言葉にする。そんなことは解っている。そのうえで、こうしているのだ、と。


 その決意を受けて、老人は嘆息した。


「『無形異本』の完成は、予定通り終わる。物語の流れに、遅れはもたらさん。それでええじゃろ」


「ええ、お願いします」


 壮年の言葉を聞くか聞かないかの間に、すでに老人は消えていた。パリに、戻ったのだろう。


 そうして、やっとひとりになって、壮年はやはり、月を見た。


「シンファ。君は私を、叱るだろうな」


 それでも――。と、自らに言い聞かす。手を伸ばせば触れられそうな、巨大な月に、手を伸ばし、そこに、愛する者の姿を、重ねた。


「月は、遠いな――」


 呆けるように口を開き、それから、強く唇を、噛む。最後の戦いが、近付いている。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る