第4話

 九月に、新潟空軍学校二期目で初めて単独飛行を許可されるパイロットが選出された。

「大したもんだ、田中少尉」

 浅川大尉にウイングマークを授与されて、席に戻ってきた蒔絵に俺たちは惜しみない拍手を送った。

「あ、ありがとう……」

 真っ赤な顔をした蒔絵は、やっぱり嬉しそうだった。

 正直、脇腹の傷から再出血しかねないほど悔しくもある。だがそれ以上に、日本史上二人目の女性ファイターパイロットを賞賛する気持ちが強い。今期初の正規パイロットが、俺たち十六歳組の中から選ばれたことを誇りに思う。

 俺たち四人の中で最初にF―2のパイロットシートを獲得するのが蒔絵なのは順当だと言える。だが、他に五人、最年長三十歳のパイロット候補生を抑えてのウイングマークだ。

 その五人は、やはり悔しそうでもある。だが、笑顔で拍手を送ってくれていた。前に俺たちに絡んできたような、性根の卑しいパイロット候補生はもう一人もいない。そう言う人間は、操縦技量以前の問題で、必ずエリミネートされるものだと言うことを、俺たちも知っていた。

 蒔絵は正規パイロットになり少尉の階級を得た。だがしばらくは、スクランブル要員には組み込まれずに訓練を続ける。

 とは言え、状況によっては戦場の空へと駆り立てられると言う点で、蒔絵は完全な正規パイロットだ。蒔絵は死の空へと飛び立つ。

 畜生。やっぱり悔しいな。最前線を飛ぶのは、俺でなくてはいけないのに。

「堂々のデルタ28だな。おめでとう、蒔絵」

 俺は悔しさをこらえて言った。

「うん……」

「蒔ちゃん、ウイングマーク見せて! うわ、ぴっかぴか!」

「ちょっと、あんまりべたべた触らないでよ! 指紋が付いちゃう!」

 みんなで笑った。

「さて、祝賀会なんかの打ち合わせはあとにして頂戴。田中少尉も、まだまだ絞り上げてあげますからね」

「はい!」

 浅川大尉の言葉に、蒔絵が元気よく答えた。

「デルタ28が飛んだな……」

 俺たち三人は滑走路の端に立って、蒔絵が初めて単独離陸するのを見送った。F―2B型の離陸はこのあとで、俺たちの順番はまだ先だ。

「くそっ! くそっ! やっぱり悔しい! 羨ましい!」

 延岡が拳と掌をばんばんぶつけていた。

「そうだな」

 俺も意識して抑えていないと、声に悔しさがにじみそうだった。

「でも、蒔ちゃん……これから本当に、生きるか死ぬかなんだね……」

 みちるが切なそうに言った。

「ああ。蒔絵はもう誰にも助けてもらえない。訓練中だろうと、ワンミスで死ぬかもしれない。……やっぱりすごい女だな、蒔絵は……」

 蒔絵は俺の憧れ。だが、追いついてみせる。必ず。

 この日の訓練は、ものすごく気合いが入った。

「そうか、これから田中は一階カフェなんだな」

 昼飯時に、延岡が言った。

「ああ。いつお呼びがかかるかわからないからな」

「……ちょっと寂しいね」

 みちるが言った。

「そうだな。だが、俺たちもすぐに下りるさ」

 ……ん。また焦れてきたな。

「海彦」

 訓練後のブリーフィングが終わったあとに、蒔絵に呼び止められた。

「ああ」

 だが、蒔絵はしばらく黙ったままだった。

「泉。俺は先に部屋に戻ってるぜ」

「わかった」

 俺は延岡に言われて返事をした。みちるも先にブリーフィングルームを出た。

「……あの。車、出してもらえない?」

「車? ああ、祝賀会か? ……え、今からか?」

「そう」

 俺は驚いた。正規パイロットになった蒔絵が、そんな簡単に休みをもらえるとは思えないが。

「泉」

 三木中尉が近づいてきて、車の鍵を俺に向かって放った。俺はそれを受けとめた。

「俺の車だ。黒のRX―7セブン。コクピットシートが赤のセミバケットだからすぐわかる。ああ……ガソリンはどうだったかな? ハイオク仕様だぞ、間違えるな」

「あの……」

 俺は戸惑った。

「浅川大尉から、あたしたちの外泊許可はもらってるの」

 蒔絵はうつむき加減で言った。

「外泊?」

「上越と、それから糸魚川まで行ってほしいの」

「県境までか?」

 確かにそれだと、今から行って戻ると門限時刻に間に合わないだろうから、外泊許可は必要になるが。……いや、そうじゃなくて。

「あたしたちって……延岡たちは?」

「海彦とあたしの、二人で……」

 俺は仰天した。いったいなにごとだ?

「事実だ。おまえたち二人の外泊許可は下りている。明日の起床時刻までに戻ってくればいい。気をつけて運転しろよ、貴重な初期型FDだからな。ま、飛ばしたくなる車だからそれならそれでいい。じゃあ、二人でゆっくりしてこい」

 三木中尉も出ていった。

「その……」

「……ごめんなさい。勝手なことして。でも、お願い。あたしを連れて行って」

 俺は少し考えた。

「ああ。だが、延岡にはなんて言えばいい?」

「できれば、なにも言わないで……」

 ばればれだと思うが。

「わかった。着替えてくる。玄関で待ってるよ」

「うん」

 俺たちはそれぞれの部屋に帰った。

「ただいま」

「おう。どうした?」

 延岡が漫画から顔を上げて聞いてきた。

「俺は外で飯を食ってくる。遅くなると思う」

「そうか」

 延岡はそれ以上なにも言わなかった。

 俺はジーンズに履き替えた。

 玄関で待っていたら、とてつもない美少女がやってきた。

「ああ……その……き、きれいだな」

 ずいぶんめかしこんできたな、と言いかけてやめた。

「ありがと……」

 蒔絵が赤くなった。

「じゃあ、行くか」

「うん」

 三木中尉はすぐ見つかると言ったが、新潟空港の駐車場は広すぎた。

 俺はやっとセブンを見つけて走らせ始めた。

「どこに行けばいいんだ?」

「上越に、とっても美味しいお寿司屋さんとラーメン屋さんがあるの」

「聞いたことがあるな。ラーメン屋は、あごすけだったか?」

「そう。あと、富寿し」

「万代にも支店があったよな」

「うん。でも、高田のお店で食べたくて」

「わかった。高速は使うか?」

「できたら、下道で……」

「ああ」

 実際ガソリンが少なかったので、セルフのガソリンスタンドでハイオクを給油した。

「……なるほど。これは飛ばしたくなるな」

 アクセルを踏み込むと、ターボタービンの吸気音がすごい。

「海彦も、スポーツカーが好き?」

「うーん……そうでもないかな。LAVの方が好みかもしれない」

 セブンもスポーツカーらしくスパルタンな印象があるが、軍用車両はそれをはるかに上回る。そして戦闘機のコクピットは、操縦以外にできることはなにもない。

「軍人よね……あたしたち」

「そうだな」

 俺はしばらく黙って車を走らせた。

「あ……原発」

 蒔絵が言った。曲がりくねった海岸道路の先に、柏崎刈羽原発が見える。外から見る分にはただのコンクリート造りの工場かなにかにしか見えないが、内部でうずまく放射能を考えると不気味にも思える。

 原発に近づくと、道路は陸側にカーブする。防風林なのか、本当に原発を見えないようにするために植えたのか、林に隠れて原発は見えなくなる。

「あっ、戦車がいる」

 また蒔絵が言った。原発入り口の道路のところに、七四式戦車一台と複数の装甲車、そして八九式小銃を持った歩兵が多数いた。

「特殊作戦群あたりに突入されて、メルトダウンを起こす暇もなく制圧されるのが最悪のシナリオだろうからな。林の中にも巡回している兵士がいるだろう」

「うちの陸軍にも、レンジャーとか第一空挺団からきてくれた人たちがいるわよね?」

「彼らも精鋭だが、Sとは性格が違う。対テロをメインにした特殊部隊だ。建物内の武装集団制圧は、お手のものだろうな」

「陸軍も、がんばってくれてる……」

「俺たちと同じ十五歳で徴兵された少年少女兵はもう実戦に投入される頃だろう。機甲部隊で封鎖している幹線道路なんかより、山麓部での地上戦が激化しているって聞くな。陸軍兵は、俺たちよりはるかに実戦に晒される機会が多いはずだ」

「あたしたちも、爆撃なんかで援護できたらいいのにね……」

「新潟空軍はなにしろ数が少ないからな……要撃任務で手一杯だ。だが、空自がうちの陸軍兵の頭に爆弾を落とそうとでもしたら、俺たちが絶対に阻止する」

「そうね。……あーん、もう」

 蒔絵が両手で顔を覆った。

「なんだ?」

「今日は、戦争の話はしないって決めてたのに……」

「……悪い。俺が特戦群の話なんか持ち出したからだな」

「まあ、仕方ないけどね。原発の前を通るんじゃね」

 蒔絵はふうっと息をついた。

「……ねえ、海彦。お腹空いた?」

「ああ、けっこう減ってきたな」

「じゃあ、ラーメン食べてすぐにお寿司も余裕ね?」

「いける。そう言う順番か」

「だって、お寿司があとならお腹の具合で調整できるでしょう?」

「ああ、そうか。それはそうだな」

「じゃあ、飛ばして、海彦」

「この車、けっこう挙動が繊細なんだぞ……」

 だが、俺はアクセルを踏み込んだ。

「なにが美味しいんだ?」

 ラーメン屋あごすけに着いて蒔絵に聞いた。

「海彦は初めて?」

「ああ」

「じゃあ、まずは塩らーめんね」

「へえ。俺、あんまり塩って食べたことがないな」

「あたしは黒とんこつにするから、分け合いっこしましょう?」

「いいな」

 注文をして、水を飲みながら待った。

「……なんだか」

 俺は少し頭がぼうっとしていた。

「デートでもしてるみたいだな」

 蒔絵が目を見開いた。

「……デートよ。気づいてなかったの?」

「そうだったのか……なんだか現実味がなくてな」

 俺こと泉が可愛い女の子とデートとか。

「……迷惑だった?」

 蒔絵がどこか気弱げに言った。

「そんなわけがない。夢見心地だ。ただ、まあ、俺にも色々あるからな」

「うん……」

 ラーメンがきた。

「……ん? 美味しいな、これ」

 考えてみたら、塩ラーメンはチャルメラの袋ラーメンくらいでしか食べたことがなかった。あれはグルタミン酸まみれだ。

「そう? よかった」

 蒔絵が微笑んだ。

「スープは透明だけど……なんて言うか……」

 俺の語彙では言い表せなかった。

「……あたしも食べたくなっちゃった。取り替えっこしない?」

「ああ」

 今度は黒とんこつと言うのを食べた。

「おお、うまい。こっちも美味しい」

「男の子はそっちの方が好きかもね。あと全部食べていいわよ」

「いいのか?」

「あたしはやっぱり塩の方がいいみたい」

 蒔絵が笑った。

 会計で、蒔絵が

「ごちそうさま、美味しかったです」

 と言うと、会計した店員さんが

「お客様から美味しい頂きました!!」

 と大声を上げて、今度は厨房から

「ありがとうございました!!」

 と大声で返された。なんだか楽しそうで、思わず笑ってしまった。

「面白いところだな。いや、美味しかった。俺の分はいくらだ?」

 会計は蒔絵がまとめてすませていた。

「車を運転してもらってるし、いいわよ」

「そう言うわけにはいかない」

「そう言うと思った。じゃあ、六五〇円」

「ああ。……細かいのがないな。悪い、あとで」

「うん」

 俺たちは車に乗った。

「えーと……次は高田だったか?」

「うん。高田駅前」

 俺は車を走らせ始めた。もう外は暗くなっていた。

 富寿しに着いて、俺と蒔絵はカウンター席に座った。カウンターと言っても回転寿司とはわけが違い、俺は妙に緊張した。

「すいません。おまかせでお願いしたいんですけど、あたしたちさっきラーメン食べてきちゃって。途中で止めさせてもらってもいいですか?」

「はい、わかりました。じゃあ、特に活きのいいのからお出ししますね」

 板前さんがにっこり笑った。

「慣れてるな……」

「さっきからずっと頭の中でシミュレーションしてたのよ」

 蒔絵が笑った。

 寿司もものすごく美味しかった。値段もすごかったが。

 富寿しを出る頃には、門限時刻を過ぎていた。まあ、このための外泊許可だ。

「次は糸魚川だったよな。またなにか食べるのか?」

「もう無理。親不知まで行ってくれる?」

「ああ」

 俺も蒔絵にとことん付き合うと決めている。俺はまた車を走らせた。

 親不知海水浴場の駐車場に車を止めて、誰もいない砂浜を歩いた。

「……なにも見えないわね」

「さすがにな」

 波の音は聞こえるが、どこが砂浜と波打ち際の境なのかもわからない。

 砂浜に並んで立って、しばらく波が寄せては返す音を聞いていた。

「……なにも聞かないのね」

「なにが?」

「どうして今日、海彦にここまで連れてきてもらったのか、ってこと」

「さっぱりわからないが、俺は蒔絵の要望に応えるまでだ。どこまでも」

 いきなり蒔絵が俺に抱きついてきた。そして、俺にキスをした。俺は硬直した。

 蒔絵の唇が離れた。正直、それがどんな感触だったのかも俺は思い出せなかった。

「……どこまでも? 本当に?」

「……」

 俺は頭の中が真っ白になっていた。

「あたしは海彦が好き。大好き。愛してる」

 また蒔絵が俺にキスした。相変わらず、なにが起こっているのかわからなかった。

「……ごめんなさい。こんな大切なことで、海彦の言葉尻を捕らえるようなことはしないわ。したくない」

「……俺は……」

「……ねえ。車に戻って話さない?」

「……ああ」

 俺はようやく言った。車に向かって歩きながら、蒔絵が俺の手を握ったが、俺は逆らわなかった。

 俺たちは車内に戻った。俺は多少落ち着きを取り戻した。

「……コーヒーでも飲みたいな……」

「駄目。この話が終わるまではどこにも行かせない」

 俺はため息をついた。

「……やっぱり、迷惑……?」

 車内に入っても、真っ暗なのは相変わらずだ。蒔絵がどんな顔をしているのかさっぱりわからない。

「いや、そんなことはない。光栄だよ。だが、俺は……」

「海彦は恋人を作れない。そんなことをしたら、殺される」

「ああ……延岡に聞いたのか?」

「うん」

「そう言うことだ。この俺、泉海彦には、恋人を持つ自由なんかない」

「海彦を困らせているのはわかってる。でも、あたしは、本当に、海彦のことが好きなの」

「俺……俺だって……」

 その先は、言葉にはできなかった。

「ずっとずっと、好きだった」

 女の子からこんなに何度も好きだと言ってもらえることなんて、俺の残りの人生にはないだろうな。

「ずっとって……最初は嫌われていたと思ったが」

「あの時は……ごめんなさい。でも、一緒に訓練をしていれば、海彦がどんな人かなんてすぐにわかった。それに……海彦が。あたしたち四人で空を飛びたいって言ってくれた時。海彦が、あんなにひどいことを言ったあたしたちのことも、とっても大切な仲間だと思ってくれていることがわかって。それで……もうとっくに、あたしは海彦のことが好きだったんだってことを、思い知ったの」

「ああ……あれは、俺にとってなによりも大切な約束だ」

 俺たちは同じ空を飛ぶ。死の空を。戦場の空を。

 蒔絵が助手席から身を乗り出して、また俺にキスをした。蒔絵とのキスがとても素敵なものであることを、ようやく俺は感じ取った。

「しかし……」

「お願い。もう少しだけ、あたしの話を聞いて」

「……ああ。いや、いくらでも」

「どうしてあたしが今日、こんなに強引に海彦を連れ出したか、わかる?」

「いや」

「あたしは今日、初めて一人で空を飛んだわ」

「ああ。当然だとは思うが、脇腹からまた血が出るかと思うほど悔しくもあった」

 蒔絵が少し笑ったように思えた。

「単座型戦闘機のコクピット。あそこはね、完全無欠の断絶なの」

「断絶?」

「そう。生きるも一人、死ぬのも一人。他とのつながりは無線だけ。翼が触れるほどの距離に近づいても、手は届かない。温もりは得られない。絶対の孤独。戦闘機パイロットだけしか知ることのできない、小さな小さな一人だけの世界」

「……」

 俺には。まだ、その世界のことはわからない。

「あたし、浅川大尉を本当に尊敬するわ。戦闘機のパイロットシートは、女一人でいるには寂しすぎるのよ。あたし……このままだと、絶対に耐えられない」

 蒔絵の弱気を、俺は初めて聞いた。

「俺は、女の方が男よりはるかに強いものだと思っていた」

「そうかもしれない。でもあたしは今日、一人で空を飛んでいる間中、ずっと死を感じていた。そして……ずっとずっと、海彦を想い続けていた。あたしが空を飛べる理由は、もうそれだけ。海彦だけなの」

 俺はもう、がむしゃらな衝動に駆り立てられて、蒔絵を抱き寄せてキスをした。

「嬉しい……」

 蒔絵の温かな吐息を、俺は感じた。蒔絵は生きている。俺には、この瞬間、それがなによりも大切なことに思えた。

「……悪い。俺からキスをしておいてなんだが……少しだけ、考えさせてくれ。頼む」

「……」

 蒔絵は、しばらく無言だった。

「……どれくらい?」

「三分間」

 蒔絵がくすっと笑った。

「そんなに短くていいの?」

「三分で決められないなら、一晩考えたって決まらない」

 蒔絵がまた笑った。

「それって、海彦の人生訓?」

「まあな」

「わかった。はい、三分間スタート」

 蒔絵がおどけて言った。俺たちは、それぞれのシートに背中を預けた。

 蒔絵のことを考える。そして、一応みちるのことも。今の俺が惚れるとしたら、この二人以外にはありえないからだ。

 俺は、本当に必死に考え、自問自答した。そして……答えを得た。

「……よし。いいぞ」

 俺は言った。

「びっくり……本当に三分ぴったりね」

 蒔絵は腕時計を外に向けて、かすかな明かりで秒針を眺めていたらしい。

「俺のあんまり役に立たない特技だ。ストップウォッチの表示を見ずに、一分間を百分の五秒以内で止められるんだ。……いや、今はそんなことはどうでもいいな」

 俺は助手席の方を向いて、蒔絵の肩に手を置いた。

「蒔絵。俺は蒔絵が好きだ。背中から撃たれてもかまわないくらいに。だから、付き合ってくれ」

 蒔絵が抱きついてきた。

「はい……ずっと、ずっと一緒よ……」

「ああ。死が二人を分かつまで」

 蒔絵がくすくす笑った。

「結婚するみたい。でも、あたしたち戦闘機パイロットならその覚悟がいるわよね。海彦、死ぬまで離さないから」

「ああ。もちろんだ」

 蒔絵がなにかごそごそ体を動かし始めた。

「……なにしてるんだ?」

「服を脱ごうと思って」

 俺は仰天した。

「なんで!?」

「だってあたしたちもう結婚したも同然でしょう? あたしの処女を海彦に捧げるの」

「待て待て! そんな急に!」

 俺はあわてた。

「……だって。明日には、あたしは死ぬかもしれないのよ?」

「……」

 蒔絵の声は、本気だった。

「今この時を、逃がすわけにはいかないの。だから、海彦に後戻りできないところまでこさせたの。……それとも、海彦は、あたしみたいな胸の小さい女の子は嫌……?」

「ふざけるな。蒔絵は、胸の大きさで女の子を選り好みするような男に惚れたとでも?」

「……そんなこと、思ってない」

「俺だって蒔絵を抱きたい。わかった。だが、車の中でなんか嫌だ。ラブホテルも。普通のホテルがいい。まあ、ビジネスホテルでも」

「……うん。わかった。海彦、あたしを連れて行って」

「ああ。上越駅の近くまで行けば、ホテルがあるだろう」

「お願い」

 俺は車のエンジンを始動させた。そして、車を走らせた。


「泉。ゆうべ、朝帰りだったな」

 空港二階カフェで朝飯を食べながら延岡が言った。朝部屋に帰った時にも言われたので、二度目だった。一度目は、俺はなにも言わなかった。

「……蒔ちゃんも」

 みちるが俺をじーっと見つめていた。蒔絵がいないので、俺一人で矢面に立つことになる。

「蒔絵と二人で上越、糸魚川まで行ってきた。帰りにホテルで休んできた」

 俺はなるべく平然と答えた。俺たちの付き合いを、秘密にするつもりはない。

「ほっほう」

 延岡が変な声を出した。なんだそれは。

「ホ、ホ、ホテル……」

 みちるが真っ赤になっていた。

「女は作らないんじゃなかったか? 背中から撃たれるとか」

「腹を括ったよ。脇腹は先月撃たれたしな」

「……そういや、あの頃から田中は怪しかったな」

「あ、そうそう。そうだったね。じゃあ、蒔ちゃんから告白されたの?」

「いや、俺から」

「ほほーう?」

 だからなんだ。

「見上げたやつだ。女に恥はかかせないってわけだな」

「……」

 気心が知れすぎていると言うのも、問題があるな。

 夕飯後に、耐Gスーツを着たままの蒔絵が二階カフェに上がってきた。

「おい、いいのか?」

 正規パイロットは普通一階から離れない。

「うん、あたしはまだスクランブルに組み込まれてないからいいって。……あの、気を使ってもらったんだと思うけど」

 蒔絵が俺たちの席に座った。俺たちは食後のコーヒーを頼んだ。

「なあ。泉から告白したってのは、本当か?」

「まさか。海彦の頑固っぷりは知ってるでしょう。もう、必死で口説き落としたんだから」

 俺は冗談抜きで飲みかけのコーヒーを吹き出した。

「蒔絵……」

「せっかくの泉の格好つけが台無しだな」

 延岡がげらげら笑った。

「ああ、海彦から告白してくれたことにしてたの?」

 蒔絵が笑った。

「……いや、実際、最後は俺が付き合ってくれって言って、蒔絵が受けてくれただろう」

「最後はね。そこまでいくのに大変だったんだから。あたしからのキスと好きの嵐」

「キ、キ、キス……」

 みちるがまた真っ赤になった。

「キスと好きの嵐。なんかのキャッチコピーみたいだな」

 延岡が重々しく首をひねっていた。キャッチコピー?

「ねえねえ、蒔ちゃん。初めて、どうだった? 海彦、優しくしてくれた?」

「待て、みちる! おまえ、それがキスで真っ赤になってた女の子の言うことか!?」

 俺は大声を上げた。延岡が真っ赤になってうつむいた。

「うん、すごーく。とっても素敵だったわ」

「やめろ、蒔絵!!」

 カフェにいる、五人のパイロット候補生たちがげらげら笑っていた。

「お、いたな」

 カフェに三木中尉がやってきた。

「田中。引っ越しの件、手続きはすんだ。まあ簡単なものだけどな。そいつら使って、今日中に荷物を運べ」

「はい」

「引っ越し?」

 みちるが首を傾げた。

「うん。ごめんね、ちるちる。あたし、一階の空き部屋に移ることにしたの」

「えー!? ……あ、そっか。蒔ちゃん、正規パイロットなんだもんね……」

 みちるが寂しそうにうなずいた。

「んじゃ、野郎で一気にやっちまうか」

 延岡が立ち直っていた。

「ああ」

「おまえの荷物もだぞ、泉。二人で暮らす話も、オールオッケー。ゴーゴーだ」

 三木中尉がわけのわからないことを言っていた。

「は? 俺、ですか?」

「そうだよ。未成年同士の同棲だから、一応司令にまで話を通した。貴重な戦力だから、いきなり子供ができないといいなあって笑ってたけどな」

「ど……同棲!?」

 俺はまた大声を上げた。

「……なんだ? 田中、泉に言ってなかったのか?」

「あ、はい。もう海彦には拒否権はないと思ったものですから」

 三木中尉が腹を抱えて笑いだした。

「泉、めちゃくちゃ尻に敷かれてるな! いやはや、お気の毒に。ま、我が空軍学校二輪の花の片方を摘んだんだから、やむをえんな。ま、頑張れ」

 三木中尉は笑いながら去っていった。

「同棲って……いったいどう言う……」

 俺は呆然として言った。

「だってあたしたち、もう結婚したようなものでしょう?」

 蒔絵が澄まして言った。ゆうべも同じことを言っていたな……。

「それにしても……一言くらい相談を……」

「先に言ったら、海彦嫌がるに決まってるんだもの」

「うえ、思いっ切り外堀から埋められたな、泉。……ここまでくると、羨ましいんだかなんだかわかんねえな」

「け、け、結婚……」

 またみちるが真っ赤になっていた。もう、みちるの赤面基準がなんなのかわからない。

「……まあいい。泉の荷物なんか布団以外ないも同然だからすぐだ。ほれ、行くぞ」

「あ……ああ……」

 俺は延岡に促されて、ようやく立ち上がった。

「あたしらも行こっか」

「うん」

「ああ、田中の荷物はまとめるだけでいいぞ。運ぶのは俺らでやるから」

「ありがと」

 俺たちはそれぞれの部屋に戻った。

「……なあ、泉」

 布団をたたみ、適当な段ボール箱に俺の荷物を詰め込みながら延岡が言った。

「ああ」

「正規パイロットになったから一階に移るのなんて口実で、泉と二人で暮らすのが田中の本命だったんじゃねえか?」

「なんか……そんな気もする……」

 俺はうめいた。

「……そんなによかったのか? セックス」

「聞くな!」

 俺は叫んだ。

 九時過ぎには引っ越しが終わった。まあ、ただ二階から一階に荷物を移しただけだ。

「じゃな、お二人さん」

「お幸せにねー」

 延岡とみちるが帰っていった。二人きりになった。

「……怒ってるの、海彦」

 蒔絵がこわごわと聞いてきた。今さらだった。

「いや。俺だって、できるだけ蒔絵と一緒にいたい」

「……うん」

 蒔絵が寄り添ってきて、キスをした。

「……しかし。万が一俺がエリミネートされたら、ここを追い出されるんじゃないか?」

「そんなの絶対駄目!」

 蒔絵が叫んで抱きついてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る