緑色のピンク

史澤 志久馬(ふみさわ しくま)

緑色のピンク

 色というのは不思議なものだ。

 その色を見るだけで、人は熱くなったり冷静になったり、気分が高揚したり消沈したりする。

 でも僕には、色が無い。周りにも色が見えない。

 色が見えるとすれば、薄汚れた灰色。

 今日も僕は、灰色の世界で灰色の日常を過ごしていく……。

そのはずだった。




 その日はいつも通りの帰り道だった。

 大した才能もなければ社交性もなく、かといって使えないほどでもない微妙な僕は、普段通りに陰気な地下鉄に乗り、窓に映る汚い自分の顔を見つめていた。

 その時である。後ろに色が現れたのは。

 それは緑色のヘッドフォンだった。緑色とは言っても、鮮やかな光合成出来そうな緑色ではなく、淡い、正直言って微妙な緑色である。しかしその色は、灰色に見慣れた僕の目には意外なほど鮮やかに映った。

 僕は、ヘッドフォンをした人間に目を向けた。それは自分と同じ世界にいることが信じられないくらい可憐で、それでいて大人な女性だった。年は自分と同じくらいのはずなのに、遙か遠い世界の人に思えた。もしこのままであれば、僕は一時の出会いに驚きながら、何もすることなく電車を降りたことだろう。

 彼女は三駅ほど乗って、電車を降りようとした。その時、彼女が手に持ったファイルから、一枚の紙がひらひらと舞い落ちた。彼女は一向に気付く様子はない。他の人も見て見ぬふりだった。

 自分も普段なら無視をするところだろう。しかしなぜだろう、気がついたら僕はプリントを拾い、彼女の細い背中を追いかけていた。

「あの!」

 精一杯叫んだが彼女は振り返らない。僕はもう一度息を吸った。

「あの、緑のヘッドフォンの方!」

 次の呼びかけに、彼女の足がピタッと止まった。自分のヘッドフォンをわざわざ外して色を確かめ、首を傾げながら振り返る。

「私ですか?」

 相手は怪訝な顔だ。知らない灰色の男が急に話しかけてきたのだから当然だ。

「あの、これ、あなたのではないですか?」

 僕が息を切らしながら尋ねると、彼女は目を大きく見開いてブンブンと頷いた。

「そう!私のです!落ちてたんですか?私どこかに落としてました?また怒られるところだった、よかったあ!ありがとうございます、ありがとうございます!」

 彼女が急に勢いよく喋り出したので、僕は慄いた。見た目に似合わず、意外とよく喋るようだ。一人でこのプリントの重要性について語り、なぜか今後の予定について話してくる。数分ほど経ったのち、彼女は急に思い出したように時計を見て、ハッと息を飲んで口を手で塞いだ。

「わ!私しゃべりすぎた!すみません、ありがとうございます!あ、さっきの電車に乗って帰るんでしたか?すみません!私のために一本見送ってもらっちゃって!ありがとうございました!」

「……はあ、僕は別に。どうも。」

 僕はペコペコ頭を下げ続ける彼女から無理やり目を逸らし、ホームの端に歩いて行った。頭に強烈な印象を残す人だった。何より残ったのは、そのヘッドフォンの微妙な緑色だった。





「色が見えない?」

「いや、見えない訳じゃないんだけど、なんか色に惹かれないというか、感じないというか。」

 こんな風に彼女と話すようになるまで、さほど長くかからなかった。もちろん僕から話した訳ではない。次の日から毎日、僕は地下鉄で彼女に会った。実はまだ学生だと判明した彼女が、なぜか根気強く僕に話しかけてきて、そのうちに僕も喋るようになった。色の話を他人にするのは初めてだった。これまで話す中で、彼女には話しても良いと思うようになったのだ。

「そうかー、色ねえ。」

 彼女は考えているのかいないのかよく分からなかったが、馬鹿にせずに聞いてくれるだけでも、僕にはありがたかった。僕は彼女に頷く。

「君に色が見えて。こんなの初めてだったんだ。」

「本当に?嬉しいな。」

 語尾に音符マークがつきそうなテンションで答えた彼女は、ちなみに、と声を低めた。

「何色に見えたの?」

「最初は、緑。ヘッドフォンがその色だったから。緑っていうかその、微妙な。」

「ソフトグリーンだよ!」

 好きな色なんだよ、と彼女はカバンを開けた。同じソフトグリーンたる色のペンケースや携帯ケースが入っていた。

「でも、」

「ん?」

「今では、ピンクかな。」

「ピンク⁈」

 彼女は素っ頓狂な声を上げた。想定していなかったらしい。

「桜色に近いけど。緑より、明るいかなと思って。」

「確かに明るいとは言われるけど、ピンクって言われたのは初めてだったな。いっつも赤とか、オレンジとか言われるから。ピンクか、この春にピンクの服とか買ってみようかな。」

「あ、良いと思う。学生だったら結構自由におしゃれできるだろうし。」

 彼女はニッと笑った。輝くような、ピンク色の笑顔だった。




 その日の帰り道、ふと目の端にピンク色が見えた。彼女かもしれない、そう期待して振り返った僕の目に映ったのは、全然知らない男の姿だった。彼は、ピンク色だった。

 僕は首を振った。彼女のいない灰色の世界に、急に色が見えた瞬間だった。




「最近のスズキ君、変わったよね。」

 上司にそう言われたのは、その年の夏の事である。僕は目を見開き、何故ですかと問う。

「なんか、目が変わった。前よりキラキラしてる。」

「そうですか……?ありがとうございます。」

 僕は一礼して上司の前を去った。別に、特別仕事に打ち込み始めたわけではなかった。以前と違って見えるとすれば、その理由は一つしか考えられなかい。他でもない彼女のおかげだ。

「今日の夕焼けは綺麗だ。」

 そんな事が言えるようになったのも、最近のことだ。ついこの間まで灰色だった夕焼けが、赤く、鮮明に空を染めているということに気づいたのだ。

「ほんとだ、すっごく赤い。ねえ、スズキ君、色が見える方が、楽しいでしょう?」

「うん、楽しい。」

 僕の素直な答えに、彼女は笑った。

「良かった。」

 彼女の言葉は、いつもと異なっていた。良かったと言っているのにどこか寂しげで、僕の方が不安になった。

「どうしたの?何かあった?」

「ううん、何も。」

 僕はそれ以上聞けなかった。それがきっと、間違いだった。こんな日々がいつまでも続くと思っていたことも、間違いだった。





 次の日、彼女は地下鉄にいなかった。たまにはそんな日もあるだろうと思い、全く気にしていなかったが、さすがに何日も続くと何かあったのだろうかと気になってきた。

 ある日僕は、彼女がいつも降りる駅で降りる決心をした。ここで降りるのはあの冬の日、彼女と出会った日以来だった。

 そこに、ピンク色が見えた。彼女だ、そう思ったけれど、彼女ではなかった。

 薄暗いホームの白いベンチに、桜色の本が置いてあった。何気なくベンチに近づき、その本を手に取る。

 その本にはタイトルが無く、開いてみると、何も書いていない真っ白なページだった。若干の落胆を胸に、本を閉じようとする。

 その時、一行の言葉が目に入った。最後のページに、たった一言、文字が書いてあった。

「また、一緒に色を探しましょう。」

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緑色のピンク 史澤 志久馬(ふみさわ しくま) @shikuma_303

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