40th Memory Vol.11(メキシコ/ユカタン/9/2020)


 妹との夜更かしの後、少年は勢いよく目覚めた。瞬間、焦燥を感じる。ゆえに、その勢いのまま、上体をも起こしたかった。だが、唯一残った左腕には、現在、愛する妹が寝息を立てている。


「カナタ……カナタ?」


 躊躇われたが、優しく揺り起こす。眠っている時間は、もうない。


 2020年、九月二十二日、火曜日。時刻は午前六時過ぎだ。


「ううん……『兄上』? おはようなのです。むにゃむにゃ……」


「起きろ、カナタ。時間がない」


 起床時の挨拶を呟きながら、微塵も目を開けない妹へ、やや声を張って、少年は言った。


「ぎゅーってしてくれたら、きっとカナタは起きるのです。むにゃむにゃなのです」


「……起きてるみたいだから、わたしは姉さんを起こしてくる。出かける準備をしておきなよ、カナタ」


 少年は言って、女児の首元から腕を引き抜いた。むーん。と、不機嫌に唸る声が、置き去りにしたベッドの上から漏れた。


        *


「姉さん!」


 部屋のドアを叩き、内側へ声を張る。当然の用心だが、ドアには鍵がかかっている。こんなことなら同じ部屋で眠るのだった。と、少年は少しだけ後悔した。


「朝から騒がしいのじゃ。むにゃむにゃ……」


 ドアを開け、眠そうに瞼をこすりながら、女が現れる。……全裸で。

 少年はとりあえず部屋に入り、素早くドアを閉めた。


「姉さん! 外に出るときはなんか羽織って……って、そんなことはこの際いい! 時間だ!」


「ううん?」


 女はまだ寝ぼけているのか、要領を得ないといったように唸るだけだ。


「もう六時過ぎてる。確か『鍵本かぎぼん』の発動は、午前七時だったはずだろう?」


「ううん? うん?」


 まだ瞼は閉じている。というより寝ているといってもいいほど反応が薄い。夢遊病なのかもしれない。そう思うほどだ。


「バカねえ! とっとと起きろ!」


 もはやこの女にはなおざりくらいでちょうどいい。少年は強い言葉遣いにも慣れ始め、その勢いで女を揺り動かす。


「むにゃ……ぎゅーってしてくれたら、きっとわらわは起きるのじゃ。むにゃむにゃなのじゃ」


「この……バカ姉! 起きろ! あとでいくらでも抱いてやるから!」


「んなっ! 『抱いてやる』など、そんなふしだらな! ヤフユにはまだ早い! お姉ちゃんは許さんぞ!」


 女は完全に覚醒した。というか、狸寝入りをやめた。少年はため息を吐く。


「いいから、早く準備しなよ。本当に時間がないから」


 少年は言うと、部屋を出ようとドアノブに手をかける。自分自身もまだ、準備をまったくしていないことを思い出したから。


「……なにを言っておるのじゃ、ヤフユ。……七時は七時でも、午後じゃろうが」


 呆れた口調に、少年は振り向く。


「そうだっけ?」


 そういえば、なんとなく午前だと思っていたが、ちゃんと確認していないような気もした少年だった。首を捻る。……うん。そういえば記憶にない。


「そうじゃ。それに、どうせ時差がどうとか、そういうアレで、厳密に同時刻とか無理じゃろうし。最悪、先に地下世界に到達した者が待っておればいいだけじゃろ」


 そもそも時間はともかく、同座標に転送されるとも限らん。と、確かにもっともらしいことを女は言う。


 ただし、女のこの記憶は間違っていた。実際は、午前七時が予定の時刻なのである。その点、重要事項を適当にしか聞いていない女には、正確な記憶がなされていなかった。


「そうか……じゃあ、まあ、いいんだけど」


「そうそう。だから、お姉ちゃんと一緒に二度寝じゃ! カナタも呼ぶぞ!」


「じゃあゆっくり朝食でもいただこうか。わたしは着替えてくるから、姉さんも準備しなよ」


「ドスルーなのじゃ! なんだかお姉ちゃんの扱いが酷いのじゃ! 昨日から!」


 そんな女の叫びなどどこ吹く風で、少年はそそくさと部屋を出て行った。


 女の瞳からは自然と、涙が溢れだした。


        *


 ゆったりと朝食を食べ、ゆったりと準備をし、ゆったりと出かける。今回の目的地であるチチェン・イッツァ遺跡へ。昼前には到着した。


 チチェン・イッツァ。マヤ文明、後古典期の遺跡。その名が示すは『魔法使いイッツァ人の泉の入口』という意味だ。中心に今回『鍵本』を発動する目的地、『エル・カスティージョ神殿』――別名、『ククルカンの神殿』があり、その東西南北に泉がある。


 泉。つまりはセノーテ。それは、カルスト地形――つまり石灰岩でできた大地が雨水などで浸食され陥没した穴に、地下水が溜まった天然の井戸。マヤ時代の人々の生活に欠かせない水を供給する井戸であったと同時に、巡礼や供物をささげる場として崇拝されてもいたらしい。現在でも観光地の一つとして、シュノーケリングやダイビングを楽しむ場として用いられている。


 実はユカタン半島。約6550万年前に小惑星が衝突したと言われており、このセノーテの多くは、その小惑星衝突が原因でできたとも言われている。それを知れば・・・・・・、確かに神聖さすら感じる。もちろん、せいぜい千数百年前に栄えたマヤの人々には、そんな事実、知る由もなかったはずであるが。


「すごいのです……すごい、人なのです」


 込み合った遺跡群の中、女児は言った。


 この日は年に二回の、『ククルカンの降臨』が見られる日だ。目的地であるククルカンの神殿において、日暮れ時、その日差しによって作られる影が、神殿を降るククルカン羽毛の蛇を浮かび上がらせる。そういう古代遺跡の神秘を垣間見れる特別な日。当然、それを一目見たいと観光客が押し寄せている。


 押し合いへし合い、人ごみに飲まれるほどの混雑ではないが、古代遺跡という厳かな雰囲気とはかけ離れ、お祭り騒ぎのように賑わっていた。


「まあ、だからこそこの日を選んだのじゃ。……仕方がない。まだ時間もあることじゃし、いろいろ見て回るか」


 女が言う。チチェン・イッツァは一つの都市だ、それなりに広い。いまでは多くの建造物に立ち入ることが禁じられているが、それでも、見るものは多いと言えよう。


 まずは、さきほど紹介したセノーテ。東西南北、それぞれ、ククルカンの神殿からだとやや遠いが、散歩がてら一つ、見に行く。澄み切った地下水、鍾乳洞の穴。自然にできたにしては、生活する人々に都合がよすぎる。いや、正確には都合よく泉があるから、それを頼りに都市を形成したのだろうが。


 そして、いくつもの神殿を見学。ワシとジャガーの基壇。金星の基壇。戦士の神殿。千手の回廊。

 この戦士の神殿にはチャックモールという像がある。これは当時のマヤにおいて、生贄の心臓をささげていたとされる像だ。仰向けに寝そべった人間の姿で、両手は腹部に添えられている。この部分に数多の心臓が供えられてきた。そう思うと、なんともおどろおどろしい像である。


 続いて、エル・カラコル。尼僧院。赤い家。鹿の館。エル・オサリオ神殿。と、ククルカンの神殿を中心に時計回りに進む。


 そして、ジャガーの神殿と球戯場。どうやらチチェン・イッツァでは、というより、マヤ時代では、球技が盛んだったようである。


 とはいっても、この球戯場にあるパネルに描かれる、ボールのような絵には頭蓋骨が彫られている。もしかしたら切り落とされた首をボールとし、行われていたのかもしれない。一説には、負けた側のプレイヤーが生贄にされ首をはねられていたとも言われるが、逆に、勝った側が首をはねられていた、という説もあるらしい。現代の感覚とは違い、生贄になることが名誉であった、ということらしいが、真実は解らない。


 そして、この球技で生贄にされた者の首は、球戯場の横、ツォンパントリという場所に置かれたと言われている。


「広かったのじゃ。ちょっと休憩なのじゃ」


 唯一、大人である女が、率先して球戯場の芝生の上に寝ころんだ。観光客は多いが、球戯場は開けており、休息するにスペースは事欠かない。


「確かに疲れたのです。休憩休憩なのです。ねー、ヤキトリ」


『グワッ』


 疲れたとはいえ、楽しめた様子で、笑顔で女児は座り込んだ。その肩に、灰色の鳥が留まる。


「……カナタ。今日も自然にヤキトリ出してるけど、……気を付けないといけないよ?」


「だいじょうぶだいじょうぶ、なのです。遺跡にも鳥のレリーフがたくさんあったし、この地域では鳥がいるくらいの方が自然なのです」


「それはさすがに、この現代社会では通じないと思うけれど」


 ぼやきつつも、少年は女児の笑顔を見ると、無理にヤキトリを『異本』に還そうとは思わなくなっていた。


「へいきへいき。ほら、あそこにもレリーフでよく見た動物がいるのです。ふつうなのです」


 女児はそう言って、おもむろに指をさす。


        *


「ちょ……あれは!?」


 少年は驚愕した様子で、女児が指さす方へ駆け出した。「うん?」と、女も寝転げた上体を上げる。見ると、一匹の猛獣が、小さな童女に襲いかかる寸前だった。


「ヤフユ!」


 女は咄嗟に、赤い装丁の『異本』を投げ渡す。問題ない。ちゃんと少年は、紙幣を・・・持っている・・・・・はずだ・・・


 少年は走りながら、それを受け取る。紙幣を用意。それを『異本』に差し入れる。だが――


「くそっ! 間に合わない――」


「ヤキトリ!」


『グワアアァァ!』


 女児の言葉に、灰色の鳥は翼を広げ、飛ぶ。初速から全速に、空を切るほどの速度で。


 体長は二メートル近くあるかもしれない。しなやかな肢体には野生動物ながらの美しい筋肉。獰猛な牙や爪。その体表を覆うは、淡黄色に、黒い斑点。

 確かに女児の言う通り、それは、遺跡のいたるところに彫刻された、ジャガー・・・・そのものだ・・・・・


『クカアアァァ!』


『グルワアァァ!』


 竜虎相打つ。とはいかないが、聖鳥と猛獣が、そのくちばしと牙をぶつけ合う。その様子に驚愕し、襲われかけていた童女は声を上げた。


「テス! 危ない!」


 童女は、女児と同じくらいの年齢だ。日焼けした女児よりも濃い、黒肌。銀というほど美しくない、くすんだ白髪。質素な衣服。だが、そのセミロングの白髪には、色とりどりの髪飾りがなびく。あらゆる色に染められた、エクステのような飾り。ゆえに、その毛先は、カラフルに複数の色に染め上げられ、現代的でアバンギャルドな様相を呈していた。その双眸に光るはルビーのように燃える深紅。あどけない面持ちは、それでも勇壮に、どこか力強さに強張っている。


 そんな童女が、澄んだ声で叫んだ。その小さな手に提げていた、深緑色の装丁の本を広げ、ジャガーへ向ける。


「戻って! 早く!」


 語る言葉は、意外なことに流暢な英語。メキシコで主に使われるスペイン語とは異なっていた。観光客だろうか? いや、いま、そんなことはどうでもいい。


 童女の言葉に呼応し、ジャガーは再び、童女に飛びかかった。かと思うと、その顔面から徐々に、すぼんでいき、そのまま幻のように、開かれた本に吸い込まれて・・・・・・消えた・・・


「これは……」


 少年はようやく童女のもとへ辿り着き、見下ろす。怯えて本を抱き締める様子に、膝をつき、目線を合わせた。


「もしかして、それは、『異本』?」


 妹と同じ、具象化系の『異本』だろうか? なんの気なしに思って、ちらりとその本を見遣る。その、表紙に綴られたタイトルを見て、驚愕する。


 遅ればせながら、女と女児も追い付いてくる。女児はヤキトリを腕に留まらせ、その労をねぎらった。だが、女は怒りにも似た驚愕の色を、その幼い顔に張り付ける。


「『箱庭動物園・・・・・』……じゃと?」


 タイトルを読み上げる。あり得ないはずの、四冊目・・・を。



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