4.220112×10e-105立方メートルの委託
『異本』に
『適性』と『適応』は、その『異本』の性能をどれだけ引き出せるか、という点においては完全な上下関係だ。しかし、ある『異本』に対して『適性』を示すかどうかはその人間の『親和性』に依存するのに対し、『適応』に関してはそうではない、ということである。
つまり、いくら『異本』全般に対する親和性が規格外に高い若者――
だが、『虎天使R』のように、自律して行動する、あるいは、外部になんらかの影響を及ぼす『異本』は数あれど、適性もしくは適応する人間が扱うことで、かの『異本』も、扱われることにより発動する別の力が必ず内在されているのだ。
たとえば、メイド――アルゴ・バルトロメイが持つ『異本』、『ジャムラ呪術書』。これは、ただそこに存在するだけでも、本が閉じられてさえいれば『存在の消滅』という、周囲へ対する認識操作の効果を及ぼすが、適性もしくは適応する者が扱うことで『腐敗進行』、あるいはそれに随する『微生物操作』の性能を発揮することが可能だ。
では、『自律行動』の能力を持つ『虎天使R』が人間に扱われることで発揮する性能とは……?
『とうりゃああああぁぁ!!』
掛け声を上げ、『虎天使R』はロリババアの足へ突撃した。少し前に
「痛いっ! 脛は弁慶の泣き所っ!」
引き出されし性能は、彼、『虎天使R』の肉体強化――いや、紙面強化。
その程度だ。ロリババアの脛を強打して、わずかに足元をふらつかせるだけの、その程度。
*
だが、超重量の斧を振り回している現状、彼女はとても足元が覚束ない。だから
「ちょわああああぁぁぁぁ――――!! ……っとと! なん……とか……!!」
体制を立て直そうと努力する。しかし、そのために先の一撃は空振りし、若者の前髪を、少しだけ掠めた。
そしてその勢いのまま、二十四時間で三回までの攻撃を、その最後の一振りを、これまで以上の速度と力強さで、振るう。
「転移の二」
そのわずかながらも確実な間隙に、若者は抜かりなく
『転移の二』。空間に穴を空け、ワームホールを繋げる一本。だが繋ぎ続けられる時間は短く、また繋げられる距離もさほど遠くはない。せいぜいが数十キロ程度だ。
それでもぎりぎり、ワンガヌイの街までは届く。
「さあ、シロ。先にお帰り」
言うと、彼にしては珍しく、女の子の背を押し、催促するように歩ませた。「ちん?」。女の子は若者を見返り、不安そうな顔をするが、やはり珍しいことに、若者は相手を安心させるような笑顔で、女の子を見下ろしている。
だから、だろう。
女の子はそれが若者との、
「ム、オ、ネ、ル、ナ、……! 異本をっ!」
完全破壊の一振りが、もう加減も思いやりもなく、若者の頭上に迫っている。力だけでなく、その、感情もろとも、本気で。
『兄さん! 避けろ!』
言われるまでもなく、若者には解っていた。女の子を見送るため、敵に背を向けていた。それでも、背後から迫るその攻撃は、馬鹿の一つ覚えに単調だから。
「……『
しかし、肉体的にはあまりに虚弱すぎる若者に、それを回避する瞬発力はない。だから、仕方がなかった。女の子を送るついでに、
「滑らかに、力強く。……さあ、これで問題ない。悪いが受けて――受け流してもらおう、
そう言う若者の影から、「ちっ」という舌打ちとともに、すでに全身を異形に作り替えた女性が、ひとり。これまでになく『異本』を輝かせ、これまでになく破壊的な姿で、迫りくる超重量の一閃を、受け――流した。
*
「ジン……てめえ……」
彼女――自宅警備員の
「まだセーブしてないんだけど。つか、いきなりこんなとこに呼び出しやがって、日の光が、眩しい……。だめだ、ふらついてきた」
彼女は地に伏し、当然のように嘔吐した。いちおう言っておくが、彼女に肉体的な欠陥は特にない。これは精神的なものである。
「……稲雷くん。あなた自分がなにをやったのかは、解ってるよね?」
伏せる自宅警備員を無視して、ロリババアは言った。これまでにない、神妙な面持ちと、声質で。
超重量の斧は地面に突き刺さったまま、もはや手を触れようともしない。当然だ。彼女にすらもう、先二十四時間はそれを扱えない。だから代わりに取り出す、一冊の『異本』。
「解っているさ。この時代を生きる人間に当然と与えられた、財産権や所有権を守っただけだよ。もちろんそれが、きみたちの邪魔になっていることも、重々とね」
その言に、ロリババアは天を仰ぎ、静かに目を瞑る。頭を抱えたりなどしない。ただ小さく、「事故だもん、仕方ないよね」と、呟く。だから、茶髪のポニーテールが、これまでよりも静かに、感情の波のように、ふわりと揺れた。
そうして、その、正方形の形をした、濃緑色の装丁の『異本』を持ち上げ、若者へ突き立てる。天から降ろした視線をも、まとめて。
「『グリモワール・キャレ』」
彼女がそう言うと、その声を中心に、世界は漆黒に飲まれた。
*
距離感が解らない。どこまでも広大なようで、ものすごく狭くも思える、漆黒だ。一点のムラもない。であるのに、そこに存在する者たちは互いを知覚できていた。
「稲雷くんはワタクシの――というより、この『異本』を知っているのよね? もうどこにも逃げられないことも、あなたが死ぬしかないことも」
若者は把握する。自分、と、『虎天使R』。そして、稲荷日春火。この三人――二人と一枚が、ここに飲まれている。……ああ、あと、使用者であるロリババアも。
「総合性能Bランク。『グリモワール・キャレ』。『空間作成』と『空間操作』。おそろしく簡略に言ってしまえば、作り上げた空間内では、使用者の思い通りのことが起こせる。たとえば――」
「たとえば、こんなふうに!」
ロリババアが引き継いで、声を上げた。
すると、漆黒でしかなかった空間が、突如、超高高度の空へ投げ出され、果て無く地面へ向かって落下し始める。
『うぎゃああああぁぁ! なんじゃこりゃ! 落ちる!』
「落ち着きなよ。きみは紙だから落ちても大丈夫だろう?」
『そうだった!』
平静でいるのは若者のみ。自宅警備員もゲロから立ち直り――というより、立ち直るしかない、こんな状況では――なんとか右往左往、落下速度を減衰させようともがいている。
いや、もうひとり、冷静な者がいた。この状況を作り上げた張本人の、ロリババアが。
「そうか。『虎天使』は紙だからね、落ちるだけじゃだめなんだ。……じゃあ、こうする?」
言うと、落下先が茶色い大地から、ぐつぐつとマグマが煮えたぎる、火口になった。まだ落下まで時間はあるだろう。しかし、その熱は、その距離でも十分に感じられた。
『こ、これ、幻なんだろ? なあ、兄さん!』
「確かに幻だ。が、この空間内ではその幻は、実体を伴う」
「つまり?」
自宅警備員が、もう少し簡単な言い回しを期待して、問い質す。
「まあ、落ちたら死ぬね。普通に」
ふう。と、落下中にもかかわらず、若者は優雅に足を組んだ。その姿は、これから死ぬ人間の挙動ではない。
『ぎゃああああぁぁぁぁ!!』
「うわああああぁぁぁぁ!!」
落書きと自宅警備員は声を揃えて、現状をようやく、理解した。
*
ふわっ……と、あと数秒で火口に飲まれる段になって、彼らの体は空に、浮いた。
「いい感じに、状況は解ってもらえたみたいだね。まあ、稲雷くん以外は少なくとも、抵抗しないなら殺しはしないから、安心して」
にへらっと笑って、ロリババアは特に、自宅警備員へ向けて、そう言った。
「で、問題は稲雷くんだね。……ねえ、ワタクシだって、こんなことはしたくないんだよ? それは、解ってもらえるよね?」
「ああ、十分伝わってくるよ」
「だったら――」
「嫌々でも、その選択肢を選んだ、きみの負けだ。ぼくなんかに好かれたくはないだろうが、それでも、ぼくはきみが、嫌いになったよ」
「…………」
ロリババアは黙った。べつに若者に好かれたかったわけでもないだろうが、それでも誰かに否定されるというのは、人間誰しも、幾分か
「……2022年、二月」
だから若者が、次の言葉を先んじる。
「ベテルギウスが超新星爆発を起こした。幸いにも地球への被害はゼロ。その数週間前には、楕円銀河M87のブラックホールが消滅している。……いや、これは一般には公表されていない情報だったかな? そして2026年七月――」
「……なにを、言っているの?」
「べつに、ただの記録だよ。2026年七月に、なにがあったか、きみは知っているかな?」
「知らない、そんな宇宙規模の話。ワタクシたちにとってなにかがあったとするなら、その年のその月には、ベリアドール・ジェイス・ダイヤモンドと、ネロ・ベオリオント・カッツェンタとの決闘があって、ベリアドールの方が敗北。『災害シリーズ』の『
「きみにしてはちゃんとした記憶だ。だが宇宙規模では――いや、地球内部では、解明不能な力により突如、地球の核の30パーセント弱が失われている。唐突に、その原因も、まったく解らないままに」
まあ、これも公表されていない事実か……。と、若者は肩をすくめた。
その言葉と態度に、ロリババアは地面を踏み鳴らし、睨みつけた。いつのまにか彼らが浮いていた場所は、しっかとした地面に変わっている。地に足がつき、重力への反発を返せることがこれほど幸せなのかと、特に自宅警備員は感じた。
「なにをごちゃごちゃ言ってんの!? まだ自分の立場が解っていないようだね! 稲雷くん!」
彼女がそう言うと、
彼女が扱ったならこうもうまくいかないだろうという、精密さで。
だから、重力が苦しくなり、若者は地面へ、不格好に倒れる。
「ジンっ!!」
自宅警備員が彼に寄り添う。本当に、思ってもいなかった。まさか、いくら『異本』を持っていないとはいえ、あの、自分たちの父親とも言うべき彼が、こうもあっさり肉体を損傷するなど。
彼女はそう思いながらも、まだどこか、若者を信頼しているようだった。これは幻覚。あるいは、式神? あの式神を扱う『異本』は失ったと少女――ノラから聞いていたけれど、しかし、失われる前に生成しておいた式神がまだ、残っている、とか?
「ハルカ……」
しかし、その苦痛に歪む顔が、自宅警備員の希望を断ち切った。
逃げなければいけない。なんとしても、ここから。
まだ彼が、生きているうちに。
「……イラッとして、ついやっちゃったじゃん。稲雷くん。……でも安心して。『異本鑑定士』としてのお仕事は、腕一本――いや、稲雷くんクラスになれば、五感のどれかひとつと、脳と心臓さえあれば、きっとできるよね?」
移動はワタクシが担いでいくから、安心だよね。ロリババアはそう言って、もう一度、肉体を微塵も使うことなく、あの超重量の斧を――その実態を伴う幻覚を、持ち上げる。
「ハルカ……」
そんな言動をすべて無視して、若者は
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