深海への挑戦
深海200メートル。ここからは太陽光はほとんど届かず、人の目には相当に見えづらい。また、ここから水温も急激な低下を見せる。現状の水温は20度をぎりぎり越えているが、目的の深度1000メートルでは10度を下回るはずだ。まあ、水温に関してはダイビングスーツでの保温でなんとかなるだろう。常に潜水に泳ぎ、体も動かし続けているので、それによっても体温を確保できるはずだ。
逆に言えば発汗による水分不足の方が気になる。しかし、直前に水分は十分に摂っているし、二時間程度のダイビングなら大丈夫なはずだ。水中で水分不足とは皮肉な話だが。
さて、ここからは前述の通り、光がほとんど届かない。ゆえに、植物性プランクトンも生存できず、それを食べて生きる生物も必然と生存できない。海水密度も、塩分濃度も、表層と比べれば大きく変化する。もはや別の世界なのである。
ゆえに、生物の絶対数も減り、姿形も変容していく。少ない光でも視野を確保するため、大きく眼球が発達したもの。少ないプランクトンを効率よく食べるため、大きく口を発達させたもの。水圧が増えるに従い、浮力は多く必要になる。それに対応するための肉体の軽量化、あるいは、浮き袋の頑強化などの変化が見られる。体色にも変化が見られる。比較的明るい深海上部では、光を反射し擬態するために、体表面はアルミホイルのように光沢をもつ種が点在し、逆に、光が届かない深くに潜るほど、極端に暗色の体色に変わっていくのである。他にも発光を用いることで、獲物をおびき寄せたり、コミュニケーションや、身を守るために利用したりする。なにはともあれ、とにかく生物の様相が、ものによっては人間の常識から外れるほどに、大きく変化していくのだ。
そんな奇天烈な魚群の中を、黙々と潜る。深度334メートル突破。世界記録の更新だ。ここで経過時間は25分弱。このまま単純に潜水を続ければ、深度1000メートルに到達するには、三倍の75分以上かかる計算になる。往復の時間を考慮すれば、これはペースが遅い。
しかし、男はともかく少女は慌てていなかった。魔法での潜水に慣れるための時間もかかっているし、深度200メートルより上は魚が多く、それを躱すのにやや時間をかけた。泳ぐこと自体をとっても、徐々に慣れて、早く泳げるようになっている。また、本来のダイビングでは潜降よりも浮上に時間がかかるが、これは前述の通り水圧による負荷の問題だ。これを無視できる今回のダイブでは、むしろ浮上の方が早く済む。そもそも人体には、肺という浮き袋があるおかげで、浮くようにできているのだから。
とはいえ、時間的に余裕があるわけではないのも確かだ。少女は以上の、『急がなくていい理由』を、男に話していない。それは、どちらにしても急ぐに越したことはなかったから。だから、少女は改めて親指を下方へ向け、何度か振って、急ぐことを男へ示した。
少しだけ、速度が上がる。
*
功を奏してか、深度500メートルに達したころの経過時間は、30分を少し過ぎた程度。ペースが上がっていることを鑑みれば、このままいけば時間的な問題はまずクリアできるだろう。そう、男をしてもわずかに安堵した。
ここにきてようやく、少女も予備の懐中電灯を灯した。実際は少女自身にとって、その光は必要なかったが、男の視野を広げてあげようという魂胆である。まだ道は半ばとはいえ、最終的に深度1000メートルに到達したとき、目的の『異本』、『
その、最大視野を見て、男はわずかに眉をしかめた。思っていた以上に見えない。かなり強力な懐中電灯を選んでいる。確かにその光は、だいぶ遠くまで照らしているように見える。しかし、やや照らせる幅が狭い。男と少女、ふたりのヘッドライト、それと、懐中電灯。そのよっつの光があるとはいえ、さほど高範囲は照らせなかった。
だが、まだそれを憂う段階ではない。そのことはおいおい考えていけばいいだろう。まだ、道は半ばなのだから。
*
深度700メートルを突破。経過時間は40分と少し。
暗い。というより、暗い場所を進み続けることに、若干、背筋が凍るような思いを募らせる。そのうえ、その暗黒の影からふと、普段見ることのない、ものによっては怖ろしいとさえ形容できる形相の深海魚が現れるのだ。ちょっとした――いや、ちょっとしないレベルのお化け屋敷のようだ。しかも、命がけの。
そして、寒い。水温もそろそろ10度にまで降下する。今回のダイビングに関して、男たちを守っている魔法は、具体的には、肉体の表面に空気の層を作り、その外側を魔法の水でコーティングしている、という理屈であり、つまりは、直接に深海水に触れているわけではない、のだが、それなのに体が冷える。ひとつ空気の膜を隔てているだけでも保温機能は向上するはずであるのに、である。しかし、泣きごとは言っていられない。寒いとはいえ、我慢できないレベルではないし、とにかく潜り続けるしかない。体を動かし続ければ、少しは体も温まるだろうし。
そう思い、男は一度、強く水を蹴った。そのとき――。
「…………っ!!」
足が、攣りかけた。それもそのはず。ふたりはずっと深くへ潜り続けているのだ。足を動かし続けていた。これまでそうならなかったのは、ひとえに男の肉体が、それなりに鍛えられていたからに他ならず、深海に包まれて体が冷やされるから気付きにくかったが、肉体はもう、かなり酷使されていたのだ。
なんとか攣ってしまう前に、つま先を曲げて耐える。瞬間のことでふと、懐中電灯を取り零してしまうが、腕に巻き付けておいたストラップで、紛失しないで済んだ。
先を進む少女が、少し戻って、男のそばへ寄る。
「……帰る?」
初めて、声を発する。膜をいくつも通したぼやけた音で、男の鼓膜にそれは、だいぶ減衰して届いた。
「…………」
首を振って否定を示す。改めて認識してみるに、確かに体は疲れている。しかし、問題ない。そう、判断した。
少女は腰に手を当て、呆れたように目を細める。男の足が治るのを待ってから、もう一度、親指を立てた拳を下へ向けた。
*
深海1000メートルに到達。ようやっと海底を拝むことができた。所要時間は、70分だ。これは、男の潜降ペースが著しく落ちたことが原因である。
だが、浮上は肉体的にも負荷が少なく済む。人間は浮くものだし、それ以前に、BCジャケットを作動させれば容易に浮くことができる。ちなみにこれは、浮力調整装置のことだ。
さて、ともあれ探索だ。時間もない。位置的には少女が、完璧な座標を指定して現場に訪れている。であれば、そう離れた場所にあるとも思いにくい。しかし、どうにも視界が悪く、簡単には見つからなかった。
が、発見する。前情報通りの、直径約6メートルもの石貨。ヤップに訪れて即、海に乗り出したので、その石貨を見たのもこれが初めてだが、一目で解った。
直径約6メートルの、ほぼ完璧な円形。どの時代に作られたものかは解らないが、こんな原始的な貨幣を用いる時代のものであるのは確かなのに、やけに精緻な、円形に見える。その中心には穴が空いた、日本円における五円玉のような形状。それを数百倍にしたようなサイズで、やけに存在感強く、そこに鎮座していた。
そして、異様な雰囲気を発している。その周辺だけ海流が狂わされているような。
『Stone 〝BULK〟』。引力の異本。『
とはいえ、不用意に近付いて危険があるほどにも見えない。し、そこで躊躇している時間も惜しい。男はさっそく、ジャケットの懐に大切に仕舞い込んでいた『箱庭図書館』を準備した。
本来であれば、開いたページの隙間に『異本』を近付ければ問題なく内に蒐集することができるが、『BULK』のサイズになると持ち上げることもできない。ゆえに、開いたページを『BULK』へ向けて近付ける。それによって『異本』を蒐集できることは、ちゃんと試してきた。これほどの大きさのものにそれを行うのは初めてだが、問題はないはずである。
冷える体を、少しばかり大きく呼吸して、落ち着ける。
「『BULK』が失われることで、その空間に、海水が流れ込むわ。気を付けて」
少女が声を出して指摘した。男は頷くだけで返答する。言われなかったらその海流に巻き込まれたかもしれない。それが直接に海難に繋がるとも思わないが、万一にも、『箱庭図書館』を攫われたら大問題だ。男は気を取り直して、しっかと『図書館』を握る。
そっと、近付き、開いたページを向ける。『箱庭図書館』が、小さく輝いた。
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