微笑みに望む嘘の世界


 いまだ永眠したように両目を閉じたまま、僧侶は、まだそれでも生きていると言わんかのごとく、言葉を、紡ぐ。


「ハクくん……実は君に、謝らねばならぬことが。……私は、ずっと、嘘をついていた」


「嘘……?」


 男は首を捻る。嘘――それは、出会い、会話を交わしてこそのものだ。確かに数年間を仲間としてともに過ごしたが、その後、疎遠になっていた。であるのに、長く嘘を続けてきたというようなその言い回しは、いったいどういう意味なのか?


「私はね。……実は…………ハゲなんです」


「おい」


 男は突っ込む。いくら異常な生命力を持つ吸血鬼ヴァンパイア極玉きょくぎょくを持つとはいえ、この生命の危機に、いったいなにを言い出すのだ? そのように、男は思った。こんなときにまでボケる必要はないのだと。


「これまで散々、これはスキンヘッドだ、あくまでファッションなのだ、そう言い続けてきました。しかし、こんなもんはただのハゲなんです」


「それは、いましなきゃいけねえ話なのか……?」


 まさか本当にボケているのだろうか? 男は訝しむ。あるいはこの傷――人体急所である左胸に大穴を空けられようと、僧侶にとってはなんでもない傷なのだろうか? そうとまで思ってしまう。


「……私はその昔、ひどい待遇の企業に勤めていましてね。毎日のように二十時間勤務。それでいて薄給で、転職するにも蓄えがなく、そうそう踏み切れませんでした。たまの休みですら、自宅に帰る気力も湧かず、会社で寝泊まりする毎日。……そんな私に愛想を尽かせ、妻と子も、離れていった」


「おまえ結婚してたのか。さらっと言ってるけど初耳だぞ」


「いま思えば、それはそれでよかったのだと思います。当然、私は辛かったですがね。……そして、それが最終的な引き金ともなり、私は、ハゲ始めたんです」


「…………」


 男は、なにをどう言えばいいのか解らなくなっていった。確かに話は深刻だ。しかし、ふざけている感じが拭えない。それは、僧侶のこれまでの人間性に起因してもいるのだが、どちらにしたところで、この話が、今わの際にする話ではないと――まだ、そうとしか思えなかったから。


「ある日、会社の仮眠室で目覚めたとき、枕元に、とんでもない量の髪の毛が、散らばっていたのです。寝惚けているか、あるいは、あのクソ部長の嫌がらせかと思いましたよ。しかし、現実逃避に頭を抱えた瞬間、悟りました。……あ、これ、抜けてるわwww と」


「wwwじゃねえよ。なんでいきなり明るいキャラになってんだよ」


「いやこれ、事実なんです。あれはもう、笑うしかなかった。だって、たった一晩――どころか、深夜に寝て、早朝に起きる。あのたった三時間足らずの間に、すべての毛髪が抜け落ちたのですから。……本当に、誇張もなく、一本の例外もなく、すべての髪の毛が。……夢だと思いましたね。あるいは、これまでが夢だったのか。……瞬間の気絶のうちに、妻と子を得て、長年を幸福に過ごしたのち目覚め、それが泡沫の夢であったと気付く――などという実例もあったそうですが、そんな感じかと。……まあ、その後、すぐに結婚していた事実は、確認がとれましたけどね」


「どっちが幸せなのか解らねえ話だな」


「そうなんです。どっちが幸せか解らない。……いや、本当は解っている。あんなものはどちらも地獄だ。無理に働き続けても、妻と子を幸福にすることなどできなかった。だからといって決別するのも、彼女に、そう決断させるのも、やはり申し訳なかった。……ハクくん、私はね。そんな経験をしてきたからか、……幸せな家庭に、憧れていたんですよ」


 僧侶は、言った。やはり両目は閉じたまま。それはまるで、懺悔のように。


        *


「私はハゲました。髪の毛を失い、そして、家族も失った。あのとき、もう失うものなどない、と、そう思ったんです。……目覚め、思考するまでもなく、ルーチンで自分のデスクについたとき、あのクソ部長、私のハゲをばんばん叩いて、爆笑しやがったんですよ。もう、頭の中で、なにかが切れる音が、鮮明に聞こえましたね。『ハゲじゃない! スキンヘーッド!!』。私は、ふと口を滑らせたセリフを叫んで、クソ部長に頭突きをかまして、会社を飛び出しました」


「いいぞ。もっとやれ」


 男は茶々を入れた。


「そのまま遮二無二走って、会社のビルから外に出た。そして、ちょうどそのとき、目の前を歩いていた東洋人が、なんかもう、見事にちょうどいいところにいて……私もなんかテンション上がっちゃってて、『ハゲじゃない! スキンヘーッド!!』、と、見知らぬ彼にも、つい頭突きをかましてしまったんです」


「もっとやれとは言ったが、知りもしねえ他人に、なんの脈絡もなくやってんじゃねえ…………って、それ、俺じゃねえか!!」


 男は気付いた。


「あのときは、本当にすみませんでした。ずっと……ずっと謝ろうと思っていたんです」


「そういやあの日、おまえ一言も謝らなかったよな! すっげえハイテンションではっちゃけてたから、あんまし関わらねえようにしようと思って、気にしてなかったけども!」


「はっはっは」


「なに笑ってんだてめえ!」


 ふと、重傷人であることも忘れて、男は手を出しそうになった。


「……ねえ、ハクくん。そうは言うが、あなた、あの日、私の話を、親身に聞いてくれましたよね。ぶっきらぼうだったけど、あんなに狂っていた、ハイテンションな私の言葉を、ひとつひとつ、丁寧に噛み締めてくれた。……不思議ですね。あんなことがあった直後だっていうのに、あなたにハゲをいじられるのは、嫌な気がしなかった」


「いやおまえ、そんな壮絶なことがあったってのに、まったく関係ない幼少期のときの話とかしかしてなかったぞ。幼いころは近所の子たちをまとめたガキ大将で、よく公園で威張ってた、みたいな。そんな壮絶なことがあったんなら、それを話せばよかったじゃねえか。いや、話されても困るが。……そもそもあの日、おまえは立ち去ろうとする俺に、勝手についてきて、勝手にくっちゃべってたんだろうが」


「誰でもいいから、苦しくない話を聞いてほしかったんでしょうね。他愛のないことを、聞いてくれる人がいてほしかった。……ねえ、ハクくん。しかしそれこそが、家族なんだと思いませんか? 私が憧れを抱いた、家族の、まさしく平常で、一般的な姿」


「なんだよ、普通でよかったのかよ。おまえ、幸福な家庭がほしかったんじゃねえの?」


「幸福ですよ。ただただ平穏で、飢えることなく、五体満足で、他愛のない話ができる。……それがね、めいっぱいに、幸福だったんです」


 うっ……、と、僧侶は一度、血を吐いた。その反動でか、わずかに目も開く。……しかし、それもつかの間に、また、眠気を耐えるように、きつく目を、閉じてしまった。


「君と出会って、君が望む『異本』を知って、『異本』とあらゆる書籍に出会って、心酔した。それまであまり読書をする習慣がなかったから、その反動ですかね。どっぷりと浸かりました。それは、自らの内面に向き合う、素晴らしい時間だった。君に出会って、アリスに出会って、カイラギさんに出会って、エルファに出会って……たくさんの物語を紡いできた。その、始まりプロローグは、君だったんです、……ハクくん」




 タギー・バクルドの物語の始まりは、氷守薄だったんです。




 僧侶は、震える手を持ち上げて、男へ、向けた。その、顔へ――頬へ。彼の輪郭存在を、確かめるように。


「私は、だから、ずっと嘘をついていたことになる。それはきっと、おこがましい言葉だったから。……いいえ、きっと拒絶されるのが、怖かったのでしょう。……私はね、ハクくん――」


 気が抜けたように、男へ伸ばした手を、力なく、落とす。




「君を、家族息子のように思っていました」




 こと切れたように、だらしなく、笑う。それは家族へ向けるような、緩み切った笑顔。

 仲間。友人。同志。きっといろんな言い方があったろう。しかし、彼は、その言葉を選んだ。

 気兼ねなく接することができる、遠慮のいらない、関係性。たった数年。短い時間で紡がれた絆を、とても大切にするために。あるいは、大切だからこそ、そう呼びたかったのか。


 きっと何年離れても、変わらぬ安心感を求めて。

 僧侶はその物語のすべてでもって、男を、そう呼んだ。


「最期まで、わけ解んねえ野郎だな」


 ボルサリーノを押さえて、目元を隠す。息子と呼ばれるには、そう、歳も離れていない。そう思って、男は、口元だけで、笑った。かといって、兄弟と呼ぶにはやや、歳は離れている。だから、そうだな――。


「親戚のおじさんってとこだろ、いいとこ」


 などと、軽口を叩いた。それはまるで、家族親戚のおじさんに、口をきくように。


 呼吸が止まった僧侶の、その最後の体温を受け継ぐように、男は一度、そのハゲた頭部を、叩いた。



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