6th Treasure Vol.8(日本/新潟/8/2020)


 帰ってくる。という感覚。


 二年前。故郷を――自宅を失ってからというもの、少女には、その感覚は久しく忘れていたものだった。それでも、その屋敷に居候することになってから、幾度か、散歩や買い物に出かけることもあった。出かけることがあったのだから、当然、帰ってくることもあったわけである。


 だから、その感覚に特別に疎いわけではない。それでも、いろいろなことがあったニュージーランド旅行だ(正確には単なる旅行ではないが)。郷愁のような思いは拭えない。


「当然なのだけれど、こっちは暑いわね」


 麦わら帽子の大きなつばを掴んで、わずかに空を見上げる。


「もう八月も終わりだというのに、確かに暑い」


 少年にしては珍しく、忌々しそうな語気で言った。


 それもそのはず。少年は現在、とある事情により、普段着の上からコートまで羽織っている。いや、事情と言っても、どうしてもコートを羽織っていなければならないわけではない。しかし、現在の自身の腕のことを思うと、周囲からの奇異の目を避けるために、それを隠せる服装をしておきたかった。


「ここからも、まだしばらくかかるわよ。無理しないでコートくらい脱げばいいじゃない」


 日本の玄関口ともいえる空港には降り立ったが、そこから帰るべき目的地まではまだ時間がかかる。そもそも目的地は交通の便が悪すぎるのだ。


「目立ちたくないからね。憐れまれるのであれば、なおさら御免だし」


 少年は自身の失った右側を慮るように、肩を抱いた。


「帰ったらメイちゃんに、涼しい服でも作らせるわ」


 言ってみて、なにか引っかかるものを感じた少女だったが、それに気付くのは、気付くべきタイミングを逸してからだった。


        *


 新幹線、鈍行電車、バスを乗り継ぎ、最寄りのバス停から一時間半ほど歩く。全行程を含めれば五時間はゆうにかかっていた。が、なんとか二人は、目的地に到着する。

 少年が暮らし、そして、少女がここひと月近く、居候させてもらっている屋敷だ。


「これは……」


 少年はその、住み慣れた屋敷を見上げ、周囲の、森のような敷地も見渡し、驚愕し、警戒した。長旅で疲れており、この暑さで汗だくだ。それでも、神経を集中させ、警戒しなければならない。


 屋敷の四分の一ほどが倒壊している。普通にもっとも近い出入り口に向かって歩いてきた二人だが、敷地に入ってからなんだか違和感はあった。いくつかの木々は倒れ、土草は踏み荒らされ、瓦礫が散乱してもいた。よもやそれが建物が倒壊した結果の瓦礫だとは思いもしなかったが、その、もっとも近い出入り口に到達してみるに、どうやらなにかあったらしい。その出入り口に向かって、屋敷の右手前を中心に、まるで爆発でもあったように、屋敷も森も、破壊されている。


「あ、はは……」


 少女は放心し、笑う始末だ。その顔には、厚着をしている少年以上の汗が流れていた。


「どうしよう、ヤフユ。忘れてた」


 いつもの天真爛漫な笑顔じゃない。体を震わせ、口角を引き攣らせ、ぎこちなく、無理矢理に、現実逃避のように、少女は笑顔で、少年を向いた。


 そして、タイミングよく、どこかで破壊音が起きる。


        *


(タイミング悪く帰ってきたか、『アニキ』)


 不意に少年の耳に、いや、心に、直接声が響いた。


「シュウ?」


 正確には声は聞こえていない。その『異本』の能力で伝わるのは感覚や感情であり、あくまで言葉ではない。今回はの思考が少年に伝わっているのである。


「どうした? シュウ?」


 言葉にしなくても伝わるが、少年はあえて言葉にして語りかけた。


(どうしたもこうしたも……俺たちも忘れてたんだけど。……あ、シロもいるんだよね)


「いるわ。ごめんなさい。わたしもすっかり忘れてたの」


 その声は少女にも聞こえていた。だから少女は割って入る。ことは一刻を争うのだ。


(とにかく二人は早く逃げた方がいい。ただ、もしシロがあいつ・・・の止め方を知ってるなら教えてほしいんだけど)


「ごめん。無理。わたしたちは逃げるから、あなたも早く逃げなさい」


(いや、俺たちはもう避難してるんだけど、町の宿に)


 それはよかった。少女は胸を撫で下ろす。


(ただ、『オヤジ』が残ってる。屋敷を出る気はないって)


「なにやってんのよ、あの人は……」


 愚痴りながらも、そんな若者の姿が目に浮かぶ少女だった。そうか、それくらいには自分も、あの若者のことを理解してきているのか。と、少し笑う。


「逃げる? 本当にどういうことなんだ?」


「ヤフユ、忘れたの? もう八月も・・・終わり・・・なのよ?」


 八月の終わり。なんだ? 少年は本気で考えた。


「あのね、ヤフユ……わたしがここに来てから、何日経った?」


「今日で二十八日目かな」


「なんでそれはすぐ出てくるのよ」


 呆れながらも少女は目を光らせる。それが解っているなら説明は簡単だ。


「完全に忘れているみたいだから言うけど。わたしが来てから二十五日目……じゃなくて、わたしが来てからだと、正確には二十六日目から二十八日目は、メイちゃんが――」


 ドゴオオォォンン!!


 と、先程よりもさらに至近距離で、破壊音がした。

 というか、少年少女の眼前、玄関口がぶっ壊れた。


        *


 破壊された玄関口から出てきたのは、案の定、下着姿の女性だった。彼女はフラフラと覚束ない足取りで少年少女に近付いてくる。見ると、その手には酒瓶が握られていた。日本酒である。


「あぁん? なんだ、ノラに、ヤフユじゃねーか。帰ってきてたのか、クソガキども」


 ひっく。女性は一度しゃっくりをし、乱雑に酒瓶に口をつけ、傾けた。その三分の一ほどは口元から零れ落ちる。


「ひっ……」


 少女は後ずさる。たぶんいまなら――『シェヘラザードの遺言』を扱えるいまなら、彼女と張り合うことはできるだろう。しかし、少女にとって彼女は、すでに母親に近い存在だ。反抗する気力は、ほとんどそがれている。


「ちょうどいい。酒買ってこい、酒。ったく、この屋敷にゃ古酒の一つも蓄えがねーのか。見かけ倒しじゃねーか」


 言って、彼女は一歩一歩にじり寄る。それを見て、少女は同調し、一歩一歩後ずさる。

 だが、少年は悠長に腕時計を見、時刻を確認した。現在、17時過ぎ。


「バルトロメイさん。わたしの留守をお守りいただいて感謝します。これ、お土産です」


 少年はおもむろにリュックサックからそれを取り出す。そういえばリュックにつけていた南京錠がない。と、頭の片隅で、それをどこに置き忘れたか思い出す。その、意味についても、ようやく。


 だが、いまはそれどころではない。


「お、気が利くじゃねーか。しかも日本酒たぁ、解ってやがる」


「ニュージーランド産、唯一の日本酒、『全黒ぜんくろ』です。わたしは未成年ですから、味はどうか解りませんが、お口に合えば」


 乱暴に受け取ると、彼女は礼も言わずに、むしろ無礼千万に、その場で封を切り、口をつけた。ラッパ飲みだ。


「ああ……いい。……違うもんだな、だが、……いい出来だ」


 その状態の彼女にしては珍しく、しめやかな雰囲気で、ちゃんと味わうようにもう一度、口にした。


「ありがとな。今夜は、いい夢見れそうだ」


 味わいながらも彼女は、ラッパ飲みですべてを飲み干した。そうして、少年の頭に手を乗せる。


「でしたら、今夜は早めに休んでください。これ以上飲んでは、せっかくの余韻が台無しでしょう」


「そうだな……寝るわ」


 言って、彼女は倒れた。


 というか、寝た。


        *


「おかえり。ヤフユ、ノラ」


 破壊された瓦礫にもたれて、いつの間にかそこには、金髪金眼の若者がいた。


「帰るのが遅い。もう少し早ければ、もっと早く、彼女を止められた」


 もとより気迫の弱い若者であるが、普段以上に圧が弱い。相当に憔悴している様子がうかがえる。

 瓦礫を背に格好をつけているが、それも限界か、そのまま若者は地面に腰を降ろした。


「申し訳ない。姉……ホムラさんに捕まって」


「ああ、解っている。仕方ないね、あの人に捕まったなら」


 大仰なため気をつく。いや、今回ばかりは大仰とも言い切れない。それくらいのため息をつく理由が、いまの若者にはあるのだろう。


「ぼくは眠るけれど、ハルカ、カナタ、シュウのこと、そしてこのあたりの片付けを任せていいかい? 疲れているところ悪いけれど」


 と、明らかに寝不足な瞼で、少年少女より疲弊しきった表情で、若者は言った。

 なにがあったかは解らないけれど、どう見ても少年少女よりもよほど、若者は休むべきだった。


「問題ない。早く休んで」


「そうさせてもらう」


 若者は言って、瓦礫の奥へ一歩進む。そのとき、少女の背後から、さらに・・・二人の・・・若者が・・・現れ・・、女性を抱き上げた。抱き上げたというか、持ち上げた。一人は上半身を持ち、もう一人が下半身を持つ。そのまま最初の若者の後に続いた。


「ああ、報告は後で聞くけれど」


 闇にほとんど隠れたころに振り返り、若者は言った。


「その右腕、どうした?」


 よろよろと指をさし、若者は問う。


「これは……自分への戒めだ」


 少年は答える。右肩を抱き、若者の目をまっすぐ見据えて。


「ふうん。まあ、納得できているのならいい」


 おやすみ。


 若者は言って、今度こそ闇に沈んでいった。


        *


 とにもかくにも、少年と少女は一時、部屋で休んだ。まずは荷物を降ろしたいし、若者ほどではないとしても、二人もだいぶ疲れていたのだ。


 二人とも、言葉もなく腰を降ろす。二人掛けの寂れたソファだ。その部屋は『第一の書庫』から近い。だから少女は特にその部屋を利用したし、少女が住人に慕われてからは、なんとなくその部屋が、みなのよく集まる部屋となっていた。


 少年は疲れた表情で、隣の少女を見る。だが、なぜだか少女の横顔は、嬉しそうに微笑んでいた。


「どうかした? シロ」


 少年は言う。笑うことはいいことだけれど、この疲労の溜まった状況で、メイドがやらかした状況で、笑われるとむしろ不安になる。


「なんだかね」


 少女は嬉しそうな表情のまま、天井を見上げた。メイドが来てからというもの、屋敷中が綺麗に掃除されていったが、それでも、元来の古さは修復しようもない。その、年季の入った天井を、見上げた。


「変な気持ちなの。嬉しいのかな、この感情」


「どうした、急に」


 少年は首を傾げる。


「えっと……さっき、ジンがね。『おかえり』って言ってくれたから」


「ああ……」


 思い出す。そういえばそうだ。


 というより、そういえばそうだった。


 少年にとって、若者は、父と呼ぶには、まだ比較的、歳が近い。また、若者の人間性は親と呼ぶには難がありすぎる。だから、あの若者を少年は『父』とは思っていなかった。家族ではあるが、親ではない。かといって兄かと言われればそれも違うと思うが……ともあれ、少年は図太くも、若者のことは自分と対等くらいな関係としか思っていなかった。


 だが、少年は若者を尊敬していた。多くを学んだし、多少は羨んでいるし、少々は頼ったこともある。しかし、それはお互い様だ。そう思っていた。し、実際そうだろう。


 でも。そうだ。確かに。若者は、いつも少年たちが返ってくると、必ず「おかえり」と言っていた。そんなことは当たり前で、気にしたこともなかったが、言っていた。


 そんなことだけで若者の人間性が覆ることはないが。しかし、もしかしたら。ここに住む者の中で、一番『家族』を慮っていたのは、若者だったのかもしれない。


 そんなことを、不意に、思い出した。


        *


「そんなことより」


 少年は気恥ずかしくなった。だから、話題を変える。


 そもそも、ここまでずっと、タイミングを外してきた。本来なら帰りの飛行機に乗る前に……と、思っていたのに。女に巻き込まれ、寸前ではマオリの男とも挨拶した。搭乗時間が近付き、エコノミーの席では周囲に人が多すぎて。


 だから、もう、ここしかない。


 まだ弟や妹達も帰ってこない。若者も、メイドも眠っている。


 少女と二人きり、静かに話せるのは、きっと、ここが最後だ。


「そろそろ帰るんだろう、シロ」


 ちゃんと話をしたわけじゃない。だが、このひと月弱、一緒に過ごしてきて、少女がここを離れるのは、きっとメイドがあの状態になって、元に戻ったころ、なのだと思った。


「もう!」


 ふと、少女は声を荒げる。嬉しそうな表情は一変。ややむくれ、前のめりに少年を睨んだ。


「いいかげん『シロ』ってやめてよ! ジンだってちゃんと、わたしの名前を呼んだわ!」


 そういえば。と、また回帰する。若者はいつも、「おかえり」とともに、子どもたちの名前を呼んだ。少年は思い出し、苦笑いする。


 だけど、すぐに真剣な面差しに戻し、向き合う。


 少女と同じように前のめりになって、おでこをぶつけた。


「いたっ」


 少女は目を閉じる。


 だから、ちょうどいい。


「そのまま聞いて」


 少年は言った。自身も、目を閉じる。その心・・・と、向き合う。


「わたしは、あなたを愛している」


 それが、このひと月で、少年が得た心だった。


 きっと、少年はその意味を知らない。その言葉の意味すら、理解していない。


 それでも、少年は感じた。わたしが彼女に抱いている感情には、この言葉がふさわしい。と。


「ん」


 なにも言わず。おでこをつけたまま、少女はほんのわずかに顔を上げた。なにか・・・を待つように。


 その様子を、目を閉じたまま悟り、少年も同じようにする。


 ほんのわずかに顔を上げ、吐息が聞こえるほど近く――唇が重なる、直前まで、近付く。


 そうして、鼻と鼻を合わせた。


「帰っても、元気で。またおいで……ノラ」


 深呼吸をする。少女も同じように。その挨拶の中には、互いのすべての感情が詰まっていた。


 少年はそのまま、残った左手で、自身の首にかかっているを引いた。引き上げ、それを、少女の首へ移す。


「いいよ。目を開けて」


 顔を離してから、少年は言った。


「……これは?」


 自身の首にかけられた緑色の石。そうだ。ずっと違和感を持っていた。これはニュージーランドでずっと、少年が首にかけていたもの。日本を出るときにはつけていなかったはずだ。だから、いつの間にか、ニュージーランドで手に入れたものなのだろう。


 ペンダントになっている、その石を見る。透明感のある、鮮やかなエメラルドグリーンの石。しかし、それは天然のままの姿ではなく、加工されている。輪っかを二回捻ったようなデザインだ。


「マオリ族の伝統的な装飾品だ。その石は翡翠。マオリ族にとって神聖で、特別な石。その……きみ・・によく似合うと思って」


 少年は気恥ずかしくなった。それは、直前までの自分の行動についても、言葉についても、その心自体についても。あるいは、さり気なく変えてみた、少女への二人称についてもだった。


「なによ、こういうの用意してるなら、言ってよね。わたし、なにもお返しできるものがないわ」


 少女は悪態をつくが、相好は、手酷く崩れている。


「ええと、たまたまね、族長がくれたんだ。あのマオリの集落で。この装飾品は、自分のために手に入れても意味がなくて、誰かに贈って――誰かのために贈って、意味を持つものだから」


 話を聞いているうちに、少女は、こみ上げる感情を抑えきれなくなった。


 目の前の少年に抱き着き、その肩で、目元を拭う。


「ありがとう、ヤフユ。可愛いわたし・・・・・・は、ずっと大事にするわ」


 少年は初めて、右腕が失われたことを悔やんだ。だからせめて、二本分の力を込めて、少女に応える。


 血よりも痛い湿度が、右肩を濡らす。


 少年少女。その互いの、右肩を。



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