世界から『ちん』が消えたなら


 粉砕されたベンチの木片、地を割った土煙、道端に広がった木端も舞い上がり、女の子と落書きを分断した。その場所にいたはずの若者は跡形もなく消え去ってしまっている。


「ちん……?」


 女の子はその、超絶なる破壊にも動じることなく、ただ消えた若者だけを不思議がる。


『うんぎゃああぁぁ! 兄さん! それに――』


 若者のこともそうだが、そこに割って入った超物質――あるいは、人物にも、クレヨンで描かれた目を向ける。


 その体格にしては老けた――というより、成熟した顔立ち、茶髪のポニーテール。そして、その腕から伸びる、直前まで若者がいたはずの場所に振り降ろされた、巨大な斧。


「はああぁぁ! 間違えた! いまの! 稲雷いならいくんじゃないの! なんでこんなとこにいたのあの馬鹿!」


 地面に突き刺さった斧から手を放し、天を仰ぎ両手で顔を覆う。涙こそ流さないものの、「うわああぁぁん!」と、けたたましい声を上げて。

 そんなロリババアを脇目に、女の子が落書きに寄り添う。その紙面の端を、ちょっとつまんで。


「ねえ、ちんは?」


 消えた若者を探すように、瞳をまんまるに見開いて、女の子は問う。


『バッキャロウ! あんなもん、生きてるわけねえだろうが! とにかく逃げるぞ! お嬢ちゃん!』


 落書きは答える。若者のことは残念だが、しかし、それと同じ末路がもう、目前に迫っているのだ。うろたえている時間も惜しい。


「ちん……いなくなっちゃうの……?」


 しかし、女の子にはとにかく、若者が消えた現実にしか目がいかない。その現実を、まんまるの瞳で視認して、落書きの言葉で確認して、自らの発言で認識して、意識せず嗚咽する。大きな瞳に、涙を溜める。

 だから、その手に抱える乳白色の『異本』が、煌めいた。


        *


 そんな輝きには気付きもせずに、ロリババアは不意に、悲観から立ち直った。


「まあいいか! 死んだものは仕方ないの! それより『虎天使』を回収――」


「そのポジティブさは見習うべきところがあるが、参考にしようとは思わないね」


 彼女の背に、声と、ささやかなほどの感触が襲う。


「制止の四」


 宝鍵ほうけん、『二十二の鍵』。その四本目。それは対象者を約十分間、行動不能にする。とはいえ、呼吸や心臓の拍動、思考の働きや声を発する程度の動きは可能である。

 そしてそれは現在、若者が持っているアイテムだった。


「ちん!」


 女の子は溜まった涙を弾けさせ、笑顔を向ける。


『兄さん!』


 落書きも同様、絵に描かれた姿は変わらずとも、声の調子を上げて。


「……確かに適応者だ。『ムオネルナ異本』。消滅の『異本』。世界に存在するあらゆるものを消し去ることができる。……だが、適応していれば消すだけでなく、戻すこともできるのか」


 もとより覇気のない若者であるが、さらに憔悴したように低く、細い声音だった。


「まったく余計なことをしてくれた、シロ。……どうやらぼくはまた、死にぞこなった。だがおかげで、面白い体験ができたけれどね」


「ちん~~~~!!」


 そんな若者に、女の子が抱き着く。小さな女の子だ。抱き着くといっても、彼の片足にである。それだけの勢いで、それでも、若者はよろめき、やがて地面へ腰を降ろした。


「まったく。これだけで数日は働いた気分だ。こうなると、数週間は休みたい」


「あはは~! ちん! ちん! ちんぽっぽ!」


「あのう! それでワタクシは! 動けないのだけども!」


「すぐ動けるようになる。その前にぼくたちは、失礼させてもらうけれどね」


「それは困るの! ワタクシには『虎天使』を回収するという極秘任務が!」


「ぼくにも帰って眠るという重大任務があるのでね」


 言うが、若者は動かない。動けない。まだ地面に腰を落ち着け、疲弊したように俯くのみだ。


「はあ。……ガウィ、『虎天使』はくれてやる。代わりに、タクシーでも拾ってくれないか?」


『ちょっと待て! 兄さん! いまさらっと俺を売ったね!?』


「動けるならそれでもいいけどね! しかしそもそも、WBOは稲雷くんも必要としてたの! それとワタクシの名前は――」


「名前なんてどうでもいいよ、ガウェイン。モブキャラの名など、コードネームで十分だ」


「はわっ! モ・ブ・キャ・ラ! ちょっとカチンときたね、いまのね!」


 決めたの! と、いまだ動けもしないのにどこか、ポーズを決めるように声を張り上げた。


「この機会にあなたも連れ帰るの! 史上最年少! 弱冠八歳で『異本鑑定士』になった天才! 稲雷じんくん!」


        *


「……いらん紹介をどうも。WBOに三人しかいない『特級執行官』、コードネーム『ガウェイン』。……言っておくけれど、ぼくは『世界樹』の司書長という待遇でない限り、WBOに戻る気はないよ」


「ふわっ! ご紹介に預かりました! その通り! ワタクシこそが『執行官長』に選ばれし至高の騎士! その一角! コードネーム『ガウェイン』! ……そして稲雷くんの要求は完全にノーなのさ! というより、世界中を探してもゾーイ・クレマンティーヌ以上の適役は存在しない! それがWBOの総意だよ!」


 ふんす。と、彼女は声に出して胸を張った。いや、まだ動けないから、胸を張るような語気を演出しただけだったのだけれど。


『おいおい、マジか。『異本鑑定士』に『特級執行官』? なんで俺が、そんな渦中にいちまってるんだ!?』


 うなだれる気力すら失せ、落書きはおろおろと後ずさる。


 WBO――世界書籍機構については、これまで何度も名を出してきたけれど、しかして、その実態、存在意義、目的が不明瞭であろうと思う。


 簡単に言えば、WBOの目的は、『書籍の蒐集、利用、保存、そして、普及』だ。それは決して、『異本』に限られない。逆に言うなら、すべての『異本』を集めようなどという目的もないし、むしろすべての『異本』のどれ一冊として『所有』の願望は持たない。彼らが求めるのは一番に、『書籍の普及』なのである。

 そのために書籍を集め、そのために書籍を研究し、その利用方法を追求する。そして、受け渡すべき相手が見つかるまでは、自分たちで保存する。それが、彼らの活動なのである。


 そのWBOの花形、『執行官』。『異本』をも含めた数々の本を蒐集し、あるいは必要な人材に受け渡す、その役職。彼らはその特性上、『異本』への親和性が高い。つまり、『異本』へ適性や適応を示しやすい体質を持つ。その上、『執行官』の中でも最上位の『特級執行官』に至っては、総合性能C以下の、ほぼすべての『異本』を扱うことができるという。


 あるいは、『異本鑑定士』。こちらはWBOの中でも特異な役職。世界中のあらゆる『書籍』を扱うかの機関において、珍しく『異本』のみに関与する存在だ。

 基本的には名前の通り、対象の書籍が『異本』であるかどうかの鑑定を行う。全世界で発見された776冊、すべての・・・・異本・・ここ三十年余りで、WBOの『異本鑑定士』により確定されたものである。


 だが、ただそれだけの役職でも、その権力は絶大だ。WBO内において、少なくとも『異本』に関してのことであれば、かなりの発言力を持ち、多くの情報をも得ることができる。それゆえに、『異本』蒐集の実質的な指揮や、『異本』を譲り渡す相手の選定にも強い影響力を発揮する。あらゆる書籍を対象とする組織とはいえ、やはり『異本』は強力で、特別なものだ。それゆえに、その『異本』に対して圧倒的な権力を持つ『異本鑑定士』も、WBOの主力な存在であるといえよう。


だから・・・、なんだよね、『虎天使』」


 落書きの驚愕に、ロリババアは応えた。


「あなたはワタクシたちを――WBOを知りすぎた。おかしいんだよね。だって、あなたには記憶蓄積の機能がないはずだったのに。せいぜいが数か月程度の記憶しかもたない、そう、当時の『異本鑑定士』が診断したのに。困るんだよね。うちの機密を持ったまま、ふらふらと放浪されたら」


 その言葉を以て、彼女の動きは解放された。


「さあ! こっからはガウィちゃんの独壇場! 『虎天使』も稲雷くんも、まとめてお持ち帰りなのね!」


 伝説の武器のように、地面に突き立ったままの斧。その持ち手を、握り締める。


        *


 宝斧ほうふ、『グランギニョルの錬斧れんふ』。


 普通、人間になど振るえるはずのない、超重量の斧だ。その重量、776キログラム。くしくも『異本』の総数と同じ数値だが、気にすべきはそこじゃない。その重さが、いかに規格外のものか、という点だ。重量挙げの世界記録が、せいぜい300キロ弱というのだから、その異常さがうかがえる。

 ただ持ち上げるにも、きっと、人間には無謀なはずのその斧を、彼女は例外的に振り回せる。ただし、二十四時間に三度きりだ。


「ので! 本来なら八時間のクールタイムが欲しいところなの! といっても、泣きごとを言っている場合でもないんだけども!」


 んしょ! と、彼女は溌剌にそれ・・を持ち上げ、肩に担いだ。


「ワタクシには戦闘センスはからっきしだからね! 力持ちでも、ただ戦っては勝てようはずもない! いくら虚弱な稲雷くんといえど!」


 担いだまま、少し腰を屈め、顔を近付ける。若者へ、女の子へ、あるいは、落書きへ。そうして笑顔を見せてから、きゅっと顔を整える。


「稲雷くん。『虎天使』を蒐集してワタクシに同行しなさい! でなければ、足を一本切り落としてから、ワタクシが担いで持っていく!」


 さあ、どうする? 少し楽しそうな語調で、そのロリババアは視線を若者へ落とした。



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