高台
じゆ
高台
彼女はいつも一人だった。
なのに、彼女はちっとも、悲しそうな表情は浮かべなかった。
僕の町にはこの街を一望できるほどの高台があった。その高台に一本大きな木があって、そこにこじんまりとしたベンチがあった。彼女はいつもその高台のベンチで本を読む。
すらっとまっすぐ伸びたつややかな黒髪を風にさらしながら、優雅に、優美に本を読んでいた。
そんな彼女の姿を見つけては、心はともかく、ゆっくり歩いて近づいて行った。
やや、走り気味であったかもしれないことは否めないが。
そんな僕と目が合うと、いつも彼女は優しく微笑んで迎えてくれた。
彼女との出会いはあまりにも唐突で、心温まるようで、優しくて、明るくて、なにより刺激的だった。
僕は小学生の頃から本が好きだった。かっこいい勇者が可愛いお姫様を助けたり、楽しい友達となんてことのない日常を過ごしたり、おかしなことであふれていたり、本の世界はどこまでも広かった。
毎日のように僕は図書館に行っては、新たな世界で様々な物になっていた。時には勇者に、時には馬鹿なことを言って周りの友達を笑顔にする男子高校生になっていた。知らない世界であふれていた。
けれど、知らない世界は本の中だけじゃなかった。
ある日、僕が、図書館で借りた本を読みながら学校に行くと、僕の靴箱にはあるはずのものがなかった。
またある日、僕の体操服が水でぬらされていた。クラスのどこかから乾いた笑い声が聞こえていた。
さらにある日、僕は水でぬれていた。目の前にいる男の子の手に握られているバケツは空っぽだった。
ある日、ある日、ある日、ある日、ある日、……
毎日、僕は誰にも見せず泣いていた。理不尽に流される弱い自分に嘆いていた。
今日もやけに大きくなった渇いた笑いが耳に響いていた。
また、明日も僕は心の中で泣く。乾いた笑いが起こる。けれども何も進まないし、戻らない。
今日も、また「いつも」のように、何の異常もない、なんの変化もない生活を送っていく。
そう考えると、急にまた、視界が揺らめいた。
あんなに好きだった、本から遠のいていった。
本の世界は明るくて、救われて、煌めいていた。
光は、闇を消し、新たに影を作る。影は絶対に光とは交わらない。どこまで伸ばしても、どこまで続けても…。
夜が長くなった。寝られなくなった。よく、こっそり家から出て、高台に上った。
車が少なくなったためか、昼より空気が爽やかだった。
真っ暗な中、街頭の明かりだけをあたりに誰もいない高台への坂道を踏みしきる。
何も考えなかった。何も感じなかった。街の明かりもなくなって、きれいに光る星空を見ても。
頂上まで登り切った時、僕は息をのんだ。大木の下に人影が佇んでいる。
空が少しずつ白んでいく。
人影がこちらの方を向いて、たじろぐのが分かった。
髪が体の揺れに合わせて揺れた。
輪郭だけだった人影は、空の薄い青に映えてその実態をあらわにする。
そこに立っていたのは、彼女だった。
あの時も彼女はきれいだった。
きめ細かな乳白色な肌で、それがまた、彼女の象徴ともいえる長く伸びた黒髪をより一層強調していた。
きれいな彼女の、表情は僕と同じものだった。何も感じていない。どこか遠くにある世界を眺めていた。
彼女には確かめてはいないが、たぶん彼女もなにかから逃げ出したんだろう。
抱いていた希望を失った。絶望した。そんな自分から逃げたかったんだろう。
それ以降、あの場所は彼女と僕との待ち合わせ場所になっていた。
会っても、たわいのない会話をするだけ、けど、僕たちには共通の読書という話題があった。
というか、それしかなかった。
彼女は会うたび、目元を隠すように俯いていた。目線を合わせないように。
僕は触れなかった。触れれなかった。触れたことで何かが壊れるかもしれないと思ったから。
ある日、彼女の頬には、白ガーゼが張られていた。いつものようにうつむいても、
彼女の小さな頬のためか、そのガーゼがやけに大きく見える。
僕がいぶかしげに、心配そうに見ているのを知ってか否か、いつも以上に優しく微笑みかけてくれる。
そんな彼女は、話していると、特に家族の話をしていると、彼女の目が群青色になる。
それが、嫌で、その話は避けている。
カノジョと出会った日から、僕の人生は少しずつ、でも明らかに変わっていった。
僕のいじめをしていた子たちが先生に叱られて、腹いせのためかより一層嫌がらせがひどくなってから、
受験のためか、飽きたのか、彼らからの嫌がらせは自然消滅した。
それから、公立の進学校へ進学して、学級長も任せられるようになった。
それに反して、彼女は、日に日に元気がなくなっていった。
なぜか彼女は、肌が出るような服を着なくなっていった。
ある日、いつもの他愛のない話や、優しい微笑みがなく、終始ぎこちなかった。
いつも優しかった彼女はどこか遠いところを見ながら突然言った。
「ねえ、私実はお母さんが再婚したんだ。そのお母さんの再婚相手はとてもやさしい容姿をしていた。
けれど、義父さんの職場をクビになった日から、すべてが変わってしまった。」
そういってから、彼女は一息ついてから続けて言った。
「開けてもくれてもお酒を飲んで、酔った勢いでお母さんと私に暴力を振るうようになってしまった。」
「義父さんに殴られたショックでお母さんは精神を病んで家事が出来なくなってしまったの。
それが困るからってお母さんに言ったら、お母さんなんて言ったと思う。」
彼女は誰に問いかけるでもなく、そして、決して答えを求めているわけでもなく自嘲気味に言った。
『あなたが悪いんだ。貴方さえいなければ、あんな男なんかと別れられたのに。
ああぁぁぁあ、あぁぁあ、お前なんか、お前なんか生まなきゃよかった。とっとと死ねばいいのに。』
僕は彼女の言葉を黙って聞いていた。
何も言わなかった。
何も言えなかった。
ただただ、彼女が言葉を紡ぐのを見るしかなかった。たとえ、彼女の居抱く思いが憤怒ではなく憐憫であると気づいていても。彼女は僕にそのことを言ったところで変わらないのを知ってて話している。
そのことに気づいていても何も言えなかった。ただ、彼女の言葉に耳を傾けることしかできなかった。
「そして、お母さんからなぜまでいるのかと言いたげな態度で接せられて家にいるのが嫌だった。」
そうか、あの日。僕と、彼女が出会った日、彼女はきっと……。
「私、君と初めて出会った日ね、死のうとしたの。高台に上ったら自分の家が見えて手を止めた。
そして気づいたの。私があのクズどものことを嫌いになれないことを。」
ただ、ただただ、純粋に彼女の母親の言う通りに、愛をもらった母に報いるように。
彼女は、脈打つ生命に終止符を打ちつけようとした。そこには彼女の意思も、希望もなかった。」
彼女は黒髪を揺らしながら、隠していた目線を交えながら言う。
「あの時、君が来ていなかったら、たぶん私とあなたはここにも、この世にもいない。」
「私はあの日から、明日が来てほしくなった。貴方に会いたいと思った。
生きているのがつらいけど、自分の意志で明日に期待した。」
そうして、彼女は僕の目を見たまま、しっかり見つめ合ったまま涙を流していった。
「もう少しだけ、あなたに期待しちゃってもいいかな。
明日がもっと生きやすく、楽しくなるような未来を私に与えてくれないかな。」
そう言った後、彼女は肩を揺らしながら泣いていた。顔を俯かせ、手で涙をぬぐいながら。
けれども、彼女の涙は止まることを知らず、彼女の細く白い腕を伝う。
何年間もため込んだ涙を流すように泣いていた。
僕はそんな彼女をそっと腕で引き寄せ、しっかり抱きしめた。
抱きしめて初めて気が付いた彼女のか細い体も、彼女の大事な未来を落とさぬように、しっかりと抱きしめた。僕の腕の中で彼女は慟哭した。自分の居場所を知らしめるように、確かめるように。
彼女が落ち着きを取り戻したときにはもうすでに太陽が沈みかけ、
空はオレンジや、朱色、群青、紫のグラーデションが彩っていた。それぞれの境目は明確なようで曖昧だった。
僕の腕の中で小さくなっている彼女に向かって、優しく、語り掛ける。
「僕、君が好きだ。僕は必ず君を幸せにする。もう二度と、君のこんな姿を見たくない。
これまで辛かった分、いや、それ以上に君の未来を明るくする。」
僕は自分自身にも誓った。今腕の中でしおらしくなっているこの子を、自分の好きな人を必ず幸せにする。
「だからさ、笑ってよ。いつもみたいに優しく、微笑んでいてよ。ただ、それだけでいい。」
そういうと、彼女は驚いたように僕の方を向いて、まだ涙のたまったままの顔で微笑みかけてくれた。
いつもみたいに、余裕のあるような、深い温かさはなかったけれども、彼女の心がそこにはあった。
高台 じゆ @4ro
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