パーマストンノース編
隔世遺伝W‐1
2026年、十二月。ニュージーランド、パーマストンノース。
少女や、その家族たちが住まうワンガヌイからは、車で一時間足らずの隣接都市。ここは観光というよりは、教育面が盛んで、数々の学術機関が軒を連ねる街並みだ。
少女、ノラ・ヴィートエントゥーセンと、戸籍上はその夫、
とはいえ、どうしてもそばに誰もいられないこともある。そんなときはこの隣町、パーマストンノースの託児所へ、シロやクロは預けられる。
この日に限っては、女の子を見る者がひとりもいない、というわけではなかった。ただ、少女の陥った状況を知り、紳士と男の子は出かけてしまった。つまり、女の子を見ていられる者が、たったひとりしかいなくなってしまったのだ。つまるところが、若者、
ゆえに、四六時中面倒など見ていられる訳もない。彼にまっとうな育児などできようはずもないのである。
「ちん~~~~!!」
嫌々と託児所へ迎えに来た若者へ、女の子は嬉しそうに走って、やってきた。
「ぶべぇ!」
かと思えばこけた。うむ、いつも通りである。
やれやれ。と、若者は呆れ、女の子の元へ寄り、身を屈めた。
「相変わらずだ。よくもまあ毎度、見事に転倒するものだね。きみには才能があるのかもしれない」
抱き起こすでも、手を貸すこともせず若者は、そう言った。気障な態度で顎に手を当て、推論を披露するだけだ。
「たい……」
鼻水をすすり、女の子は小さく、そう言った。手には常に大切そうに、乳白色の装丁、『
つまり、いつ世界が
本来ならそんな危険なもの、とっとと取り上げるべきであるのだが、問題は『扱うことができる』という事実である。
少なくとも、その『異本』を失うわけにはいかない以上、取り上げたとてどこかへ隠さなければいけない。かといって、銀行の貸金庫など、いくらセキュリティが厳重だとしても、あまり外部の機関へ預けるのは気が引けた。大切なものだからこそ、近くに置いておきたい。それに、少女がいればそうそう滅多に盗まれる恐れもないのだから。
つまり、取り上げたところでその『異本』は家中のどこかにしまうしかない。であれば、どこに隠そうとも、女の子が手にする機会はゼロではない。なら、そんな突発的な事故に恐れるよりは、女の子の好きに持たせておく方がいいと、少女は判断したのだ。
危険には違いない。しかし、しっかりと女の子の内面のケアをしておけば、間違った使い方をすることは、絶対にない。そう少女は確信しているようだった。そして、その内面のケアのために、若者が呼ばれたのである。
「ほう。転ぶたびに人は強くなるというが、まさしく。以前のきみならとうに大泣きしていたところだ」
「なかないもん」
「そうか。理由は知らないけれど、そう決めたなら、そうすればいい」
若者は言うと、話を終えたといわんばかりに、立ち上がり、女の子へ背を向けた。先んじて歩みを進める。
「ちん~~~~!!」
そんな若者を追うため、女の子は即座に立ち上がり、彼の元へ走った。
今度は転ばず、彼の足元へ、追い付く。
*
街に出る。学生が多いこの街には、活気が溢れていた。カフェのテラス席で激論を交わす学生、お揃いのスポーツウェアに身を包み通り過ぎる学生、それぞれ違ったサイズや形のケースを担ぐ集団、おそらくあれは、吹奏楽でもしている学生たちなのだろう。
そんな活気を見て、若者は嘆息する。羨ましい。とは思わないが、自分には持ちえないメンタルとフィジカルだ。そう思って。
「ちん~、手!」
女の子が若者の斜め後ろでそう言い、自らの片手を差し出した。
「ああ、手だね。疑う余地もない」
若者は応える。女の子の真意を、若者は、多くの推測の中に含んでいたが、確証が得られなかった。ので、ただただ正しいことだけを言っておいたのである。
「手! ぎゅってしないと、まごになるの!」
「孫? ……ああ――」
迷子か。と、気付く。
「ぼくのこの、緩慢な歩みにさえついてこられないようでは問題だ。健康な子どもだろう、きみは」
若者が言うと、女の子は頬を膨らませた。不満げである。
「手! つながないと、まごになるでしょ! ちんが!」
美しい。とまで表現して差し支えないほどの間が、一拍、空いた。
「なるほど、その発想はなかった」
立ち止まり、斜め後ろへ視線を落とす。女の子の目は真剣そのものだ。なればきっと、本気でそれを言っているのだろう。
「その発言は、つまり、きみ自身は迷子にならないという、自信の表れだね。……いいだろう。では自宅まで、ぼくの手を引いてみてもらおうか」
そう言って、若者は女の子へ手を差し出した。自ら握ることはない。なぜなら、今回手を引かれるのは、自分の方なのだから。
それを見て満足そうに女の子は、その手を掴む。そしてどこぞかへ向けて、歩き出したのだった。
*
ビクトリア・エスプラネード・ガーデンズ。
パーマストンノースにある、公園。といっても、その広大な敷地内にはバラ園やプール、カフェなどもある、総合アミューズメントパークとなっている。
そしてそこはもちろん、彼らの目的地ではなかった。
「さて、弁明があるなら聞こうか、シロ」
若者は言う。ベンチに腰掛け足を組み、優雅に……息を上げて。
「ちん~! ぽっぽ! ぽっぽ!」
そんな若者などどこ吹く風に、園内を走る列車にご執心な女の子である。
「……こういうのはぼくの役回りではないのだけれどね、一度だけ言っておこう。シロ。ぼくの名と列車を続けて言うのはやめておけ。親の教育が疑われる」
「ちんぽっぽ?」
「……ぼくはぼくの役割を果たした。あとはきみの人生だ。好きにするといい」
「むん~?」
大きな頭から地面に転がりそうなほどに、女の子は首を傾げた。その頭と同じようなまん丸の瞳を二つ、くりくりと見開いて。
確かに、幼児は特別にザ行の発音を苦手とする。とはいえ、一般的には五歳代にはこれらも十分に発音可能になっているはずである。とするなら、現在六歳のこの女の子は、発話能力に関していささか遅れているということになるのだろう。
「やれやれ」
若者は内心でいろいろと思案し、首を振る。
白雷クロは両親――とりわけ、母親の能力をしっかと受け継いでいた。……いや、確かに彼も、まだ
と、見るに、その様子もない。まあ、実子というわけでもなし、むしろ半分とはいえ受け継いでいる男の子の方が異常なのだ。
「もういい。帰ろうか、シロ」
乱れた息も整った。考え事も、もういい。どうせこれ以上は考えても無駄だ。そう思い、若者は腰を上げる。
「ちん~?」
女の子の返答を待つ前に、若者は背を向けていた。だから、慌てて女の子はついてくる、そう思っていた。
だが、実際は疑問形に立ち止まって、女の子は列車の方を見つめたまま、動かない。
「なんだい? シロ。言っておくがそんなものに乗っている暇は――」
気だるげに振り向いた若者――彼をもってすらその光景には、絶句した。
『いてえいてえ! どこ引っ張ってんだ、お嬢ちゃん!』
絵。……というにもおこがましい、それは、落書きだ。保育園で描かされるような、クレヨンでの、無造作に適当に、塗り潰したような、落書き。
それが、なぜだか動いて、声を発している。
「ちん~。こえ、なに~?」
で、それを女の子が引っ張って、じゃれていた。
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