0th Story Vol.1(日本/新潟/12/1998)
1998年、十二月。日本、新潟。
海沿いの小高い丘の上に、廃墟同然の建物があった。最寄りの町からもやや離れており、敷地内に植えられた植物は、何年も手入れされていないような様相で、豪邸ではあるのだが、窓にまで蔓が巻きついている。
そんな敷地内の様子を、わずかながら覗けるのは、敷地を囲う高い塀に開いた、小さな入口だけだ。塀の高さは十メートルを越えていた。ゆえに、東西南、三方にだけ存在する小さな門の隙間からしか、ほとんど中が窺い知れない、というわけだ。
当然、そんな場所に誰かが住んでいるなんて、普通は思わない。だが、最寄りの町の住人はなんとなく知っていた。そこに、偏屈な学者先生が住んでいるということを。
「『パパ』、捕らえたのじゃ! こやつが『
赤髪の童女が耳を持って駆けてくる。その耳の持ち主は、自身の体の一部を剥がされまいと、必死に速度を合わせていた。
「痛え、痛え! 返しただろうが、離せよ!」
耳の持ち主の少年は喚き散らすが、どこか生気がなく、危機感すらも希薄に見える。そもそも服装からして浅ましい。この真冬に、この国きっての豪雪地で、まさかの半袖半ズボンだ。しかし、なにか事情があるのだろうということは想像に難くない。そもそもその貧相な衣服が、ぼろぼろなのだから。
「ふむ」
『パパ』と呼ばれた初老の男は、少年のもとへ寄り、しゃがみこむ。少年と目を合わせる。男の瞳は、くすんだ灰色。頬はこけ、背は高く、体は針金のように細い。おそらく運動は得意ではないだろう。なぜなら、しゃがみこんだ拍子に、後ろに倒れ込みそうに、バランスを崩していたから。
これなら、うまくすれば逃げられる。少年はそう思った。この耳を遠慮なく引っ張る童女さえなんとかすれば。
ちらり、と男から視線を、童女へ向けた。その瞬間。
「なにやっとんじゃ、てめえ! ぶっ殺されてえか!」
別の誰かがアフレコしたみたいなドスのきいた声で、男は言い、容赦なく拳骨を振るってきた。骨の浮き出た拳は、やたらに痛い。
唯一の救いは、童女が驚いて、耳を離してくれたこと。離されなかったらきっと、誇張じゃなく耳が千切れていただろう。
*
「ふんふん、なるほどのう」
一発殴ると気が済んだのか、男は少年に背を向け、机に向かった。なにか物書きをしている様子だったが、背を向けつつも、少年にいくつもの質問を投げた。
「つまり、おまえはあれじゃ。クソほど金がねえから、うちに侵入して、金目のものを盗もうとしたと。で、ホムラに見つかって、しばかれたと」
「しばかれてねえよ、俺がしばいたんだ」
「じゃがさっき、おまえホムラに耳引っ張られとったろ?」
「途中からもうひとり来たんだよ。二対一で勝てるかっての。ったく、覚えてろよ、あのガキ」
「ジンはおまえより年上じゃ」
「ガキはガキだろ」
男は回転椅子ごと体を振り向かせ、少年を一瞥した。
「まあ、そうじゃな」
それだけ言って、物書きに戻る。
童女は『嵐雲』とやらを書庫に戻しに行った。男は背を向けている。いまなら隙を見て、逃げられるかもしれない。少年はじりじりと、背後のドアへ向かって後退する。
「おまえ、なんで『嵐雲』を盗んだんじゃ。ありゃ見た目はただの本じゃし、実際、ほとんどの人間にとっては、たいしたことのないただの本じゃ」
少年の逃亡行為を知ってか知らずか、男は物書きを中断し、言った。筆を静かに置く。だが、振り返る様子は、とりあえずない。
「廃墟とはいえ、こんな豪邸なら、金目のものくらいあると思った。が、金目のものどころか、水や食料すらほとんどねえ。……で、いろいろ探索してたら、唯一、鍵のかかっている部屋があった。俺は期待した。だが開けてみたら、本しかねえんだ。しかもあの広い部屋に、たった六冊。こりゃきっと値打ちもんだろうと思ってな。……まあ、他に見てねえ部屋もまだあったし、荷物は増やしたくねえから、適当に一冊、持ち出すだけにしたんだ」
ゆっくりと時間をかけ、言葉を溜め、話した。じわじわと後退する時間を稼ぐために。
「あい解った」
男は言って、背を向けたまま、部屋の隅を指さした。そこにはぼろぼろの茶色いコートが一着、かかっている。
「金目のものがなかった侘びじゃ。金にはならんが、寒さをすこしは凌げるじゃろう」
じゃあの。男は淡白に言った。
指した手を今度は、ひらひらと靡かせて。
*
「なんじゃ、帰るのか」
「悪いかよ。言っとくがこのコートはもらったんだぞ」
「解っとるわ」
部屋を出たところに、赤髪の童女がいた。壁を背にし、つまらなそうに床を蹴っている。
少年は童女から目を逸らし、立ち去ろうとする。だが、ふと立ち止まった。
「おまえら、ここでなにやってんだ?」
「生きてるだけじゃ」
「そうか」
同じなんだな。と、少年は思った。
「あのおっさんは? なんか稼ぎがあんだろ?」
「さあの。『パパ』は昔、『先生』というものだったんじゃが、いまはただの『パパ』じゃ」
「『先生』?」
「なにかを集め、なにかを授ける仕事じゃと、『パパ』は言っておった」
「なにかってなんだよ?」
「そんなことまでは知らん」
童女は不機嫌に言い放った。きっとそれを知りたいのは、自分ではなく目の前のこいつなのだと、少年は理解した。
「……邪魔したな」
本当に、そうだ。自分はここにいては邪魔になる。
そう思って、少年は去った。身の丈に合わないコートを、ずるずると引きずりながら。
*
町に一番近い、南門へ少年は向かった。
町に戻りたいわけじゃない。しかし、少年の足で辿りつける場所は、その町しかなかった。
鬱蒼と茂る、樹海のような敷地を抜ける。草木が多すぎて、地面には雪も、あまり積もっていなかった。はるかに高い塀。子どもでも立ったままでは通れない小さな門には、鍵もかかっていない。
だが、その門のそばに、ひとりの男児が立っていた。男児は金髪金眼で、青白い肌をしていた。どこか人間離れした様相だ。
「……なんだよ。帰っていいと言われたし、コートも正式にもらったもんだぜ」
男児はすこし口角を上げた。わずかに開いた口から、白い息が漏れる。
「なんだってんだ」
なにも答えない男児に呆れ、少年は門を通ろうとする。
すると、真横に並んだ瞬間、少年の腕は掴まれた。
「きみ、どうやってここに入った?」
まだにやにや笑っている。だからか、男児の声はどうにも、相手をからかっているような印象を孕んでいた。
「普通に――」
「門からじゃないだろう?」
見透かしたような言い方は、男児の表情と相まって、不気味にすら聞こえる。まるで幽霊と相対しているようだ。
「……あっちの塀を越えた。門は見張られているかもしれなかったからな」
「あっちって、北の塀を? ふうん、そっか」
それは気付かないわけだ。男児は小さく呟いた。
「どうやって越えたかは、気にならねえのか?」
「ならないよ。聞いたところで、ぼくにはできないだろうし、できる必要もない。きみこそ、僕が見張りをしていたのかどうか、気にならないのかい?」
「ならねえな。誰かしらが見張ってることも考えて、無理に塀を越えてきたんだし。もう二度と、ここに盗みに入る気もねえし」
少年が言うと、男児はようやく、掴んでいた手を離した。
「金目のもんがなんもねえからな。……じゃあ、邪魔したな」
少年は片手を挙げ、門をくぐる。
「寒いから、お気をつけて」
男児が言った。
門を越えて、少年は空を見上げる。
世界はこんなに寒かっただろうか? コートにくるまり、風を凌ぐ。
やはり、来る前よりもずっと、世界は寒かった。
*
町に戻る。いつもと変わらない日常が戻る。
盗みだ。少年は生活のほとんどを、盗みとともに生きた。
食料を盗む。盗んだものを食べる。金品を盗む。盗んだものと食料を交換する。
他の誰かが持つものを奪うということが、悪いことだとは十分承知していた。だが、ただ生きる、それだけのためにも、盗む行為は不可欠だった。この町に少年が働ける環境などない。そもそも町全体が貧しかったのだ。
だから町には、少年の他にも多くの盗人がいた。だが、そのほとんどが四、五十代で、少年のような年の者は他にいなかった。だから少年は、他の盗人たちからも疎まれ、迫害され、ときには盗みの邪魔もされた。
だから少年は、誰も入りたがらないあの屋敷に入ったのだ。あの屋敷なら、盗みに入ろうと誰にも邪魔されることがない。
町中を散策する。店の軒先を検分する。だが、少年がそうやって歩いているだけで、町民からは蔑みの視線や声、運が悪ければ石も飛んでくる。少年がこれまで受けた痛みは、いつも無機質だった。
掴まれた耳が痛む。あの生ぬるい、童女の指先の熱。殴られた頬を撫でる。男の骨ばった拳と体躯。
コートを掴んで、体に巻き付ける。誰かが何十年も着続けた、その重みを肩に感じる。痛みと寒さに震える。
「くそっ……くそっ……」
歯を食いしばる。涙があふれてくる。
自分がこんなに不幸だなんて、これまで、考えたこともなかった。
少年は振り返り、全速力で走った。
*
気が付くと、少年は床にうつぶせていた。
「頼む。ここに置いてくれ」
言葉は自然とあふれてきた。
違う。こんな恥ずかしいことを言うつもりはない。心ではそう考えていても、少年の体はもう自分の意識でコントロールできずにいた。
正面にいる男は背を向けたまま、なにも語らない。
「虫がいい話なのは解ってる。性懲りもなく盗みに来たと思われても仕方ねえ。だが、俺にはこうやって、頭を下げるしか、やり方が思いつかねえ」
頭を下げる? なにをやっているんだ、俺は。
プライドを捨て、へりくだり、屈辱を舐める。その程度のことはいくらでもやってきた。だが、それは食うためだった。しかし、ここにいさせてもらうことは、食うことを越えた贅沢でしかない。そんなもののために頭を下げることが、自分で驚きだ。
少年は言葉とは違うことを考えながらも、やはり言葉を止めることはできなかった。
男は変わらず物書きをしている様子で、やはり言葉を発しない。
「住まわしてくれるだけでかまわねえ。食うくらい自分でなんとかできる。なんなら、少しくらい食料や金を入れるくらいはできると思う」
いや、それだけは間違っている。少年は思い切り自分に突っ込んだ。
頭を下げ、雨風を凌ぐ場を手に入れるのは、百歩譲って有益だ。しかし、そのために食料や金を差し出せるほど、自分の生活に余裕などない。
馬鹿げている。いまからでも「冗談だ」と言え。ついでに今度こそ、あの本を盗んで逃げればいい。
そう思うのになんで、……なんで涙が止まらないのだろう?
男は、いつまで経っても、なにも言わない。
「もう、独りは嫌だ。こんな生活は嫌だ。……頼む。……お願いします」
「もしかして、儂に言っとるのか?」
男はようやく言葉を発した。
少年が顔を上げると、男は椅子ごと回転し、少年を見ていた。
「いや、別にここ、誰の家でもないから、好きに住めばええじゃろ」
それだけ言うと、男はまた少年に背を向け、物書きに戻った。
*
「食いもんは適当に食ってええぞ。定期的に友人が送ってくるんじゃ」
「いや、そういうわけにゃいかねえ。自分のもんは自分で盗ってくるし、余分に入れる」
「ガキがナマ言ってんじゃねえのじゃ! いいから『パパ』の言うことを聞くのじゃ!」
「痛え! いちいち耳引っ張んじゃねえ! ガキにガキとか言われたくねえんだよ!」
「ガキじゃないのじゃ! お姉ちゃんなのじゃ! それと、
「そういえば、きみはなんて名前なんだい?」
「…………」
「なんじゃ、おまえも名がないのか。……まあ、ホムラやジンと同じ、この国の生まれじゃなさそうじゃし、察しはついておったが」
「悪いかよ。……別に名なんかなくても、困らねえ」
「いまはそうじゃろう。じゃが、将来的に戸籍はあった方がよいな。やれやれ、書く手紙が一通増えたわい」
「?」
「とにかく、名前を付けるのじゃ! 名がないと
「さて、どんな名にするかのう……」
「……ねえ、今日はやけに寒いと思わないかい?」
「そうじゃのう。じゃあ、冷たそうな名にするとしよう」
「……俺はべつに、なんでもいいよ」
こうして少年は、ようやくこの世界に生まれ落ちた。名をつけられる瞬間を、赤らめた頬で、全身を巡る熱で受け止める。
「……ハク。……
男はにこりと笑って、言った。
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