Broken Words


 沈黙は、長く続いた。


 深夜とはいえ、日付が変わったか変わっていないかくらいの時間だ。偶然にも周囲に人はいないが、そう遠くないところで、誰かの談笑する声も聞こえる。あるいは、男の背後。少女と幼いメイドが戦っているのであろう音も、聞こえた。

 その数を数えて、男は待つ。言うべきことは言った。まだ言葉は尽くせるとしても、さきほどの言葉を越えるものはないだろう。だから、ただただ向き合って、相手の言葉を待つ。


「……そうですか」


 長い沈黙の後、ようやく出た言葉は、どことなく力の籠った声だった。


 また、黙る。それだけではないはずだ。彼女が答える言葉は、これで終わりではないはずだ。そう、男は期待して。


「そうですかそうですか」


 その期待通りに、期待外れな言葉は繰り返される。それは、たった二回だけなのに、その後も無限に繰り返されているかのように、男の耳には響いた。壊れた、機械ように。


「必要……ですか。それはどうも。この身を有効にご活用いただき、誠にありがとうございます。ご主人様の命に従い、そのご意向に沿い働けることは、わたくしどもの無上の喜びでございます」


 壊れた機械のように、淡々と、一定のペースで、メイドは言った。スカートの端を持ち上げ、うやうやしく一礼。その動きは洗練され尽くして、逆に不自然な、不気味の谷に落ちるかのごとき嫌悪を、男に与えた。

 もちろん、その内容にも。嘔吐感をもよおすほどに。


「メイ。そうじゃねえ。そういう意味じゃ――」


「ええ。もちろん。理解しております」


 嘲笑うかのような間の取り方と、言い方だった。わざと相手の不快を誘うような。おちょくるかのごとき話術。

 それは、別の不快感を男へ与えた。己が身を心配するのではない。そんな言葉を言わなければ・・・・・・ならない・・・・状態の、相手を慮る、同情。


 壊れた機械。その表現は、もちろん比喩だ。だって、いまの彼女を表現するなら、むしろ、『壊れそうな機械』、とでも、言うべきなのだから。


「メイ……」


 男は、なにかを言わなければならないと思った。そうして急いた心が、彼女の名を呼ぶ、というだけの発声をもたらす。

 だが、言葉は続かなかった。


「申し訳ございませんが」


 だから、次に続くのは、彼女の言葉。


「もはや、みなさまのもとへ帰ることは、致しかねます」


 メイドの姿が、消える。


        *


 男は瞬時に、身を翻した。バサリ。と、コートをはためかせ、広げる。自身の姿を隠し、時間を稼ぐ、目眩ましとして。


「俺は! おまえを使用人だなんて思ったことは! 一度としてねえぞ!」


 まだ、メイドの位置は解らない。だが、おそらくは近付いている。だから、身を屈め、転がり、建物を背にした。


「ローマで出会ったころから、一度もですか?」


 静かな声が、男の上から。見上げながらもすぐに、男は再度転がり、距離をとる。

 さきほどまで男がいた位置に、鈍い破壊音が響いた。


「悪い! 一度もってのは言い過ぎだ!」


 嘯いても嘘っぽい。そして、それは確かに嘘だった。ゆえに、男は誠心誠意、本音を叫ぶ。


 だがそれでも、ともに旅するようになってからすぐに、彼女はもう、男の『家族』に違いなかった。その気持ちは本物だ。


「やっぱり。ハク様にとって私など、ただの便利で綺麗な、使用人でしかないのですよねっ」


 少しだけ、跳ねたような語尾だった。それは、改めて振り降ろされた警棒の勢いのせいだったろうが、ほんの少しだけ、彼女の気持ちが露呈したように、男には感じられた。


「いや、誰も綺麗とは言ってねえ!」


 またも転がり、躱す。激しい動きとめまぐるしい回避に、言葉は反射的になりつつあった。

 しかし、ただ転がるだけではそうそう距離は離せない。初撃は躱せても、次々繰り出される連撃を、そう何度も躱せるものではなかった。


「綺麗ではないと?」


「綺麗だけども!」


 メイドの速度に付いて行けず、その一撃は両腕を交差させ、その交点で受けた。が、生身の腕と、鋼鉄の警棒。その強度は違い過ぎて、男の腕からは鈍い音が響く。


「…………っ!」


 それでも、声を上げずに、耐える。すると、鍔迫り合いのように動きは静止し、そのまま、メイドは男へ、顔を近付けた。


「やっぱり。そんな目で私を見ていたんですね、いやらしい」


「なんでそういう解釈になんだよ」


「そういう、とは、どういう?」


「……ふ、ざけやがって!」


 話が逸れていることに、男はようやく気が付いた。いや、気が回った、と言うべきか。

 だから、腕の痛みで自身を鼓舞して、無理矢理に男は跳ね除ける。単純な力勝負なら、男はメイドに勝てなかったろう。だから、その間が開いたのは、きっと、メイドの意思でもあった。


「はあ……はあ……」


 肩で息をする。短時間に全力で動きすぎた。そして、腕の痛みが血流を加速させたから。


「俺は……おまえを……」


 男は言葉を紡ぐ。それはやはり、さきほどと同じく、先に続く言葉などなかったのだけれど。


        *


 ツカ、ツカ。と、近付く。歩み寄る速度で。ゆっくりと。


 地に腰を降ろす男の視界には、メイドの下半身しか見えない。しかし、それでも、両腕の先は収まっていた。そのどちらにも、もはや握られていない、警棒。

 それに、少しだけ期待して、視線を上げた。


「かはっ……!」


 それと同時に、息を奪われる。意識が追い付いて理解できたところによると、首を絞められていた。優しくも、確実に。じっくりと、締め上げるように。


「私を……なんですか?」


 馬乗りになる。両腕で首を絞め、地面に仰向けに縫い付けて、その上に。


「私を、そういう目で見ていたのなら、そう言っていただければよかったのですよ。私はご主人様の所有物です。どのような――そのような命にも、絶対服従で、喜んで従いましたのに」


 いたずらっぽい表情で、メイドは言った。その声は、楽しそうなのに、どこか、泣いているようで。


「ああああぁぁぁぁ――――!!」


 嫌悪する。今度は正常に、男は嫌悪した。


 そんなことを言うメイドへ、自分自身の感情として、嫌悪した。その言葉は、嘘だったかもしれない。冗談だったのかもしれない。だが、そういう言葉を言わせている自分も、この状況も、メイドが育った環境も、すべてが憎らしく思えた。だから、締められている首を無理矢理持ち上げ、その意を示す。


「お、おまえは――!!」


 右腕を持ち上げる。メイドを払い除けるために。だが、その腕はメイドの左足で踏み付けられ、地面に固定される。おそらく折れているであろう、さきほど警棒を防いだ箇所が、鈍く痛んだ。


「私は、そうして欲しかったのですよ?」


 メイドは言った。そして先んじて、男の左腕も踏み付け、動きを制す。


「私は、ただの道具です。……道具には道具なりの、幸せがあるのです」


 そう、小さく言うと、メイドは、男の首から手を、離した。


        *


「メイ……」


 言葉は、理解するまでもなく湧いてくる。だが――。


「ぐはっ……! かはっ……!」


 殴打。拳での、力任せな一撃。いや、連撃。


「道具が人間扱いされることを、喜ぶとお思いでしたか?」


 左右の拳で、繰り返し、叩きつけるような――言葉を振り降ろすような、攻撃。


「そうやって情けをかけて、良い気分に浸っていたのですか?」


 一線を越えたような、情けのない言葉。感情など微塵もない、無機物のような、力。


「私が捉われていると? 私が可哀そうだと? 私が自分の意思に反して、何者かに使われていると? そんなこと・・・・・あたりまえ・・・・・じゃないですか・・・・・・・


 それ・・に感情などない。ただの、純然たる事実だ。だから、やはり言葉に、ブレなどない。機械的に、真実のみが語られている。


それが・・・道具というもの・・・・・・・ですよ・・・、ハク様。あなたたち、人間の常識など、通ずるはずもありません」


「だったら!」


 男は声を上げる。胸焼けがしそうな、やり場のない怒りを、やつあたりに。


「ばんばに、ばがってだのも、」


「ええ、その通りでございます」


 拳を止めもせず、涼しい顔で――機械のような顔で、メイドは答える。


「だ、だのじぞうだったぼご、」


「そのように教育されております」


 おそらく、いまさら手を止めても、言葉は乱れたままだったろう。それくらいに、男の顔はもはや、原形を留めていない。


「ぜんぶ……えんぐ……」


「はい。すべて嘘です。ご主人様方を不快にさせる顔など、使用人として、するわけにはいきませんよね? そういう、演技ですよ」


 拳は、止まった。それは、感情とは無関係に。メイドは、もう一つの戦闘が終わったことを感じたから、それを止めたのだ。


「…………」


 言葉も、止まった。それは、顔の腫れとは無関係に。男は、不覚にもメイドの言葉にショックを受け、それゆえに、止めてしまったのだ。


「お解りいただけましたか、ハク様」


 その言葉に、男は答えられなかった。理解などできようはずもない。しかし、理解できない、と、跳ね除ける言葉もまた、言えなかった。


 地面に伏す男の耳が、揺れを感知する。それは、二つの足音。


 自身に向かってくる、軽い一つと。自身から遠ざかる、少し重い、もう一つ。


「もう、私のことはお忘れください」


 それは、それ以上の言葉を残さずに、静かに飛んで……消え去った。


        *


「……酷い顔だわ」


 少女は言った。男の枕元にしゃがみこみ、その顔を覗き込むように。


「もとからだよ」


 なんとか体面は保った。声も、そして、そのぐしゃぐしゃな顔も。ボルサリーノで覆って。


 そうだったわね。少女は、軽い口調で言った。そうして、地面に座り込む。遠くに聞こえる街の喧騒に、聞き耳を立てるように。


 沈黙。互いの呼吸音だけを、静かに街になじませて。現実を噛み砕いて、理解していく。


「俺は――」


 やがて、男が口を開いた。


「なんで生きてんだ?」


 一瞬、自暴自棄な言葉に思えた。それに対して少女は、おどけた答えを返そうかと口を開いたが、出てきた言葉は、真逆のそれ。

 優しさと、辛さ。両方を兼ね備えた、しごく現実的な・・・・、推測。


「……手を抜いていたから、でしょうね。メイちゃんが本気なら、ハクなんて一発殴られただけで、再起不能よ」


「だよな」


 男は言う。息を吸って、息を吐く。そうして力を抜いてから、彼は、思い切り力を込めた。

 現実を噛み千切るように、その顎に。


 顔が、ぐしゃぐしゃに歪む。エディンバラの街を、寒風が突き抜けた。だから頬が、凍るように、冷やされていく。



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