果て無き白の日没
丁年は、男たちのその、危機的状況にも冷静に――薄情なほど冷静に、まだ傍観を決め込んでいた。というのも、いざとなれば丁年の能力で瞬時に彼らを移動できたし、今回に限っては間一髪、彼らはその危機を脱することができることを知っていたから。
丁年の力は、あまり頻繁に使うべきものではない。精神を繋げ、思考を共有する。その使い方なら問題はない。しかし、空間の瞬間移動。その使用方法は、敵の目を強力に欺けるものではあるが、反面、完璧な意思疎通もせずに味方を移動させれば、その味方をも動揺させることとなる。いくら事前に、瞬間移動のことを知らせようと、当然、隙ができてしまうのだ。
また、多用することにより、敵にもその力の存在を知らせてしまうというリスクもある。いくら荒唐無稽な能力とはいえ、『異本』の存在を知り、それを使役するような相手に対しては、そんな荒唐無稽も、十分に起こり得る対象として判断される。ましてやあの狂人であればなおのこと。圧倒的な暴力、だけではない。かの狂人が裏の世界で名を馳せたのは、その、人知の極致にまで至るほどの思考や洞察の力でもあるのだ。
だから、丁年の力は消極的な逃げの一手に使うには惜しい。もちろん、今回ほどの生命的危機に対してはやむを得ず使うべきではある。が、前述の通り、今回に限って彼らは救われるのだ。だから、丁年はまだ、傍観を続ける。
ある程度は仕方がない。男たちが傷付こうが、追い詰められようが、死んだとしても、ある程度は。丁年の、今回の目的は、ただひとつ。少女――ノラの救出。それは男たちの目的とも合致しているようにも見えるが、実のところやや、ずれている。
丁年は、その目的のために支払われる犠牲を勘定していない。誰が死んでも――自分が死んでも、彼はそれを達成する覚悟があった。
だから、よほどの状況でない限り、彼の力による救出は期待できない。丁年が見据えているのは、積極的な攻撃的手法。殺すことにリスクがある現状、それは、彼から『異本』を奪うこと。そして、彼を昏倒させ、拘束し連れ帰ること。それが丁年の見据える、この戦闘の結末である。
――――――――
冷気の檻に閉じ込められたまま、天を埋め尽くす炎球が注ぐ。世界の終わりのような光景に、それでも男は冷静でいた。拳を握りしめて、力を込める。
それは、死すらも覚悟し、目前の危機に対しても無頓着であった。というだけではない。
男は、丁年を信頼していた。つまり、いざというときは、『異本』による瞬間移動が可能だと。その移動により瞬間、自分自身にも隙ができる。前述したとおり、そのデメリットもしっかと理解していたからこそ、男は、危機的状況にあっても冷静に、やむなくできる隙についても可能な限り、即座に対応できるようにと心構えをしていたのだ。
しかし、結局その気構えは無用となる。あまりに唐突で、あまりに驚愕な乱入によって。
「騒がしいから来てみれば」
吹き荒れる寒風。轟々と盛る炎球。そんな喧噪の中へ、真空のような凪が割り込む。
「奇遇じゃな、末弟」
不思議なことに、冷気も炎も彼女を避け、男たちをも遠巻きに眺めるように割裂した。その、一線を隔したような空間を、花道のように優雅に歩いて、女は錆びた刀を鈍た音とともに鞘へ納める。
帯刀するに不便だったのか、いつも開けっ広げていた深紅のロングコートを、肌に張り付けるようにしっかりと前を閉じ、腰まで伸ばしていた赤い髪は肩までで切り揃えられている。義弟である男をもってして瞬間、『誰だ?』と首を捻ったが、ギラギラとアクセサリーを纏わせた男物の軍帽。その内に影を落とした、やけに幼い顔付きに、すぐ気付く。
「ホムラ……」
彼女の唐突な登場には、さすがに予想外すぎて、呆けた顔で男は、彼女の名を呼んだ。
*
遅ればせながら炎球は赤の広場へ墜落し、冷気を押し除けるように爆発した。
――らしい。いくら直撃を避けたとはいえ、それらはほんの十数メートル先のこと。爆風は当然と、男たちへ降りかかってくるはずだった。が、それもない。やはり女を中心に、反発する磁石のようにそれらは、彼らを避けて渦巻いた。
「ふむ……」
だから悠長に、女は顎に手を当て、姿勢を屈めて力を溜めていた男を見下す。順次、そばにいるメイドや女流へも一瞥して。
「どうやら、また無茶をしとるようじゃの。まったく、
「しゃああぁぁくよおおぉぉおうぅ――――!!」
そんな彼女の背に、問答無用に狂人は、その名を叫びながら殴りかかった。
無防備に見えた女も、それには気付いていたように、刀の柄に手をかけ、ちらりと背後を見遣る。しかし彼女は、すぐに力を抜いた。「やれやれ」と、嘆息して。
「ぶ、ブレステルメクッ!!」
間に割って入り、どこか怯えながらもその青年は、黄金の杖を地面へ突き立てた。
服装は、以前見たときとだいぶ様変わりしている。動きやすさと防寒を両立しようとしたのか、ジーパンにダウンジャケットという出で立ち。癖のある深緑の髪はやや伸びて、縮毛矯正をかけたのか直毛になっている。怯えた表情だからかこちらへも男は『誰だ?』と首を捻ったが、彼が扱う
とはいえ、本当に様子は弱者のように怯えており、雰囲気が違い過ぎる。まるで何者かが乗り移っているみたいに。
それゆえにか、彼は見えない壁で狂人を押し留めていたにもかかわらず、その異様に竦んで、「ひいいぃぃ!!」と力を抜いてしまった。
「うげー!!」
威圧のみで、軽く吹き飛ぶ。
「うがああぁぁああ!!」
しかしぎりぎり、狂人の攻撃は防ぎ切ったらしい。ビギビギ……、と、本格的に彼の片腕は、自らの膂力により完全に、骨が砕け散った。
*
一度抜いた力を再度込め、女は刀の柄を握りながら振り向いた。瞬間、倒れた狂人へ向かって。
「おいホムラ、殺すな!」
その眼光に『殺気』を見て、男はつい、声を上げる。
「殺すな、じゃと?」
狂人から目を逸らさないまま、女は問う。
「ネロ相手にもそんな戯言を――」
「違う! ノラが――っ!!」
ノラが? と、思うが、問い質すにはまだ少し、時間が足りない。
まあ、どちらにしたところで――。
「こンの程度でええぇぇ――――!!」
砕け散ったはずの腕で――振り回せるはずのないその腕を、肉体の捻りで叩き付けるように、まだ高速に、強靭に、狂人は襲いかかる。
「死ぬわけないじゃろうな。
女は抜刀する。その刹那の斬撃にも明らかに、錆すぎて鈍器程度にしか使えないであろうその刀を、あえて狂人の頭、その
「相変わらず即断即決の、礼儀知らずじゃ」
次の瞬間、狂人の腕が女へぶつかる前に、彼は地面へ叩き付けられる。
「不躾な……ひれ伏せ」
言葉同様に平伏した狂人の顔面を、女は尖ったヒールの先で、蹴っ飛ばした。
――――――――
『
江戸時代中期。三代目
いまでこそ錆び付いて、その刀身はほとんど見えないが、錆を落とせばそこには、幾十、幾百もの穴が空いている。その穴は刀身の内を複雑に巡り、別の穴と繋がって、刀の振り方によって『風』を発生、あるいは抑制するのだ。
目に見えない『大気』の掌握。現代で言えば『テスラバルブ』等の理論を先駆けで実践した構造により、『花浅葱』はその力をいくらか宿した一本となった。その刀を使いこなせば、射程範囲内の風速、風力、風向を完全に支配できる。
……その目的に打たれた一本ではあった。だが、実際にはそれほどの威力は完成しなかったのである。それが偶然にも完成したのは、現代になってから。
錆び付き、刀身表面の穴がいくらか潰れて、気道が塞がれたことによる効果の向上。そう、当時の箸蔵霜銘は空けすぎていたのだ、穴を。それが長い年月、抜身で放置されたことにより錆び、偶然にも必要最低限の穴のみが残った。こうして、かの刀はその生まれた意味を会得した。刀としての本分と引き換えに。
この『風』を操る刀が、同時に『風』を操る『異本』を持つ女の手に渡ったのは不思議な因果である。それにより、この刀はさらなる力を得たのだから。
いくら性能を上げられたとて、『花浅葱』の風力操作はたいしたものではない。せいぜいが風を切り、凪の空間を作る程度。前の持ち主が女と対峙したときに、女の『
しかし、風の
一点集中により確かに増幅は可能だが、それを戦闘に用いられるまでに増幅するには、自然現象としての『風』では容易にはいかない。台風や大嵐並みの、自然の恩恵が不可欠だった。もちろん、そんな偶然を利用する戦闘法となっては、ほとんど利用の機会がないだろう。
そこで、風力操作の『異本』、『嵐雲』だ。まさしく『嵐』を任意に引き起こせる力を利用すれば、『花浅葱』の本領は最大まで発揮できる。『風』という、目には見えにくい現象を操る『嵐雲』。目視できないことを理由に、それはいくら使いこなそうと、どうしても一点集中には向かない。ゆえに攻撃よりも防御に強い『異本』と言われていた。
しかし、その問題もようやく解決である。風を集中することには向かない『嵐雲』でも、風の向きと強さは、規格外に操作できる。その風を『花浅葱』で集中させる。こうして女は、『大気』の支配権を得た。
――――――――
蹴り飛ばされ、狂人は、仰向けに大の字で転がった。痛々しく損傷だらけの肢体を広げて――これではもはやいじめである。
「ああぁ……ああああああああ、うがあああぁぁぁぁ――――!!」
とうに折れた両腕を叩き付け、飛び出るほどに目玉をひん剥き、狂人は飛び起きた。
「次、から、次へとォ……」
害虫がぁ。と、ふらつきながら言う。そのよろめきを払拭するように、一度、片足を持ち上げ、斧のように振り降ろした。
地震のように、それはモスクワを揺らす。
「揃いも揃って、この星の浸食者がぁ……。もういい。『死ね』」
言うと、狂人はまだ動かせる片腕で、二冊の『異本』を持ち上げ、男たちへ向けた。ゆらゆらとゆらめく光を纏う、紅蓮色の『
「甘いッスよ」
ふと、その場の誰もが不意を突かれた声が、空間にこだました。
世界を染める雪のように白く身を纏って、頭部も――毛髪も半分ほど白く伸ばした丁年が、勢いよく現れ、そしてその、二冊の『異本』を奪った。
もちろんそれだけで油断はしない。瞬時に男たちのいる方へ距離を取り、『異本』は男へと投げ渡す。そして、わずかに息を整え、首を傾げ、銃口を向ける。
「げひゃ……」
だから、目が合う。まだ狂ったように笑む余裕のある、狂人と。だから急く心で、丁年は照準を合わせる。
「いいのかぁ……? 腕が空いたぜェ?」
解っていたことだ。狂人の殺気。それに怯むことなど。
だから気構えはしてきた。男たちの戦闘も、『異本』で作り上げた鏡で、遠視のように見てきた。大丈夫だ。怯みはするが、その隙も考慮して、十二分に息は整う。
そう判断しての突撃。そして『異本』は奪い、距離は離し、銃口を向けた。だが、ほんのわずかすら狂人の気迫は衰えない。ただの拳や、警棒、風圧などの暴力ではなく、十二分に人体を殺せる武器を前に、微塵も。
だから、あと一瞬、遅れる。
「最速で殺してやる……。『
懐に、空いた手を入れる。
瞬間。狂人は笑みを消して。姿も消した。太陽は地平線に隠れ、世界は、
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