みっつのたからもの
ふう。と、とりあえず安堵する。五年以上も引き籠っていた。
一階に降りれば、だいたい誰かしらがいた。一日三食のうち、一食くらいは、受け取るときに誰かと顔を合わせた。月に二回くらいは部屋に、少女や女の子がやってきた。だから、厳密に一人きりでいたわけじゃない。
それでも、多くの時間を一人で過ごした。ゲームをしたり、
とはいっても、結局はたかだか五年だ。それ以前の十数年を越える年月ではない。年月だけでもなく、感情も。
「……呼んだの、ハルカ? だけど外、か。これだけで緊急事態ってのは、伝わるね」
麗人が言った。少し、前髪の乱れを気にしながら。
美しい黒髪は後ろでひとくくり。やや艶めかしい、体にフィットするスーツ姿と、青いフレームのメガネをかけた仕事モードで、
「だけど、十五秒ってのは短すぎない? シュウ」
同時に呼び出されたはずの弟へ、麗人は言った。
「緊急時用だから仕方ないッスよ。というか、時間もみんなで決めたじゃないッスか」
丁年は落ち着いた様子で答える。
もともと茶色かった髪には、いまでは多くの白髪が覗いている。まるでこの六年の苦労を反映するようでもあるが、本人はさほど気にしていないようだ。
稲荷日
「てか、なんで敬語なんだよ。この場で」
妹と同じはずの黒髪は寝癖でぼさぼさだから、その真髄を測りかねるが、それでも日に晒されていないぶん、十二分に質はよさそうだ。だが、同様に日に晒されてない肌はやや青白く、妹の健康そうな肌と若干の乖離が存在している。
淡いピンクに起毛するパジャマが危機感を減衰させるが、その手にはちゃんと、にわかに発光する肌色の『異本』が握られていた。
彼女こそが姉弟の長女、稲荷日
「いや、まあ――」
丁年が、なにかを言いかけたと同時に、ぼそりと、誰かがなにかを言った。
だから。
「飛ぶぞ」
丁年は
*
近くの木陰に隠れて、丁年はそこ――さきほどまで自分たちがいた場所を、見る。
黒い――というより、漆黒に塗り潰された、立方体。
「で、どうしたんだよ、『オヤジ』」
丁年は自分の脇に移動させた、父親と呼ぶべき若者へ、問うた。
「あれは『グリモワール・キャレ』だ。空間生成と作り上げた空間内の、完全制御ができる」
「飲まれたら終わり、ってことでいいのか?」
「その解釈で問題ないだろうね」
その絶望感に対してなのか、一度、丁年は大げさに頭を掻いた。
「つーか、俺はその、なくなってる左足がどうしたのか、って、聞いたんだけどな」
その言葉に、次は若者の方が眉をしかめる番だった。一拍の間が空く。
「……それがいま重要かい? ともあれ、ぼくが指示したことではないが、ハルカはこの状況に対して、きみたちを呼んだわけだ」
ふう。と、呆れたように若者は息を吐いた。助けがなければ、近い将来に死していてもおかしくなかったというのに、まるで
「で、どうすればいい?」
「逃げる」
この問いには、若者は即答した。
『ちょい待てや、兄さん! それじゃ、俺はまた、まだ追われる身に――』
「そんなことは知らないね。だいたい勝手に他人を巻き込んでおいて、自分本位なことを喚くな」
言って、若者は抱えていた落書きにデコピンした。感覚があるのかは解らないが、『うげー!』と、落書きは悶える。
「とりあえず、この場からの退却には手を貸そう、『虎天使R』。正直、それだけでも大きな譲歩だ。今回の件で、ぼくらもやつらに追われることになろう。だから、シュウ。いったん引いて、体勢を整えたらやつ――ガウィには手早く口封じをしなければならない。WBO本部に連絡されたらよっぽど面倒だ」
「だったら、いまこの場でやったほうがいいんじゃねえの?」
「ふうん……?」
若者は少し間を溜め、そう唸った。
「『やったほうが』、ね。きみはあいつの口を、どう封じるつもりなんだい?」
「殺す」
丁年は拳銃を肩元で構え、ノータイムでそう答えた。
だから若者が、また嘆息する。
「おっかないことを言うようになった。まあ、それがきみの望むきみなら、ぼくは関与しないけれどね。……でも、ぼくが掲げる凶器はいつだって、この言葉だけだ」
自身の口を指さして、若者は語る。
「あの馬鹿には、話し合いで穏便に、帰ってもらおう」
*
若者は、覚悟をした。なぜ自分がそんな決断をしたのか、それは、彼自身にも解らなかった。
だが、頃合いなのだとは感じた。そして、『ムオネルナ異本』。それにより瞬間ではあれど、
ずっと思っていた。
そう、ずっと思いながら生きてきた。それが彼にとっての、生涯をかけた謎だった。それを解くために生きてきた。そう言ってもいい。とうに死んでいたはずの自分自身に、なにか役割があるとするならば、きっと、それなのだ。
その
だったら、ぼくが
そう、若者は思ったのだ。
そう、若者は言い訳した。誰にも知られることのない、自分自身の、内面へ。
絶対必殺の
――もちろん、それが真実であるかは、彼にすら解らぬことであろうが。
「『
若者は呟き、丁年の持つ『異本』、銀色の装丁、『神々の銀翼と青銅の光』に、触れる。すると、その『異本』は、静かに、それでいて煌々と、純度を上げて、強く光った。
「より直観的に、より速度を増して。感覚の求めるままに、変幻自在に。……これでいい。シュウ、これからぼくの言う通りに、やってのけてくれ」
若者は言い、その言葉通りに、丁年は行動した。
つまり、若者はふと、姿見ほどの大きな鏡の中に、消えたのだ。
*
『グリモワール・キャレ』が生み出す空間とは対照的に、真っ白な世界だった。
「『お、父……さん』」
少しだけ躊躇って、麗人は若者をそう、幼少期とはわずかに違う言い方で、父親のように呼んだ。
「きみは順当に成長しているようだね、カナタ」
「……っ! 『お父上』、足がっ!」
驚愕して、幼いころの呼び方に戻る。なぜだろう? どんなに変わっても、どんなに成長しても、慣れ親しんだ故郷では、親愛なる家族には、『いつかの自分』に戻ってしまう。
「問題ない。大丈夫だ」
駆け寄る麗人を面倒そうに押し留めて、若者は疲れを落とすように、瞬間、俯いた。
が、すぐに顔を上げる。あまり時間もない。
「『
彼女の持つ黄色の装丁『
「より強く、より優しく。清浄に、神聖に。永久を巡る輪廻のままに――」
彼の詠唱に応えるように、その『異本』から、ふいに現出する。両腕を羽根のように広げた、
「これがヤキトリの本当の姿だ、カナタ。
気障に諸手を広げ解説をしていると、ふと、若者は違和感を覚えた。
「……知ってるのです、『お父さん』」
にこりと笑って、麗人は言った。
そしてヤキトリと目配せ、若者が望んでいるのであろう、切断された傷口への止血や痛覚緩和を施していく。
「小さなころ――あの屋敷でみんなで住んでたころ、ある日、ふいに、ノラとメイちゃんが来たのです。懐かしいですよね、『お父さん』」
「ぼくにとっては数か月前の出来事だ。懐かしむほどに色褪せてはいないし、そもそもそんな感性はきっと、ぼくにはないね」
どこか面映ゆいような表情で、眉をしかめる。ヤキトリによる治療がむず痒いような。
「あのとき、メイちゃんに、いろいろ教えてもらったんです。私たちの『異本』。その、本当の力。この三冊は決して、人を傷付けるためのものじゃない」
昔ながらの、わずかに幼い口調を徐々に正して、麗人は語った。
「メイちゃんはこう言った。『死ぬ覚悟はおありですか?』、と。『家族』を守るために、
ある者は、常に己と向き合い、
ある者は、暗い世界に飛び込み、通常じゃ手に入れられない情報も技術も培った。
「私は、普通の世界で、普通に就職して、普通に生活して。普通の素晴らしさをずっと感じて、生きてきた。ちっとも『普通』とは言えない私たちだったけれど、それでも、可能な限りに普通な人生を、普通な幸せを、私は見てきた。ハルカもシュウも、そういうのはなぜだか進んで、拒絶するタイプだったから」
そう語る彼女の表情には、『普通に』酸いも甘いも味わってきた、一般的な人間としての皺が伸びていた。口元と、目尻に。
その笑みに至るまでの人生の振れ幅を、象徴するように。
「さ、これでとうぶん、痛みは感じないはずです。……なにをするつもりかは解らないけど、無理しないでくださいね」
ぽん。と、軽くその、見た目にはいまだに痛々しい傷口を叩いて、麗人は言う。血は止まり、痛みはなかった。だが、さすがに彼女の『異本』――そこから生み出された鳥人でさえ、失われた足の再生まではできなかった。
「……迷惑をかけたね」
若者は言い、ほどよく麗人との距離感が、曖昧に離されていく。丁年が、若者の指示通りに次の行動を開始したのだろう。
「……『お父上』。その時制表現、合ってるのです?」
そう投げかける言葉も薄れていくから、若者は、その意味の理解に一拍の間を必要とした。
そして、理解して、苦笑して、答える。
「迷惑を
若者は言った。
痛みはなくとも、足は一本、失われたまま。だから、真っ白な空間に腰かけたまま、俯き、わずかに目を閉じ、息を吸う。……吐く。
目を見開くと、そこは予定通りに、真っ黒な空間だった。
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