あまりに暴力的な、安息の夜


 この日、狂人ネロがモスクワを訪れた理由こそが、現在問題となっている『異本』、『白茫はくぼう』を手に入れることであった。ロシア国内最大、世界でも最大級となる『ロシア国立図書館』。その深奥に隠すように秘蔵されていたそれを、彼は力任せに奪い取るためにやってきた。

 しかし、おかしなことがあった。まったくもって理由は解らないが、あまりにも警備が手薄だったのだ。ゆえに、ほとんど暴力らしい暴力も振るわないままに、いともたやすく目的のものを手に入れてしまった。


 ロシア連邦の首都、モスクワだ。数々の世界遺産も抱える、観光都市。なのになぜだろう? やけに人の気配がない。新年も迎えたばかりで、街中煌びやかにデコレーションさえされている。であるのに、閑散としている。気味が悪いほど。相当に人間離れした知識や観察眼を身に着けた狂人といえ、その理由には思い至らなかった。

 だから、その中心へ向かったのだ。人通りの少ない路地から、さらに少ない先へ。そうして辿り着いた。『赤の広場』へ。


 誰ひとり、人っ子一人いない、観光名所へ。


 いや、ひとり――ふたり、誰かがいた。


 とあるメイドと、幼女が。


 ――――――――


 この世界における速度の限界値は光速だと言われている。秒速30万キロメートル。この光の速度と時間との間にも、意外と面白い関係があった。


 光の速度に近付くにつれ、その動く物体は、他の静止している観測者から見ると、時の流れが緩やかになる。詳しい計算は省くが、光速の90パーセント、すなわち、秒速27万キロメートルで動く物体は、外部の観測者から見て、44パーセントほどの時間の流れに身を任せることとなる。この場合、観測者が一秒を過ごす間に、動く物体は0.44秒しか経過しない、ということだ。


 では仮に、完全な光速――秒速30万キロメートルで動いた場合、いったいどうなってしまうのだろう?


 不思議な話だが、光速で動く物体は、その時間を止めるのである。


 というより、そもそも質量を持つ物体は、光速に到達することができない。詳細は省くが、速度を上げるにはエネルギーが必要となり、その必要エネルギーは重い物体を動かそうとするほど多くなる。そして、光速に近付けば近付くほど、その運動する物体は質量を増す、という性質があるのだ。


 だが仮に、人間が光速で動いたとしたら、いったいどうなるのか?


 やや話は逸れるが、人間が周囲の景色を見ることができるのは、そこにある物体に光が反射し、戻ってきた光が網膜を刺激することに起因する。つまり、人間がものを見る、という行為にも、光がかかわっている、ということだ。

 ゆえに、人間が光速で動いた場合、物体に反射し、本来なら網膜に届くはずの光すら追い付けなくなる。結果、光速で動く人間は、すべての光を置き去りにし、真っ暗な、なにもない虚無の空間に飛び込むことになる。


 光速で動くとはそういうことだ。外部観測者から見て時間が止まったようになり、また、動いている彼自身、なにも見ることができなくなる。付け加えるなら当然、光速よりもよほど遅い音速すら置き去りにし、なにも聞こえない。


 そんななにもない虚無の世界こそが光の世界だ。だから、とうに狂いきってしまった狂人ですら、その虚無に、瞬間、思考を止めた。


 ――――――――


 世界に膨大なエネルギーの光を降らせる。それだけでその場をすべて、塵も残さず制圧するには十分すぎたろう。


 しかし、『白茫』を手に入れたばかりで、まだ使い始めの狂人としては、せっかくの機会だ、いろいろと使い方を模索してみようという思惑もあった。


 だから、ただ光を降らせるだけでなく、自らも光の速度で動くことはできないか、そう、念じてもいた。


 その結果・・・・が、虚無への孤立だ。なにもない。なにも見えず、なにも聞こえない。


 まるで時間が・・・・・・止まった・・・・かのような・・・・・感覚。取り残された――いや、なにかを超越した、とは思う。なぜだか意識はある。思考は働く。だが、頭はうまく回らない。


 数々の知識を修めた狂人である。光速で動くことがどういうものであるかは、理論として理解していた。しかし、現実に光速を体験した人類は存在しない。その体感は、誰も知らない。そんな知識・・はこの世にいまだ、ないのである。


 ゆえに、さすがに肝を冷やした。思考も鈍り、判断も遅れた。正確な実状へと理解を追い付かせるのに、とてもとても、遅れたのだ。


 まあもちろん、それに思い至ったとしても、どうしようもないわけだが。


        *


 EBNAの第九世代、あるいは第八世代の一部、そして、当時の施設長スマイル・ヴァン・エメラルドや、その側近、ダフネ・メイクイーンとアナン・ギル・ンジャイあたりは、みな、第九世代暫定首席であるラグナ・ハートスートが秘めた、『クロノス』の『極玉きょくぎょく』を体感している。その結果、現在科学的に予測されている、光速に近付いたときの体感を、実際に経験していた。

 だから、その体験に関するレポートを、幼女自身も読んでいる。彼女自身は、自らその極玉の力を体感することはできなかったが、以上の理由により、その効能については十二分に把握していると言って過言ではないだろう。


 だからこそ、この場ではとりわけ強力に、時間を止めたのだ。時間の流れを緩やかにするでもなく、完全なる停止。なんなら対象者の時間を巻き戻すこともできはしたが、それに関しては戦闘の状況を逐一確認できない状況だったゆえに、敬遠した。逆に戻すということは、動きがあるということ。動きがあるということは、男たちの邪魔にもなり得るということ、だからだ。


 かように、今回幼女は、狂人の時間を止めた。そしてその結果が、その場にいる全員の生存に繋がったのである。


 そして偶然、期せずしてその結果、狂人の思考を必要以上に惑わせることに成功したのだ。


 光の速さで動くつもりだった狂人へ、その副作用を誤認させた。実際に光速で使用者を移動させることなどできない『白茫』ではあったが、それを可能と信じた――少なくとも検証が必要である、というくらいには未知数だった狂人は、試しに光速で自ら運動することを念じた。それにより狂人に、自らの力によって一種の窮地に嵌ってしまったのだと、そう思わせることができたのだ。


 現実には、光速で動いたゆえに虚無に陥ったのではなく、それとよく似た現象。時間停止により視覚も聴覚も、あらゆる感覚器官が停止しただけだというのに。


        *


「おおおおおおおおぉぉぉぉ――――!!」


 とてつもない咆哮に、狂人は我に返った。

 世界は――闇に閉ざされている。……いや、宵闇の中に、確かな光がいくつも輝いている。


 しかし、決して目を眩ませるほどの光量ではない。極めて現実的な、夜と、イルミネーション。


 ただの一月の、モスクワの夜。


「なン……だァ……?」


 思考が追い付かず、間抜けた声を上げる。しかし、すぐに自身の状況を確認。

 組み敷かれ、拘束されている。いままさに、ロープでもって縛られている最中だ。世界を見るまでもなく、もはや腕に『白茫』の感触はない。奪われている。


「ク――ッソがああああぁぁ――――!!」


 ほぼ反射的に、抵抗する。身をよじり、全身に力を込めた。

 だが、動かない。ただただ傷付いた全身から、痛みが秒速120メートルで、絶えず脳へ駆け巡るだけだ。


 あまりに強い。決して真っ向からぶつかって負けるとも思わないが、的確に押さえ付けられている限りにおいては歯が立たない。それほどの剛腕。いくら不利な力のかけ方をされても、力ずくで押し返してきた狂人にとって、それは、これまで出会った者の中でも有数の、力の持ち主だと言える。


 ジーパンにダウンジャケットの、どこにでもいそうな青年だ。いや、しかし、こいつもどっかで見たことあンな。と、狂人はなんとなく思った。


 あがく首元に、警棒や刀を向ける、メイドと女。ロープを縛り付ける丁年と男。そして役目を終え、荒い息と咳を繰り返す、幼女。


「そうか……」


 負けたンだな。と、狂人は思った。


 これはいじめにも似た、多勢に無勢の敗北だ。しかし、たとえそうであっても、彼は負けるわけにはいかなかった。逃げるならまだいい。それも戦略的撤退だ。大望のためにはやむを得ない場合もある。人間は、いくら鍛えようとも、あまりに脆いから。人体の限界に挑み、いまだに、何度も何度も全身を傷付けている狂人は、そのことをよく理解していた。

 しかし、立ち向かうことを決め、できうる限りの努力をした。手を抜いた場面もあったろう。それでも総合して、完璧な立ち回りだった。そう思う。


 それでも、負けた。不測の事態は多かった。だが、不測の事態を読み切れなかった時点で、やはり彼は負けたのだ。

 それは、世界を正すためには、決して訪れてはいけない敗北だった。そう思う。少しだけ、力を抜く。


 八歳のころだ。パキスタンの紛争地帯にて『噴炎ふんえん』を偶然、手にし、適応してから、狂人の記憶は始まっている。それ以前を、彼はあまり覚えていない。


 なぜなら、それ以降の時間があまりに濃すぎたから。一般的な人間よりも五割増し・・・・ほどに、濃い人生だったから。


 あれから、十三年――今年で十四年目になるはずだった。本当の意味で一睡もせず・・・・・に、世界を奔走する日々。自らを鍛え抜き、あらゆる知識を得、不要な人間を殺し続ける生活。そこに、ひとつの――ふたつの幕を、降ろす。


 両のまぶたが、光を遮る。安息のように、気が抜けた。


 これでやっと、少し、眠れる。



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