交錯


 それからまた少し、話をして、いい頃合いになった。


 そういえば、パリに来たのは、淑女とも、でもあるのだが、あの三つ子ともまた、合流するためでもあったのだ。そして、メイドとも。

 つまり、ずっとここにいるわけにも、いかなかった。


「ところでルシア、おまえ、仕事はいつまでだ?」


 男の問いに、淑女はぴくりと体を震わせ、瞬間戸惑ってから、返答する。


「えっと……だいたい、午後五時、かなぁ。六時とか七時になることもあるけど」


 答えを聞いて、男は現在時刻を確認する。まだ、午後三時前である。


「まだ時間あんな。……あれ、つうか、ノラはどこ行ったんだ?」


 たしか、ちょっと出てくる、とか言って、どこかへ行ったはずだった。連絡を入れてもいいが、普段なら、そんなことなどとうに見越して、ほどよく帰ってきているはずである。

 まあ、まだ急ぐこともない。とりあえずはもう少し、待ってみるか。そう、軽く男は判断した。


「あ、それより、ハクさん。これ」


 おずおずと、淑女がなにかを差し出す。それは、くり色の装丁をした、一冊の書籍のようであった。


「あの、あーしが持ってても……失くしたら困るし、早めに渡しとこうと思って」


「おう……。え、で、なに、これ?」


「『テスカトリポカの純潔』。なんだけど」


「うん……?」


 言葉の意味を理解し損ねて、男は、なにかと聞き違えたかと思った。老人が横で、聞こえよがしに嘆息する。


「あいかわらず馬鹿じゃのう。『無形異本』を有形にしたと言ったじゃろうが。いろいろ察せ」


 老人の言葉に、男は反射的に憤慨した。


 なんだろう。たとえば少女やメイドに呆れられることに関しては、意外とすんなり受け入れられたりする。それはきっと、あまりに自分と彼女らの間に、強さや、賢さの差があるから、なのだろうと自己評価していた。


 しかし、眼前の老人に関しては、そこまで大きな隔たりがないと思っているのだ。彼が、世界に数人しかいない『異本鑑定士』であることは知っているはずなのに、普段の生活の様子などを間近で、長年に亘り見てきたからこそ、侮っているのかもしれない。いや、ただ『家族』として、対等だと思っているからなのか。


 まあ理由はともあれ、そのように男は、気持ちを荒げた。そしてそこに対する反発として、彼にしては珍しく、思考を働かせられたのである。


「まさか、テスに宿っていた『異本』の性能を、この本に移したのか?」


 そしておそらくは、『無形異本』を有形に変えた手法というのも、似たような手口なのだろう。そのように、基本が愚かな男にしては珍しく、この場で彼は、かなり正確な答えを導き出していた。


「ちょっと話聞いたけど、おまえ、『異本』を全部集めるんじゃろ? そして、それを封印するとか。じゃったら、そもそもおまえ、テスをどうするつもりだったんじゃ? ルシアの友人であるテスを、封印する気じゃったのか?」


「…………」


 その問いに、男は答えられない。


 だが、もし正直なことを言うとしたなら、男には、その覚悟があった、ということになる。決して、考えていなかったわけじゃない。いや、たしかにできる限りに後回しにし、深く考え過ぎないようにはしてきた。しかし、ときおりまどろみの中でぼうっと思考してみるに、最悪の場合、そうするより他ないだろうと、思ってはいたのだ。最終的な決断は、まだ先送りにしていたとしても、きっと、そのときがきたら、男は無情にもそう行動しただろうと、客観的に思っていた。


「ともあれ、そんな事態が起きねえように、儂が骨を折ってやってたんじゃ。感謝しろ」


「そりゃ、感謝はするが。……つうかてめえ、俺の敵じゃねえのかよ?」


 いや、そのような宣告は、少なくとも老人は、明言していない。ただ、さきほどの様子を見るに、男はそう感じてしまっていたというだけのことである。

 そんな、あやふやな問いに、老人は、「はあ?」と、語尾を上げた。


「べつに敵になんぞなっとらん。味方でもねえがの。……じゃが、儂はルシアの味方ではある。こいつが悲しむのは、見る気ねえからの」


「『おじいちゃん』……」


 その、何気ない言葉に、淑女は感極まったように、老人を見た。わずかに、瞳が潤んですら見える。


「勘違いすんじゃねえぞ。儂は責任を取っとるだけじゃ。……ホムラは別として、ハクやジン、そしてシキ。おまえら三人は、あの屋敷に勝手に住み着いたんじゃ。儂が能動的に拾ったわけじゃねえ。じゃが、ルシアとホムラは別じゃ。儂が、儂のエゴで、ともに在ることを選んだ。ある意味、こんな世界に引き込んだ、とも言える。じゃから、そこに対するアフターケアくらいは、やらなあかんじゃろうが」


「『おじいちゃん』……」


 淑女はそれを聞いても、まだ感動していた。いやむしろ、さらに瞳には涙が溜まり、いまにも決壊しそうだ。


「ええい、変な目で見るな。儂は好き勝手やっとるだけじゃ。恩もクソも感じる必要ねえ」


 どう悪態をつこうが、淑女は止まらない。せめて笑顔を返そうと瞼を下ろすから、反動で、一滴、彼女の目からとうとう、心が溢れた。


「なんつうか、『先生』。あんた、やっぱ似てるよな。ジンや、ホムラに」


 正確には、老人の性格を、義姉や義兄が真似たのだろう。そうは思うが、それを表現する言葉は、先のように言う方が、どうにもしっくりきた。


「はんっ。むしろ、おまえによく似とる。周りからはそう思われとるらしいがの」


 嫌そうに、老人は言った。その言葉の裏に隠れた意味を、男はこのとき、気付けなかった。そういう意味では、やはりこの男、基本的には馬鹿である。




 いったい誰が・・・・・・、老人と男を、似ていると評したというのか。それにまったく、思い至らないとは。




「まあ、あとはあるいは、シキにも似とるんじゃろう。が、そりゃ、当然のことじゃよな」


 じゃって。と、老人は続ける。


「『家族』じゃろ。似るに決まっとる」


 そう言って、老人は嘲るように、鼻で笑った。


        *


 おお、おったおった。

 フランス、パリ。この地がそういう場所であることを、男は瞬間、忘れる。その、関西弁に。


「話は終わったんやろ? 今度はうちに付き合えや。ハク」


 その女傑は、まるで・・・少女のように・・・・・・、なにもかもを見通しているかのような口ぶりで、そう言った。やはり、なにもかもを知っているような顔で、不敵に笑っている。


「おう。……パララか」


 おずおずと、男は応える。まだ――


「慣れとらん感じやな? しゃあないわ。シャンバラから戻ってこっち、ほとんど遊べんかったもんな?」


 すべてを知っている。だからこそ優位に、女傑は気後れする男に、昔と変わらぬような近さで、スキンシップした。それはつまり――これだけ成長してしまえば、たとえば、驚くほどに膨らんだ胸部を、加減なく押し付けるような近さだった。


「おまえ、いまはWBOの――」


「そんなん関係あらへんわ。うちは、ハクのお嫁さんやもんな?」


 ぶっ! と、男は汚いことに唾を吐いた。老人や淑女からの視線が、絶妙に冷たく変貌した。

 ふっ。と、誰かがなにかを言いかけた瞬間に、女傑は先手を取り、息を吐く。


「冗談や、冗談。なんや、そんなんやったら、大阪では生きていけへんで?」


「いや、べつに俺は、大阪で生きてく予定はねえよ」


「まあ、そらそうや」


 胸を押し付ける距離感からぱっと離れて、女傑は力強く、男の背中を叩いた。さきほどとは別の理由で、男は、ぶっ! と、唾を吐く。


「……で、WBOでの仕事はいいのか? たしか、始末書がどうたら言ってたろ?」


 コルカタで、わずかに言葉を交わしたことを思い出す。突き放されるようで、歳月以上に、どこか隔たりを感じた、あのときの彼女を。


「ああ、あれな? なんや、うち、たぶん死んだことになっとるさかい、もうええわ。どうせいつかは敵対する組織やし、タイミングとしても、ちょうどええやろ」


 いくつも気になる単語が紛れていたので、男は細かく、訂正や、確認をしようとした。


「まあ、穏便に済ますに越したことはないわな? あと、死んだってのは気にせんでええわ。冗談やっちゅうに」


 すべて、問う前に訂正が加わった。それは、少女のようにすべてを見通してはいても、あまりに先取りしすぎていて、不安の残る会話だった。


「ともあれ、晴れて自由の身や。ほんまひっさしぶりなんやし、遊んでや、ハク」


 すでに男よりだいぶ高い背丈をかがめて、下から覗き見るようにして、女傑は甘えた。そうされると、威圧的な風貌になってしまった女傑でさえ、可愛く見えるから不思議である。


「いや、遊ぶっつっても――」


 そんなことをしている暇は、さしてない。まだまだ『異本』蒐集は続くのだから。そうは思うが、これまでのやり取りからすると、もしかしたら冗談で言っているのかもしれない。そうではなくとも、遊ぶというのも単純な遊びではなく――。


「もちろん、『異本』蒐集のついででええわ。ちょうど、お誂え向きのイベントがあんねん」


 そう言って女傑は、男の耳元へ囁きかけた。次なる『異本』の在処を。


「まあ、そういうことなら」


 そう、男も納得する。だが、それはそれとして、気になることがあった。


「ところでおまえ、ノラを見てねえか?」


 女傑が来ているというなら、なおのこと、少女はすっ飛んできて、合流しそうなものだ。少女と女傑は、仲がいいのだから・・・・・・・・。それでもまだ、帰ってこない。それはつまり、すでに女傑と会っているから。そこでなんらかの話し合いが行われ、すでに彼女らが会う用事が済んでいるから。そのように、男は考えたのだ。


 ここでもまた珍しいことに、男は正鵠を射ていた・・・・・・・。その話し合いとやらが、男のイメージとはかけ離れた、殺伐としたものだったことを除けば。


 女傑は、含むところがあるように、笑う。


「ああ、ノラは来おへん。なんやハクのこと、嫌いになったんやって」


 それは、冗談だった。そう、男は理解した。それでも少し――いや、だいぶ、精神的にくるものはあったが。


「それより、あの、ラグナって子ぉ、連れて来てや。うち、お姉さんとして仲良うなりたいねん」


 にっ、と、いつかの小さな幼女のように、女傑は屈託なく、無防備に笑った。


 ――――――――


 朱に染まった体を引きずり、彼女は歩く。


 一歩。一歩。


 左の頬から、肩、肘の近くにまでかけて、その皮膚は爛れている。ぎりぎり、瞳は傷付けていないようだが、庇うように左瞼は、落ちている。右腕で、その崩れた左上半身を抱えるようにして、歩く。


 逆に下半身はと言えば、右半身が甚大なダメージを受けていた。ほとんど体重をかけられずに、不自然な動作で前進する様から、どうやら、右足がまともに動かないことが読み取れる。


 フランス、パリ。18区、モンマルトルの丘。パリ一番の高度にそびえるその街を、彼女は、物陰に隠れながら、ゆったりと、進んだ。


「はあ……はあ……」


 大きく肩を上下させ、薄い胸を目いっぱいに使い、呼吸する。一歩進むたびに、三滴の朱が地に落ちた。それを、忌々しく見下して、右頬を引き攣らせる。

 まるで汗でも拭うような乱雑さで、彼女は、体を伝うそれを、ごしごしとこすった。


「ノラ様」


 ふと、後ろから声をかけられる。遅いのよ。という悪態は、飲み込んだ。


「……なんですか。八つ当たりでしたら、手当てをしてからにしていただけますか」


 余裕が、なかったのだろう。そんなつもりはなかったのに、どうやら、相手を睨みつけていたらしい。そう、彼女は――少女は、わずかに、己を嫌悪した。


 しかし――


「これは別件よ。……ただの正当な、当たり・・・


 八つ当たりじゃない一件も、ひとつ、あるのだ。


 その言葉に、眼前のメイドは思い当たる節があったのだろう。わずかに――少女ほどの卓越した観察眼でしか読み取れないほどのわずかさではあるが、わずかに、表情を強張らせた。


嘘をついて・・・・・いたわね・・・・。メイちゃん」


 きっ、と、今度こそ意識的に睨みつける。だが、それは決して、ネガティブな感情ではない。むしろ、逆だ。

 よくぞ、嘘であってくれた。という、安堵。そして、よくこのわたしを騙しおおせたわね。という、称賛。ふたつが絡み合った、畏敬に近い、視線。


「さて、なんのことでしょう」


 メイドは――おそらく少女以外の者の目から見ては、まったくもって違和感なく、純粋に首を傾げた。そして自然な動作で、満身創痍の少女を、担ぎ上げる。肩に、引っかけるようにして。


「ちょっと、荷物じゃないんだから、もっと丁寧に抱っこしてよ」


 悪態をつけど、その声には覇気がない。


「急ぎますので、ご容赦を」


 慇懃な態度でそう言うが、その後、「ふっ」と、メイドは小さく、鼻で笑った。きっと、この機会にいつかの、なんらかの仕返しでもしているつもりなのだろう。


「……帰ったら、ちゃんと話してもらうわよ」


 少女は諦めたように、それだけ、言った。

 メイドはなんとも返答せず、ただもう一度、鼻を鳴らし、笑うだけだった。



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