キルギス編
37th Memory Vol.1(キルギス/オシ/7/2020)
2020年、七月。キルギス、オシ。
そこは『南部の首都』とも呼ばれる、キルギス第二の都市である。
「ハク。お馬さんが歩いてるわ! 可愛いわたしもあれ乗りたい!」
銀髪緑眼の少女が活発に騒いでいる。ため息を漏らす男のぼろぼろのコートを引っ張りながら。
少女の指さす方向には、町中だというのに馬に乗り、悠々とバザールへ向かう男性がいた。
「うぜえ、この暑いのに元気だな、ガキは」
男はとぼとぼと、暑さを噛み締めるように歩く。黒のスーツにぼろぼろの茶色いコートを着込み、汗だくだ。ボルサリーノを片手で押さえ、忌々しげに空を見上げる。
その日のオシの気温は三十五度を越えていた。低湿であるため、じめじめとした暑さではないが、汗のせいで服が体に引っ付き、気持ちが悪い。
「そんな格好だから暑いのよ。コートが大切なものだってのは聞いたけど、スーツは脱げないの?」
「毎日服を選ぶのが面倒なんだよ」
おざなりな口調で男は言った。そのせいか、その言葉が真実なのか、嘘なのか、少女には判別ができなかった。
「……メイちゃん、大丈夫かな」
「大丈夫だろ、メイドなんだし」
連れのメイドは別行動をとっていた。今回は急いで出国してきたので、行先もさほど選ぶ時間がなく、宿の予約もできなかった。ゆえに、メイドには宿などの手配を任せたのだ。
「見えたぞ、あそこが入口だ」
男は気だるげに指さす。
今回の目的地。オシにある世界遺産。スレイマン=トーの登り口だ。
*
入り口で登山料を支払い、入山。金額は一人5ソム。日本円にして約十円だ。
「え、安いわ。どういうことなの?」
「安くて文句言うな。キルギスは物価が安いんだよ」
「でも世界遺産でしょう? 世界なのよ?」
「……おまえ、『遺言』の効能が消えてから、さらに馬鹿っぽくなってないか?」
「さらにとはなによ。すくなくとももともとは、頭がよかったでしょう?」
「『異本』ってすげえよな」
「いー、だ!」
少女は歯をむき出して威嚇した。
男と少女は山を登る。特別に急な登山道ではないが、暑さも相まって息が切れてくる。
道中、アトラクションというには足りないが、祈りをささげる場所や、なにかのご利益のある場所などがある。舗装された登山道から外れた道の先で、現地の子どもたちだろうか? 洞窟に入って遊んでいる姿も散見される。
少女はその子たちを見て立ち止まった。うっすらと額に汗が浮かんでいる。それを少女は腕で拭った。
「どうした、疲れたのか?」
自身も疲れている様子で、男は言った。
「なんでもないわ」
少女は言う。だが、子どもたちから視線を逸らしたりしなかった。
ゆっくりと三回、瞬きをする。それだけの時間、少女は子どもたちを眺めていた。もう一度、額を拭う。
男は息を吐いて、少女のもとへ降る。
「混ざってきてもいいぞ。ロシア語なら話せんだろ」
「いいの?」
少女は目を輝かせて男を見上げる。
「今回はなんの問題もなく引き取るだけだ。おまえがいてもいなくても、差し支えない」
男が言うと、今度は少女はうつむいて、男のコートを掴んだ。
「やっぱりいいわ。行きましょう」
少女は機嫌悪そうに先に行った。息を切らしながら、それでも、男より速く。
ため息をついて男も追う。忌々しげに空を仰ぎながら。
*
十数分ほど登り、山の中腹あたりに到着。そこには一つの建物があった。その建物はまるで山に飲み込まれたような、埋まっているかのような造形で建っている。
そんな奇天烈な建物を無視して先へ進む少女に、男は声を上げた。目的地に着いたことを告げると、少女は機嫌悪そうに引き返してくる。だが、なにも語らなかった。
文化史博物館。スレイマン=トーの洞窟を利用して建てられた博物館だ。
「正直言って見るもんは少ねえが、建造方法や立地を考えると、一見する価値はある。なにより涼しいしな」
男はボルサリーノを脱ぎ、顔を扇ぐ。蒸れたせいか髪の毛まで湿っていて、いつも以上に癖が目立っていた。
「じゃあちょっと、館長に会ってくるから、適当にぶらぶらしてろ」
男は頭を掻き、少女に背を向ける。だが半歩で、その足は止められた。またもコートを掴まれたのだ。
「……なんだよ」
男は振り返り、少女を見る。少女はうつむいて不機嫌そうにしているだけだ。
「文句があるなら言え。黙ってちゃ解らねえ」
「ふん」
少女はそっぽを向く。その勢いで一滴、汗が飛んだ。
男はため息をつき、スーツのポケットからハンカチを取り出す。汗のせいか、それはわずかに湿っていた。
「汗を拭け。これ持って待ってろ」
男は自身のボルサリーノにハンカチを入れ、少女に渡す。
「だいたいおまえ、麦わら帽子はどうした。こんな日こそ帽子をかぶれ」
「山に登るっていうから置いてきたの。つばが広くて飛んでいくんだもの」
少女は受け取ったボルサリーノを両手で抱きしめて、言った。
「わたしも行くわ。可愛いわたしがいれば取引も順調に進むでしょう?」
*
取引は順調には進まなかった。
まず、男が約束した人物は、この博物館ではなく、山の麓にある大シルクロード博物館にいるのだという。そしてその博物館に出向くと、時間を勘違いし、まだ来ていないと言われた。仕方がないので待ってみると、一時間余りでやってきて、こう言うのだ。「やはりあの『異本』は渡せない」と。理由を聞いてみると、二日ほど前に盗まれてしまったという。
「踏んだり蹴ったりだな。美少女効果どこいったよ」
「仕方ないじゃない。可愛いわたしに落ち度はなかったわ。ハクの運がなかっただけよ」
もちろん少女に責任がないことは解っていたので、男はそれ以上なにも言わなかった。
山を降る。町に戻る。
首元を引っ張り風を入れる。汗を出し尽くしたのか、日が落ちてきたのか、汗はもう止まっていた。すると湿度の低い気候からか、服も乾いてくる。乾いたら乾いたで気持ちが悪いのだけれど。
「とにかく、宿に行ってから考えるか」
とは言いつつ、男の頭は考えを巡らせていた。
盗まれた。ということは、『異本』の価値を解っている人間である可能性が高い。だとすると、思い当たる節は、
「あ、メイちゃん!」
少女の言葉に男の意識が現実に戻る。考え事は中断だ。
遠くに見えるメイドを見据える。相変わらずのメイド服。しかもクラシカルなロング丈だ。見ているだけで暑くなる。
男は気が乗らなかったが、仕方なく合流した。
*
メイドは相変わらずうやうやしく一礼すると、首尾を確認した。
「駄目だ。踏んだり蹴ったりだった」
「それをおっしゃるなら、無駄足を踏んだ、ではございませんか、ハク様」
「無駄足を踏んだうえで蹴り飛ばされたんだよ。わざわざ登った意味はなかったし、『異本』も手に入らねえ。しかも、ノラまで不機嫌にしてやがるし」
「不機嫌になんてしてないわ」
少女が言う。男はそれについて文句を言いたかったが、登山や暑さに疲れて、言う気も失せてしまっていた。
「それで、宿は取れたのか?」
「はい、ハク様。滞りなく」
メイドは言って、右手を広げ示した。
「セキュリティも万全ですし、近くのレストランもリサーチしておきました。ラグマンなどいかがでしょう? 宿のそばにおいしいお店がございますが」
「おまえ、もしかして俺らが山登ってひいひい言ってるあいだ、優雅に飯食ってたのか?」
「はい。たらふく」
メイドは笑顔で、そう言った。
*
メイドが案内したレストランは、確かにおいしかった。コース料理で注文したが、そのボリュームに男は見るだけで腹が膨れる思いだった。そもそも男は、疲れたときにはあまり食が進まない。
少女は相変わらずの食欲だった。常に頬を膨らませ食べ物を詰め込んでいる。どうやら少女の食欲は、『遺言』の効能とは無関係だったようだ。
メイドも意外と大食いだった。手掴みでも食べる風習のあるキルギスだが、メイドは几帳面にナイフとフォークを用いて食べ進める。一部の隙もない所作に目を奪われるが、その動作にまぎれて大量の食物を摂取している。リサーチですでに食事をしているはずなのに、その量は少女といい勝負だった。
キルギスでよく用いられる羊肉や馬肉に合わせウォッカを飲む。メイドに勧められるまま男は飲み進めたが、見ると、メイドもたいそうな量を飲んでいる。しかし、まったく顔に出さない。汗をかいた様子もなく、これだけ食べて飲むのは、本当は機械人形なのではないかと男は訝しんだ。
「それで、これからどう致しますか」
一通り食事を終え、メイドが口を開いた。
「具体的には宿で考えるが、とっとと次の場所へ飛ぶのがいいだろうな。盗まれたっていう『異本』の在り処も掴めねえし」
手に入らなかった『異本』のことを思い、男はウォッカを飲み干した。ボトルで頼んでおいたウォッカを、メイドが継ぎ足す。
少女は食べすぎたのか、山登りに疲れたのか、机にうつぶせて眠そうにしている。男が貸したボルサリーノをまだかぶっている。
「少々荒れてらっしゃいますね、ハク様。ですがノラ様を悲しませてはいけませんよ」
「こいつが気分屋のなのはいまに始まったことじゃねえ。俺はなんにもしてねえぞ」
「なにもしないのが悲しませるんです。この年頃の子は繊細ですから」
言葉を静めて、メイドは言った。
レストランはやや騒がしかったが、少女に聞こえないように配慮してのことだろう。だが、そのせいで逆に、男にすらその言葉はうまく聞こえなかった。
「今後はあんたに、こいつの面倒を頼むかもしれねえな」
男はショットグラスを眺めながら言った。
メイドは珍しくすこし
「ご冗談を」
それから困ったような笑顔で、メイドは言った。
*
レストランから宿まで、わずか100メートルそこそこだったが、眠ってしまった少女を男が背負って向かった。
「なんで俺が運ぶんだ」
「あら、か弱いレディに運ばせるおつもりですか」
「誰がか弱いレディだ。おまえはレディである以前にメイドだろうが」
「メイドである以前にレディでございます、ハク様」
わざとうやうやしく一礼するメイドに、男は小さく舌打ちをした。
「まったく、ノラみてえなこと言うんじゃねえよ」
男が言うと、背中の少女がぴくりと震えた。自身の名を呼ばれ、反応したのかもしれない。
宿のラウンジで少女を抱えたまま、男は待つ。メイドが受付で鍵を受け取っている。背中の少女は規則正しく呼吸をしていた。不意に、こいつは生きているんだな、と、当たり前のことを男は実感した。
やがてメイドが鍵を二つ持って戻ってくる。まるで宿の従業員のように右手を広げ、部屋へと案内した。一つの扉を開け、男を中へいざなう。
「それではハク様、ノラ様、お休みなさいませ」
「いや待て、なんで俺とこいつが一緒の部屋なんだ?」
言うとメイドはすこし顔を伏せた。
レストランの薄暗い照明では気付かなかったが、わずかに頬が紅潮している。やはり少しは酔っているのだろう。
「ええと、お気持ちは嬉しいのですが、
「どういう誤解だ! おまえとノラが一緒の部屋でいいじゃねえかって言ってんだ! 女同士だろ!」
メイドは頬をすこし掻いて、男に顔を寄せる。男の肩に手を添え、すこし背伸びをして、耳元へ近付く。
「ノラ様はあなたと一緒がいいと思いますよ」
言うと、メイドは使っていない方の鍵を男に渡して、少女を揺り起した。
少女は男の背から飛び降り、メイドとともに、部屋へ入る。閉ざされたドアは、男に締め出されたような錯覚を与えた。
*
部屋に入り、鍵を閉め、ベッドに横になる。すると途端に、自分の匂いが気になった。男は頭に手を乗せる。そこにないボルサリーノを思い出し、ため息をついた。
アルコールの効果もあってすぐに眠りたかったが、体が気持ち悪かったのでシャワーは浴びたい。男は重い体を無理に起こして、シャワーを浴びに行く。
シャワーを浴びながら、考えた。ここで手に入る『異本』はもうない。手に入るはずだった『異本』、『ソロモンの
この地に『先生』が来たのは、男があの屋敷に住む直前が最後だったらしい。だから、男はこの地に来ていなかったし、『ソロモンの献詞』を見ていない。だが、
だが、世界的にも『異本』蒐集家はそれほど多くはないと言われている。逆説的な言い方だが、蒐集家が少ないからこそ、蒐集家が少ないのだ。情報もさほど出回らないし、売ろうとしても買い手がつかない。ただ集めるというだけなら、費用対効果が低すぎる。
もちろん少ないというだけで、まったくいないこともないが。うまく使えば人知を超えた力を得ることもできるし、裏世界の金持ちたちにはマニアもそこそこいる。
考えても詮無きことだった。特定できるわけでもなし。男ができることといったら、解っている可能性を潰すくらいだった。
シャワーを終え、部屋に戻る。改めて見ると、机の上に大きめの紙袋と、手紙が置かれていた。手紙には美しい字で簡潔に『古本屋を巡り購入しておきました』と書かれている。まず間違いなくメイドの字だろう。
そして、紙袋の中を検分する。大方、『異本』が万が一にも紛れ込んでいないかと買ってきたのだろうが、一通り見てみるに、『異本』らしいものはなかった。
そんなうまい話が転がっているはずがねえ。思い、男はなにげなく一冊の本を繰る。ぽとり、と、本の隙間から小さな冊子が落ちた。
拾い上げて、驚愕する。
「これは、『パララ取扱説明書』……!?」
うまい話が、零れ落ちた。
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