黄昏


 誰もいない黄昏時。世界遺産にも認定される『赤の広場』。

 同じく世界遺産の『クレムリン』を背に、宮殿のごとき装いをした『グム百貨店』の方角を見る。と、その先から、彼の者は現れた。長く伸びた影を引きずって。


 赤の広場を囲う色彩豊かな建造物が、真っ赤な夕日にまみれる。蹂躙され、血みどろに染まるように。そしてそれらが落とす影は、必要以上に焦げ、煤け、壊死したように痛々しく塗り潰されていた。


「EBNA」


 彼の者は二十歩の距離で止まり、聴覚できるぎりぎりの発声を上げた。


 そうして、フードのようにかぶっていた灰色の布きれを持ち上げる。肩にかかるかどうかくらいの灰色の髪。であるのに、ロングヘアを靡かせるように大仰に首を振り、持ち上げた視線を正常に前方へ正した。いや、メイドとの身長差を思えば、ほんのわずかにまだ、上向いているだろうか。


「第六世代首席、アルゴ・バルトロメイだなぁ……。俺ぁ、問答ってのが苦手なンだがよぉ、ひとつだけ聞いとくわ。……EBNAが生んだ最高傑作。噂じゃ、『神』とまでに人間を逸脱しちまったっつぅ、ムウ。あいつぁ、いま、どこにいる?」


 間違い、ない。いまさらながら間違いようがない。と、メイドは確認する。


 いま、二十歩の距離で言葉を紡ぐあの狂人は、間違いなく、ネロ。主人が、ひいては現在自分たちが敵対すべき、常軌を逸した存在。




 ネロ・ベオリオント・カッツェンタだ。




「存じ上げませんね。あれ以来、会っておりませんし、連絡先も聞いておりませんので」


 おそらく、なんらの駆け引きもない、純粋な問いだ。だからといって敵に対して、馬鹿正直に真実を語る必要もなかったのだが、メイドはこの場において、自身の知る限り正しい情報を伝えておいた。

 それは、かの狂人が、ただ普通に言葉を紡いだことに一抹の違和感――おそろしくポジティブに言うなら『光明』を、見出したからである。


 もしかしたら生殺与奪に触れることなく、言葉だけで解り合える可能性を、ほんのわずかであれど期待して。


「あれ以来……」


 疑問に近いが、言葉の途中で得心したように、不自然に正常を繕ったようなイントネーションで、狂人は呟いた。


「げひゃひゃひゃひゃひゃ! そうだなあ! そういえばいつだか、すれ違ったかあ!」


 唐突に呵々大笑し、頭と腹部をそれぞれ押さえて、狂人は、大仰に喚いた。いま。ようやっと、それを思い出したように。


「ンでえ?」


 今回は正しく、語尾を上げる。

 すると、まるで目が掠れたように、ふと、メイドの視界から、狂人は、消えた!


「ラ――」


 グナ!! と、幼女を呼ぶ言葉は、続かなかった。続けられなかった。


 それでも――その攻撃・・を受けつつも、片足で、彼女を蹴り飛ばすくらいのことは、なんとか間に合う。少しでも狂人から幼女を遠ざけるための、あまりに乱暴な一手。


「なンでここにいるかっつう問答は、必要ねえよなああぁぁ!!」


 やはり疑問形ではなく、狂人は断定的に、叫んだ。


        *


 端的な、戦術の欠片もない、愚直な、文字通りに愚かな、ただの力任せに、狂人は拳を、突き落とした。


 突き、落とした・・・・。メイドよりもやや低いであろう体長で、身軽に跳ね、わずかな上空から、重力による自由落下の力も上乗せして、ただただ力いっぱい、拳を振り降ろした。


 瞬間。観察する。


 全身へ力を巡らすバランス感覚は、さすがに見事だ。地を蹴る、跳ね上がり、振り降ろす。重力の力をも相乗。足から登る力が、ほぼどこにも逃げずに肉体を巡り、突き付けた拳に集約する。そんじょそこらの鉄程度なら砕く威力だ。しかし、メイドの扱う特注の、ボラゾン製の警棒でなら受け切れた。とはいえ、その威力自体が消えてなくなるはずもなく、警棒を握るメイドの手には、銃弾を弾いたほどの痺れが伝わっている。


 とはいえ、その程度、慣れたものだ。それにそんなこと痛みに、かかずらっている暇など、ない。


 よく見れば、警棒で受け止め、瞬間止まった狂人の腕は、不気味なほどに歪んでいた。これは、もう、とうにぶっ壊れている。折れている、などという、生易しい傷ではない。何度も何度も、乱雑に骨を折り、まともな治療もせずに自然治癒に任せて、いびつに再結合したような、がたがたな骨組みだ。


 色も、おかしい。表皮から観察するだけでも、不自然なほど赤黒く、あるいは青白く、内側の血も脂も骨もないまぜな、とうに使い物にならないはずの色合いが見て取れる。


 それだけでも、メイドは、ぞくっと、背筋を冷やした。これでもEBNAにおいて、相手の身体状況、言葉遣いや癖から、その人の人間性を読み取る訓練はしているが、それでも少女ほどの洞察力はない。そうであったことが、これほど幸福であったと、安堵せずにはいられない。それほどの、地獄を越えてきた、腕。


 腕、だけでも、それほどに――!!


「う……!!」


 叫び出しそうな肉体を、無理矢理、押さえつける。そうして、直視する。狂人、ネロの、顔を。


 腕同様に歪みきった顔面骨格。当然のように何度折れたか、そして何度それら傷を適当に放置してきたかが解るほどに、ぐちゃぐちゃだ。腕もそうだが、大量の火傷や創傷。ありとあらゆる外傷も、彼の表情のひとつへと組み込まれている。


 血走った、目。双眸。その目下に延々と伸びる、隈。いや、ともすればそれも、火傷か壊死の結果なのかもしれないほどに、当然とその闇は、そこに居座っていた。それでも決して消えていない、漆黒の瞳。血走りすぎてもはや真っ赤に染まった白目の、中空に浮く、果て無き憎悪を孕んだような、暗黒。


 それが、彼の生きている証拠。そこに瞳がなければとうに、メイドと言えど眼前の存在を『人間』だとは思えなかったろう。


 それほどの、気力が満ちた、黒い瞳!!


「いま……怯んだろ」


 声が聞こえるが早いか。メイドは、真横へ吹き飛ぶ。赤の広場中央から、一撃で、その一端。ロシアでもっとも美しい聖堂のひとつとされる『聖ワシリー大聖堂』。それに体を強かぶつける、寸前まで。


        *


 死。


 走馬灯のようにメイドは、吹き飛ばされている過程をすべて、スローモーションに感じていた。


 瞬間に、いろんなことを考えた。……らしい。


 蹴られた? だとしたら、首が吹き飛んだ? ダメージは頭部に……? なれば、やはり首が飛んだのだろうか? 乱雑に切り飛ばされた首が、頭部を失った自分の肉体を捉えるかもしれない。


 いや、そんなことはどうでもいい。仮にそうなっていたとして、まだ意識があるなら、なにかできることを。首だけになったなら、噛み付くくらいしかないだろうか? いや、首は飛ばされたのだから、軌道修正などできやしない。ならば、体の方へ指令を出して、せめて、警棒で一撃を……。いや、首が飛ばされたのなら命令を出す脳と体が切り離されている。


 ……ラグナは? あの瞬間で蹴り飛ばせたはずだが、逃げただろうか? いや、そんなすぐに逃げに徹するだけの判断能力は、きっと、ない。そのうえ、そこまで情に薄い子でもない。それでも、瞬間の時間が稼げたのなら、……そうだ、シュウ様! 彼の『異本』の力で、ラグナを転移させていれば……! 抜け目ない丁年だ。きっと、ラグナのことは、大丈夫。


 ……ハク様。このような体たらくで、申し訳ありません。一矢をも報いることできずに、本当に、メイドとして失格です。あるいは『家族』としても。みなさんに、悲しい思いをさせて――。


「――ううぅっっっる――っっっせええぇぇなあああああぁぁぁぁ!!」


 はっ! と、あまりに乱暴に意識は戻された・・・・


「まああぁぁだひとりでいる気でいんのか!? 『家族』のこともそうだがよおおぉぉ! 俺様を忘れてんじゃねええぇぇ!!」


 土下座のように、両拳とともに、頭部を地面へ、強打する。メイドは、まるで別人のように・・・・・・乱暴な、言葉と態度で、そう、自分自身を鼓舞した。


「……すみません。助かりました」


 ゆっくり額を持ち上げ、言葉を立て直す。


 ――はっ! 俺様の体でもあんだからなあ! 勝手に見限ってんじゃねえぇぇぇよおおぉぉ!!――


 そう、彼女の心は返答した。

 どうやら首は、まだ、繋がっている。そう確認して、メイドは、再度、構える。


「申し訳ありませんが、全身全霊で、頼らせていただきますよ」




 遠目だからだろうか? 狂人はそのメイドの構えに、どこか二人分の気迫を感じた。



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