箱庭物語

晴羽照尊

ベルリン編

35th Memory(ドイツ/ベルリン/7/2020)


 2020年、七月。ドイツ、ベルリン。

 郊外の小さな古本屋。


「おじさん。わたし、この本がほしいの」


 くたびれた服装で雑誌を眺めていた店主に、十歳そこそこの少女が話しかけた。

 少女は銀髪を腰まで伸ばしており、双眸は緑色。白い肌に白いワンピース姿の無垢な様相だった。だが一点、両腕を覆う豪奢なオペラグローブが身分の高さをほのめかしているかのようである。


「これは……売り物じゃないね」


 受け取った本を眺め、店主は言った。

 目が疲れているのか、目元を軽く、指で揉みながら。


「本の隙間を埋めるために飾りで置いているものなんだ。フェイクブックとか言うんだったかな。いちおう本の形を成しているし、ページをめくることもできるようだが、……ほら、変な絵が描いてあるだけだよ」


「いいの。見た目が気に入ったから、売ってもらえない?」


「うーん。でもこれは、息子のものでね。息子も売れるなら売ってもいいつもりでいるようだが、私じゃ値段が決められないね。来週には息子も帰ってくるから、それ以降にまた出直してくれると売れるかもしれない」


「わたしも旅行中なの。明日には帰らなきゃいけないから、来週までは待てないわ」


「そう言われてもねえ……」


 ぱたん。と音がした。さきほどからずっと一冊の本を読んでいたもう一人の客が購入を決意したのか、そのまま店主と少女のもとへ向かってくる。


「オヤジ、こいつをもらおう」


 男は被っていたボルサリーノを人差し指ですこし上げた。夏だというのに黒いスーツを着込み、上からぼろぼろの茶色いコートを羽織っていた。改めて顔を見るに、どうやら東洋人だ。漆黒の髪は全体的にうねうねと癖がついている。


「はいはい……ええと、6ユーロですな」


 店主は本の裏を確認して言った。この店の本には裏に値札シールが付いている。


「良心的な値段だ。値はあんたがつけてるのか?」


 男はきっかり6ユーロを払いながら言った。


「ええ、古本の価値が解るのは、うちでは私だけですから」


「『ハガの海底冒険譚』」


「?」


「この店には二冊置いてあった。この作品は初版が数少ないから、初版だけかなりの高額で売買される」


「ええ、存じております。しかしうちにあるのはたしか……どちらも第二版だったかと」


「そうだな。だが、……あまり知られていないことだが、この作品の第二版には1から3の刷がある。そのうち第一刷だけは初版本と同等の値が付く」


「第一刷?」


 店主は立ち上がり、問題の本のもとへ向かった。二冊を手に取り、中身を検める。


「……お客さん、どちらもただの『第二版』としか書かれてません。刷数なんてどうやって確認するんです?」


「そう、刷数は書かれていないものも多い。だから他の箇所から違いを見抜かなきゃいけない。『ハガ』の見分け方は、『印刷所』と『製本所』だ」


「印刷所? 製本所?」


「『ハガ』の第二版第一刷から第二刷の間に、それが変わったんだ。出版社が委託業者を変えたとかなんとかでな。第二版第一刷だけは、初版本と同じ印刷所・製本所で作られた。だから初版本と並ぶほどに希少視されている。……ああ、ちなみに印刷所・製本所も、本の奥付に書かれている」


「ああ……ああ! たしかに、違う!」


 店主は叫び、二冊を持ったままカウンターに戻った。男が第一刷はどちらなのかを教えてやると、店主は裏の数字を二桁書き足した。


「ちなみに、あと三冊、値を張っていいものがこの店にはある。教えてやってもいいが、ひとつ条件がある。この本を売ってやれ。大丈夫だ、俺の見立てでは、10ユーロがいいところだ」


 そう言って、男は少女が持ってきた本を指さした。

 店主は一瞬迷ったが、承諾したようだ。10ユーロを渡して、少女は礼を言って出て行った。


        *


 男がホテルに戻ると、まずシャワーの音が聞こえた。ボディーソープの匂い。散らかしておいた部屋は掃除されている。男はボルサリーノを脱ぎ、内側に顔を押し付けた。自分の匂いを確認する。ややあって帽子を置き、コートを脱ぐ。それからソファに落ち着いた。


「おかえりー」


 十四歳の少女がシャワールームから顔を出す。長い銀髪から垂れる滴を気にもせず、床を濡らした。眩しいのか、水滴から守るためなのか、年頃なのかは解らないが、やや瞼を落とし、気だるげな表情をしている。それでも映える緑眼はまるでエメラルドのようだ。


「この国は湿度が高くていけないわ。すこし外出したら、すぐに汗だくになるんだもの」


 顔こそシャワールームに引っ込めたが、戸は開けっ放しで、少女は言った。


「あなたもシャワーを浴びた方がいいわ。汗をかいたでしょう?」


「おまえな」


 少女がバスタオルを巻いて出てきたところで、男は口を開いた。


「ガキのくせになんでガキっぽい仕草ができねえんだ? どっか達観してんだよ、おまえの態度。もっと華奢で弱々しい少女を演じろって言っただろうが」


「あら、十分華奢で可愛くて弱々しい、可愛い少女になっていたと思うけれど」


「なってねえよ! 完全に傲岸不遜だったよ! ただでさえ外見が目立つんだから、もう少し影薄くするように努力しろ!」


「生まれ持っての可愛さは簡単には隠せないのね。ああ、なんて罪な、可愛い少女なのでしょう!」


「いちいちそんな大仰な語り口調すんな! なんかムカつくわ! あと何回可愛い言うんだ!」


「可愛いものは仕方がないじゃない。可愛いは正義」


「あとおまえ、致命的なミスあったぞ! 店主の息子の話のあと、「わたしも旅行中なの」ってなんだ? 店主は息子が旅行中だとは一言も言ってねえ!」


「わっ、可愛いわたし、痛恨の可愛いミス!」


「だああぁぁ!!」


 男は怒りに我を忘れ、言葉も忘れうずくまった。


「まあいいじゃない。結果ちゃんと、『異本』は手に入ったのだし」


「……入手難度Dの、しかも持ち主がそれと認識してない『異本』なんて、手に入れて当然なんだよ。変に手間暇かけたのは、『俺がとった』痕跡を残さないためだ」


 それで、読めたのか? 男は言った。


「ええ、『ランサンのフェイク』シリーズ、『五番』。他の『フェイク』シリーズと同じ。時空間制御系だと思うわ」


「どうせ無差別型だろ。使い道はねえな」


「ええ、……読んでみる?」


「いいよ、俺は。……しまってくる」


 男は少女から本を受け取ると、さきほど脱いだコートの内ポケットから、また別の本を取り出した。その本は白い表紙に金の文字があしらわれた、美しく豪奢な装丁で、男が持つにはやや不似合いなデザインだった。タイトルには『箱庭図書館』と書かれている。


「じゃあ、数分だが、任せたぞ」


「あいあいさー」


 少女が気の抜ける返答をすると、男は嘆息して、本を開く。錯覚かと思うほどの小さな光が本から漏れ出てきたかと思うと、次の瞬間、男の姿は消えていた。ぽとり、と、『箱庭図書館』が床に落ちる。


        *


 その世界は真っ白で、果て無く続くほどの白で、ゆえにそこがどういう場所であるかは一目見て瞭然だ。

 無機質に続く空白の中、佇むのはひとつの大理石と、黄金の書架。大理石の傍らには、白い菊の花束。


「『先生』。また一冊、回収できたぜ」


 男は大理石の前でしゃがみ、石に向かって語りかける。


「まだ三十五冊。先は長えが、いつか必ず、揃えるからな」


 そして男は、大理石の後ろにある黄金の書架に、本を掲げた。『ランサンのフェイク』シリーズ、『五番』。現在世界に776冊存在する、『異本』と呼ばれる特別な本。その一冊。

 黄金の書架は男の所作に反応し、形を変える。ぐにゃぐにゃと歪んでは瞬時に形を纏い、掲げられた『異本』が収まるべき適切な大きさに、口を開く。


 ここは『箱庭図書館』。あるひとりの『先生』と呼ばれる『異本』蒐集家が、『異本』を収めるためだけに創り出した世界。彼の『異本』に対する狂信的なほどの熱意は、それそのものが新たな『異本』となり、この世界となった。

 彼の墓はここに建てられ、すべての『異本』が集う日を待っている。


「じゃ『先生』。また、近いうちに」


 男が言うと、また視界が白く覆われていった。


        *


「次はもっと過ごしやすいところがいいわ」


 不満げに声を上げて、少女は大きなトランクを引っ張る。前を歩く男はそれをまったく気遣うことなく歩いていた。


「この国は暑すぎよ。湿度も高いし」


「俺にとっては過ごしやすい気候だったがな」


 男は面倒臭そうに言った。わずかに歩く速度を落として。


「そもそも、おまえが過ごしやすいっていう気候は、一般人のそれとは違うんだよ」


「あら、わたしたちはいま、一般論などを語ってはいないわ。『わたしが過ごしにくい』ということが、現在わたしたちが憂うべき事案ではなくて?」


「大丈夫だ。人間、どんな環境でも意外とやっていけるもんさ」


 男が不意に立ち止まるので、少女は危うくぶつかるところだった。受付に荷物を預け、男は少女を顧みる。


「次はローマだ。過ごしやすいといいな、お姫様」


 皮肉を込めて男は言って、荷物を預けるように促す。

 少女は頬を膨らませて、なかば投げ入れるように荷物を置いた。


「可愛いわたしにぴったりね。楽しみだわ」


 裏腹な語気で、少女は言った。


        *


 ファーストクラスの上質な環境に腰を下ろし、男はすぐさま目を閉じた。リクライニングを深く沈め、ボルサリーノで視界を覆う。


「相変わらず苦手だわ。この席」


 少女は人ひとり分も離れた隣席でぼやいた。


「ねえ知ってる? 航空機事故の生存率って、エコノミーが一番高いのよ」


「文句があるなら、おまえだけエコノミーでもいいんだぞ」


「いやよ。さみしいじゃない」


「わがままを言うな。子どもじゃねえんだから、人生ってのは、なにかしら我慢しなきゃやってけねえことくらい解るだろ」


「華奢で弱々しい、可愛い少女だから解らないわ。どうして世界はわたしのものじゃないのかしら」


「……頼むから寝かせてくれ」


 言うと男は少女のいない方向へ寝返りをうった。

 少女は諦めたのか、窓の外へ目を向けた。まだ搭乗橋が繋がっている。ファーストクラスは優先的に機内に乗り込めることが多い。だが十全に退屈のないサービスを受けることはできる。それでも、少女にとっては『退屈』だ。

 彼女にとって重要なのは、『わたしにとって、それが、退屈か否か』なのだから。


 客室乗務員が九十点の笑顔でやってくる。「お飲み物などお持ちいたしましょうか?」。少女はつい「シャンパンを」と言いかけたが、飲み込んで「レモネードをもらえる? 炭酸はいやよ」と、適当な注文をしておいた。八十五点の笑顔で客室乗務員は去って行った。


「ハク」


 少女は言った。


「……ねえ、ハクってば」


「なんだ。まだ文句あんのか」


 ハクと呼ばれ、男が答える。面倒そうに片手を小さく挙げて。


「あのときあなたが買った本は、掘り出し物なの?」


「ああ、この座席代くらいはまかなえるんじゃねえか。うまく売れば」


「どうせ離陸時にはベルトを締めるのに起きるでしょ。それまででいいから、お話ししてよ」


 男は黙っていたが、背を向けた相手がどんな顔をしているのか、想像がついたから、やがて諦めて、息を吐いた。リクライニングを戻して、姿勢を正す。


「別に、本としては価値のないものだ。だが、あの場所ならではの掘り出し物だったよ」


 男はコートの内ポケット――『箱庭図書館』が収められている場所とは違うポケットから、件の本を取り出す。彼のコートの内側は、いくつも本を収めるにちょうどいいポケットがついている。


「『遥かなる創世の町』?」


「正直知らねえ本だ。『異本』でもなんでもねえ。ただの古本」


「それがどう掘り出し物なの?」


「奥付によると、発行は1989年2月。なんとなく解らねえか?」


 少女は記憶を辿る。自分が生まれる、だいぶ前の話だ。すぐには思い付かなかった。


「……もしかして、ベルリンの壁崩壊と、なにか関係があるの?」


「そう。1989年十一月ベルリンの壁崩壊。その引き金を引いた当時の議員、ギュンター・シャボフスキーの記者会見での言葉を、どこぞの記者が、この本にメモしてる」


 問題のページを繰り、男は少女に示した。

 少女は走り書きされた、その文字を辿る。


「『ベルリンの壁を含めた、すべての国境通過点から、出国が認められる。直ちに・・・遅滞なく・・・・』」


「俺も詳しくは知らねえけど、この発表は誤りで、本来はベルリンの壁を越えることに関しては容認されていなかった。それをシャボフスキーがうっかり間違った発表をしてしまったゆえに、それを信用した民衆が、暴動に近い状態になり、やむなく検問所を解放。ここにベルリンの壁が有名無実化したって流れだ」


 彼の話が終わるときりよく、95点の笑顔で客室乗務員がレモネードと、離陸が近いという知らせを持ってやってきた。男と少女は互いになにも言わず、ベルトを締めた。


「液漏れには十分配慮し、タンブラーにて提供させていただきましたが、離陸時には十分、ご注意くださいませ」


 この日初めて、少女は客室乗務員が、百点満点の笑顔を作るのを見た。



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