さかさまの罪人
妖怪は、一寸先すら見えない闇の中で目を覚ました。
いや、もはや
「なんだ、ここは! いったい、どうなっている!」
声を上げてみる。だが、あらゆる音が永劫の虚無に飲み込まれるように、どこにも反響せず消えていく。果てしなく果てしなく果てしなく――想像すらできないような広大な空間に、まるで自分以外のあらゆる物質が存在していないかのような孤独。光も、音も、なにもない。そんな場所に己だけが
「やあ、ブヴォーム・ラージャン」
ふいに、その声は、あっけないほどの近くから響いた。
いや、響いてなどいない。やはり音は無限の暗黒に飲み込まれ、存在しているのかいないのか、浮遊し揺蕩い、曖昧に脳髄に染み入ってくるのみだ。
「だ、誰だ!?」
「誰だって? おいおい。君とは何度も会っているはずだけれど。君が、『老練』を使うたびにさ。そのわずかな、生死の超越を体感している間にさ」
「なにを……言っている!」
会話は成立していた。だが、その点に対する安堵は、妖怪側には微塵もなかった。むしろ、話せば話すほど背筋に嫌な汗が流れる。いや、汗などもう、流れない。だから、怖いのだ。
そうだ、もう、肉体などとうに超越して――失われて、いる。
「ふむ――」
何者かは一息、唸った。
「どうやら君は、ここに来るには純粋すぎたね。愚鈍すぎた――いや、この語彙には悪意がある。……『普通すぎた』。そんなところか」
「いったい……なんだってんだ……」
若干の悪意ある言葉にも、妖怪はもう、噛み付く牙もない。ただただうなだれ、もはやないはずの肉体を、どうにも感じられもしない地べたへと、くずおれさせた。
「端的に言えば、死んだんだよ、君は」
あっさりと、その何者かは言う。「まあ、死んだというのは正確な表現ではないけれどね」。そう、これまたあっさりと、付け足して。
「死んだ……。なら、おれの、成すべきことは……? シン――」
「ああ、ごめん。その名はまだ、言えないんだ」
何者かは何事かを為し、妖怪の音は途切れた。
「君は、ただの噛ませ犬だよ。君の人生に、特段の意味はない。だいたい、彼女に拘泥するあまり、他の誰とも信頼関係を築かず、ひとりよがりに生きてきたのは誰だ? 他でもない、君自身だ。であるのに、志半ばでのたれ死んで、誰がその感情を継いでくれる? 誰が君の、生きた証を遺してくれる? ……どうして、ひとりで生きた? どうして、一度失っただけで、二度とそれを得られないなどと思った? なあ――」
ぱちん。と、音は響かずとも、その波動は、無限の世界を瞬間で、白に塗り替えた。
「やめておきなよ。語り手くん」
真っ白な世界に、浮くように現れたのは、肌色と、美しいブロンド。そして、あまりに神々しく青く光る、ふたつの宝石をその目に宿した、女神さまだった。
「そんな、もう精も根も尽き果てた老人をいたぶるのは、いい趣味じゃないねえ。自らの力量不足に対する責任を、転嫁するものじゃないぞ」
彼女は、その者の目前にまで歩み寄って、足りない背丈を仰ぎ見た。得意げで、含むところがあり、どこか、挑発的な笑みだった。
「……揉む?」
女神さまは、裸身の胸部を自ら持ち上げて、問うた。
「……いや」
その者は間を空けた後、ようやっとそう答える。
「……うん。まあ、我が悪かった。君の言う通りだ。本来なら、ブヴォーム・ラージャンの過去を掘り下げて、もう少し感情移入できるようにすべきだったんだ。過去編でも挟むべきだったんだ。でも、そのうち、そのうち、とか思っているうちに、こんなところまで来てしまった。完全に我の落ち度でしかない」
「それと、訳の解らないところで勝手に自分と重ねるのも感心しないな。猛省しなさい」
「……はい」
その者は、首を垂れて力なく、言った。
「よろしい。んじゃ、ほら――ぎゅってしてやろう。おいでおいで」
満面に笑んで、女神さまは無防備に、細い両腕を広げる。それは、世界線を超えて、あらゆるすべてを包み許す、大きな大きな、抱擁だった。
だから、あやうく、その者も、ほだされそうになる。
「……ああ、いや、うん。……ごめん、やめとく」
彼女の後ろで、黒いオーラを垂れ流す、黒い下僕が、睨んでいたから。
*
女神さまは、下僕と、あと妖怪を連れて、世界の狭間に消えていった。いつか巡る、次の輪廻へと、進むために。
「んで、こっからが面倒なんだけど……」
その者はひとりごちた。その理由が、やってくる。
「わっ! りゅふぁーじゃん! りゅっふぁ~!」
「うげ」
「うげってなにさ!」
「うげはうげ。ギャルがうつるから近付かないで」
「うにゃあぁ! おまえをギャル人間にしてやろうかぁ!」
「ふう……」
ギャルに絡まれていた娘子は諦めたのか、彼女を無視して座り込んでしまった。自らの――ないはずなのにあるかのような肉体を、ふにふにと動かしてみては、首を傾げている。
「ふうん。ここが、存在の隙間」
なにかに納得したらしい。
「にゃぁにを哲学してんだぁ! もっとあたしを構えよぅっ!」
ギャルが頭から、ルパンダイブで娘子に飛び込んだ。
「ふんにゃあぁ! ――ああああぁぁぁぁ!」
肉体などなくなってしまった彼女は、ないはずの空間にてのた打ち回る。シュレディンガーの猫よろしく、ギャルと娘子は重ね合わせのような状態になったり、ならなかったりした。
「にゃんなんだよう……。どこよ、ここ」
「あ、それはね――」
その者はようやっと、口を挟もうと試みる。
「馬鹿なシャーには理解できない。黙って消えて」
辛辣な言葉で娘子がギャルをあしらう。だから、その者の言葉は掻き消された。
「馬鹿!? 言うに事欠いて馬鹿ときたよこの子!? 馬鹿っていう方が馬鹿なんだよぅ! にゃーっ!」
ギャルは猫になって威嚇した。
だが、心底嫌そうに、娘子は無言で手を振り、嘆息するのみだ。
「ね……ほんと、無視されんのが一番こたえるって、りゅふぁー。……ってあれ、りゅふぁーって死んだんじゃなかったっけ?」
「いや、だからさ――」
ようやっとギャルがそこに気付いたようだったので、あいや好機と、その者は再度、口を開いた。……のだが。
「死んでんのはシャーの脳味噌だから。残念だったね、ご愁傷様。先生の次回作にご期待ください」
娘子が間髪入れずに割り込んだ。まるで、あえてその者の言葉を遮るかのように。
「やめてくれる!? なんか不吉!」
突っ込んで、あ、と、その者は思った。もう少し威厳をもって応対したかったはずだったのだ。
見ると、派手な様相のギャルと、幼ながらに達観した娘子が、揃ってその者を見ていた。ゴミでも見るかのようなジト目で。
「えっとぅ……。誰?」
ギャルに問われた。娘子に関してはやや無関心な様子である。おそらく、知れているのだろう。
「えっとぅ……。我は――」
その者は、ギャルの口調を真似るように名乗ろうとした。しかし――。
「はいはい、終わり。わちき、もう疲れたから」
娘子が強引に切って、阻害する。立ち上がり、その者に背を向けた。
「いや、名乗りくらいさせてね!?」
「うるさい。興味ない。それに――」
知りたくない。そう、小さく、娘子は続けた。だから、その者は、言葉を噤む。
そうだ。彼女は――彼女たちは、決して幸福な人生を送っていなかった。本当に最後、いくらかの幸福を得て、マイナスを取り戻したかに見えた。だが、それは、まやかしだ。幸福だった。と、言い聞かせていただけだ。そして確かに、いくばくかの幸福は掴んだだろう。
それでも、人間は貪欲だ。幸福を、知れば知るほど、その先に目が届く。きっと誰もが、どこまで行っても、その先を望んでいる。望んで、あがく。
だったら、果たして――。そもそも世界が、何者かに作られたただの箱庭だと気付いたら、いったい救いは、どこにあるのか? なあ、
「りゅふぁー? え、ちょ、……どこ行くって?」
「……そういえばシャー。ここにいるってことは、ぼっちゃんにフラれたんでしょ? わあ、かわいそー」
「はあ? フラれてねぇし! 棒読みやめろ!」
くすり。と、娘子は笑った。……最後に――最期に、また、笑った。
*
「はいおつかれ」
「うわあっ!」
唐突に、彼女は戻ってきていた。その者の、背中に。
「え、君は、……さっき先行ったじゃん!」
金髪碧眼の、超絶美少女である。女神さまである。
「僕は僕だからね。……安心しなよ。彼ら彼女らはちゃんと、
女神さまは自らの頭に自らの指先を突き付けて、そう言った。その頭に収められた、一冊の『異本』を示唆して。
「ちなみに、下僕くんも置いてきた。いまならふたりきりだ。なんでもできるぞ。……楽しいこと、する?」
女神さまは、その者の耳元に口を寄せて、囁くように、言った。
「しねえよ! 全年齢対象作品だって言ってるだろっ!」
そういう下心があるからこそ、即座に、大声で、その者は拒絶した。
「なにを言っているんだ、たくましいな、想像力が」
女神さまは素知らぬ顔で距離を隔て、腕を組む。
「楽しいことと言ったら、マジカル・レインボーごっこに決まっているじゃないか。小さいころ再放送でよく見てたよ」
「マジか。そういう設定あったんだ……」
「あの子は忘れているみたいだったけれどね。そもそも、知りもしないのに、あの姿に変身できるはずもないだろう」
「そういうもんかな」
「そういうもんだ」
ううむ。と、その者は唸った。その姿を見て、くつくつ、と、女神さまは楽しそうに、一笑する。
「ま、じゃあ、そろそろ本当に行くよ。僕はまだ、僕の物語を紡がねばならないのでね」
じゃあね。
死刑囚。とも呼ばれる、それは、我の業の深さを表している。いったいいくつの人生を好き勝手もてあそべば気が済むのか。我のような種族は。そう、思う。
「逆さに吊るされた男、か――」
逆さ、ねえ。呟いて、その者は、くつくつ、と、女神さまの真似をして、笑った。
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