戦場の空に
sudo0911
第1話
「思えば遠くへきたもんだ」
俺はマスクの中で思わずつぶやいた。
日本の首都東京の高層ビル群が、前方眼下に見える。戦闘機から視認できると言うことは、もう目と鼻の先だ。
驚いたことに、中空エリア(関東地区)にある茨城県百里基地からの要撃機の出撃は未だに確認されていない。平和惚けも極まれりだな。二年前の恫喝と惨劇をもう忘れたのか。
俺たちの
『遠い? 馬鹿言うな。戦前なら新幹線で新潟・東京間二時間。F―2ならあっという間だっただろう』
俺の独り言を聞きつけて、デルタ5が言った。彼は二十二歳の時に当時最速でウイングマークを授与された、若いが極めて優秀な戦闘機パイロットだ。
「知ってますよ。俺も小学生の時に乗りましたからね」
『デルタ5、デルタ11。デルタ1だ。私語は慎め。目標至近だぞ』
隊長に怒られた。
『デルタ2よりデルタ1。JDAMがあれば楽なんだがな』
副隊長がぼやいた。JDAMはGPS誘導の精密爆弾だが、俺たち新潟空軍は手に入れることができなかった。
『デルタ1だ。陸軍はよくやってくれている。小松基地を襲撃した陸軍部隊は全滅させられた。県境を越えての物資奪取は無理だ。仕方ない』
隊長は十人全員に言っていた。みんなわかっている。新潟陸軍も熾烈な戦いを繰り広げている。俺たち空軍パイロットなんか楽な方だ。贅沢は言えない。
たとえ帰還できる見込みのまったくない作戦だとしても。
俺たちは新潟空軍に残された最後の航空戦力、F―2戦闘機十一機で日本国首都東京への爆撃を敢行する。目標は衆議院国会会期中の国会議事堂、首相官邸、霞ヶ関中央官公庁ビル群、及び東京都庁。
必要とあれば、俺たち十一人は誰もが目標に向かって特攻するだろう。9・11の再来。だが俺たちはテロリストじゃない。軍人だ。
これは戦争だ。新潟と言う国と、日本と言う国との。日本人は、誰も認めたがらないようだが。
『おい、誰か神風特攻隊歌えないか?』
『長渕剛のか? 馬鹿抜かせ、そんなの聞かされたら死にきれない』
『特攻とか縁起悪すぎだろ。俺はまだ咲のママを口説き落としてないんだぜ』
『咲のママっておまえ、二十は年上だろ』
『そこまでじゃない。独身だってな。まあ美人だよな』
『そういや、こないだ拳銃の実弾射撃訓練で可愛い
『またかよ。年下を俺色に染めたいってか? 前に女鬼軍曹に殺されそうになっただろうが』
『なんでみんなうちの
『絶対数が少ないから競争率激しいよな』
『成功率が低いとやめるのか? おまえ、本気で女を好きになったことがあるのか?』
みんな無線コードも無視して好き勝手に喋り始めた。副隊長までもだ。隊長ももう止めなかった。
みんなわかっている。次の一言が、自分の人生最後の言葉になるかもしれない。それが与太話で終わると言うのも、悪くない気がする。
俺は。どんな言葉を、最後に口にしよう。誰もそれを彼女に届けてくれる人はいないだろうが。
『デルタ11、おまえにはえらい可愛い彼女が――』
『馬鹿野郎、やめろ!』
デルタ5が怒鳴って、急に静かになった。
あまりにも沈黙が続くので、気まずくなってきてなにか言おうと思った。
「俺は……」
言葉に詰まった。脳裏に浮かぶ、彼女の姿。彼女の声。彼女の匂い。なにもかもが愛しかった。
「……十分、いい目を見させてもらいましたよ」
精一杯ふざけた声色で、そう言った。
『デルタ1より編隊各機』
隊長の厳しい声が聞こえた。
『これまでのところ要撃はなく、作戦は当初計画通り遂行する。各機担当の目標へ向かえ』
とは言え目標はほぼすべてが密集しているようなものだ。俺とデルタ10が担当の東京都庁でさえ、他との距離は五キロメートル程度だ。俺とデルタ10はほんのわずかに進路を修正した。
『全機必ず生きて戻れ。帰ったら咲で奢ってやる。デルタ10とデルタ11はまだ未成年だが気にするな。ああ、ママを口説けるどうかは保証しない。いいな?』
『了解』
全員が答えた。もちろん俺も。俺たちは烏龍茶でも飲んでいるか。すごく美味しい烏龍茶になるだろうな、と俺は思った。
それも生きて戻れたら、だ。そうできたら、どんなにいいだろう。俺は今、すごく彼女に会いたかった。抱き締めたかった。キスをしたかった。
だが、どんなに手を伸ばしても誰にも手が届くことはない。戦闘機のコクピットは、完全無欠の断絶だ。
『デルタ11』
デルタ10が俺を呼んだ。そしてそのまま黙った。
「なんだ、デルタ10」
デルタ10がなにも言わないので、俺は真横を並進中の僚機のコクピットを見た。ヘルメットとバイザー、マスクのために表情は見えない。
デルタ10は拳を上げて、親指を立ててみせた。俺もサムズアップを返した。それから、デルタ10の後方に回った。
『デルタ1より編隊各機。百里基地から要撃機がスクランブル発進した。だが間に合わない。各機目標を破壊し帰投せよ』
俺たちの死刑執行命令書にサインがされた。
目標は破壊する。必ず。それを阻止することは、今さら発進した要撃機にはできない。
だがそのあとは、
百里基地には元々
F―2同士なら当然互角だが、温存しているつもりらしい。あげく、百機以上のイーグルを撃墜されているわけだから、空自……ではなく、日本政府の考えることはわからない。
最新鋭ステルス機の
だが、今の俺たちはもうイーグルにさえ太刀打ちできない。俺たちのF―2だって十分に高性能だが、今は空対空ミサイルが装備されていない。この二年半の戦争で撃ち尽くして、もうミサイルがなかった。
対空兵装は二十ミリバルカン砲が一門だけだ。イーグルは四十年前の機体だが、空対空性能は今なおF―2と互角。最新鋭の空対空ミサイルで武装した相手にドッグファイトで勝てる見込みはない。
唯一有利な点があるとすれば、空自機は人口密集地の上空で俺たちを撃墜することはできないだろうと言うことだけだ。
それも俺たちがうまく越後山脈まで逃げ戻れたところで終わる。空自機は容赦なく攻撃を加えてくるだろう。新潟県内の人口密集地にたどり着いても、同じだ。彼らが俺たちを逃がすはずがない。
『デルタ10、エンゲージ。マスターアームオン』
デルタ10のコールが聞こえた。相変わらず目がいい。視力の数値なら、俺の方が上なんだが。
「デルタ11、
東京都庁の特徴的なツインタワーを俺も確認した。まったくもって9・11を彷彿とさせるが、マンハッタンの世界貿易センターと違い、下部の構造体は接続されている。俺たちはそこを狙う。
『デルタ11のアメリカかぶれ』
デルタ10が笑いながら言った。
「うるさい。デルタ10もだろう」
俺は言い返した。同い年なので俺も気安い。
『デルタ10、目標近づく』
十一機すべてのパイロットのうち最も歳の若い十七歳の俺たち二人が爆撃の先陣を切る。士気のためにも失敗するわけにはいかない。
F―2に搭載されているのは無誘導のMk82・五百ポンド爆弾。NOEで接近したため急降下爆撃はできないが、投下タイミングはコンピュータで自動計算されるため、水平爆撃で問題ない。
しかも、首都東京中枢にここまで近づいても対空砲火がない。どうも、日本政府には戦争をしているという自覚がないらしい。
つまり、好きなだけ低高度からの爆撃ができると言うことだ。高度が低ければ低いほど、風などの影響が最小限になり、水平爆撃の精度は上がる。
もっとも、たとえ対空砲火があったとしても、低空水平爆撃を行うことに変わりはない。爆撃の成功だけがすべてだ。隊長の言葉とは裏腹に、俺たちの安全と生命など考慮されていない。
だが、俺たち十一人のパイロットの命で日本政府の譲歩が引き出せるなら安いものだ。この戦争における最悪のシナリオだけは、俺だって避けたい。
F―2一機につきMk82が十二発。デルタ10と合わせて二十四発。合計一万二千ポンド、五トン以上の爆弾を東京都庁に叩き込む。十分に倒壊させられるだろう。
俺はいったい何万人を殺すことになるのか? 今さら考えても仕方ない。俺の手はとっくに血まみれだ。
最後の言葉。なにも思いつかない。いや、彼女にはもうなにもかも伝えた。言い足りないことなんかなにもない。
照準器を睨みつけ、東京都庁下部に狙いを定める。デルタ10、デルタ11の
俺はトリガーに指をかけて、デルタ10の声を待った。
俺はそれなりにきつい中学生活を終えた。新潟においても、一応義務教育制度は維持されている。
だが、高校に行く自由はない。中学を卒業すると、全員が兵役適性検査を受ける。男女平等に。つまり、新潟では徴兵制度が敷かれている。
もっとも、女子の多くは戦闘員にはならない。生理と言うものは、男の想像を絶するほどきついものがあるらしい。
ただし俺の場合、たとえ兵役に不適格と判断されても、志願して戦闘員になる必要があった。
俺は裸眼での遠近視力が2.0以上、それから虫歯が一本もないと言うわりと珍しい身体的特徴のために、新潟空軍の戦闘機パイロット候補生になった。
視力は矯正、虫歯は治療がされていればパイロットとして問題はないが、いいに越したことはない。
新潟空軍学校――新潟空港の地上設備の一部に置かれている――での初ブリーフィングで、俺は新潟の
一年前に新潟入りした時から一階級昇進した
各種メディアで目にしたことはあるが、空恐ろしいほどの美人だった。メディアでよく見るように、長い髪を制帽の中にきれいにまとめている。女性のうなじと言うのは美しいものだな、と初めて思った。
ブリーフィングルームにいる、上は三十歳から下は俺たち十五歳までのパイロット候補生二十八名の前で、浅川大尉は堂々と話をしている。訓練内容は非常に厳しいもののようだ。適性を欠くと見なされれば、即座に
初ブリーフィングが終わり、今後は浅川大尉を主任教官として訓練が行われる。やはり空港内にある部屋に帰ろうと立ち上がったところで、声をかけられた。
「
女子二人が近くにきていた。新潟軍全軍がそうであるように、左の上腕にまだ色鮮やかなオレンジの腕章をしている。もちろん俺も着けている。
軍服は、ただの戦闘服ではない。自らの所属する陣営を明確にするものだ。誰が敵で、誰が味方か。新潟軍と自衛隊は基本的に同じ制服を使用しているから、腕章によって区別する。
新潟軍を示すオレンジは、もちろん地元プロサッカーチームに由来するものだ。戦時中の新潟においても、アルビレックス新潟は存続しJリーグで戦っている。俺も試合の中継はよく観る。
「俺だよ」
声をかけてきた女子は今期二人だけの女性パイロット候補生で、俺と同じ十五歳。
今期が新潟空軍学校の二期目で、一期に女性はいなかったから、この二人が空軍学校初の女性パイロット候補生になる。
一人は身長一七〇センチくらいで俺とほぼ同じ。もう一人は一八〇センチくらいと高い。共通しているのは、きつい目つきだ。いや、いつもこうなのかは知らないが。おまけに恐ろしく険悪な表情をしていて、せっかくの美人が台無しだ。
「あの泉知事の息子よね」
「あの狂った泉
俺の母親は夫の死から半年後に、新潟軍対自衛隊の最初の戦闘で多数の死者が出たことに耐え切れずに、首を吊って自殺した。あまり心の強い人じゃなかった。第一発見者は俺だった。
「あなた、どうしてまだ生きてるの?」
背の低い……と言うか俺と同じ背丈くらいの女子が言った。髪が長かった。
俺はこの一年で似たようなことを何度も言われたが、こう言う直接的な言葉をぶつけてくるのは必ず若い女だった。三十歳以上からは言われたことがない。
「誰も俺を殺さなかった。俺は親父ほど大物じゃない」
いつものように俺は答えた。日本政府に暗殺された親父は大物だった。悪党であれ、英雄であれ。
「奥さんみたいに、死んで責任を取ろうとは思わなかったわけ?」
背の高いショートヘアの女子が、俺を威圧するように見下ろして言った。
「俺が自殺する理由は見つからなかったな」
実際、俺は自らの命を絶とうと考えたことは一度もない。この一年で、一度くらいは死のうと思っても不思議じゃないくらいの扱いは受けてきたが。
「でも、責任は?」
背の高い女子が繰り返した。
「親の罪を子が受け継ぐと言うのは、新潟でも馴染みのない概念だろうな」
背の高い女子が紅潮した。
「俺は、新潟独立戦争の最前線に立って戦い、死ぬ。それだけじゃ足りないのか?」
自殺するつもりはないが、俺に残された道はそれしかないことくらいはわかっている。
「……その程度の、覚悟はあるわけね」
ロングヘアの女子が言った。
「ああ。ところできみたちの名前は教えてもらえないのか?」
あまり期待せずに聞いてみた。まあ、訓練の過程でお互い嫌でも覚えることになるが。
「
ロングヘアの子がすんなり教えてくれた。
「……
渋々と言った様子で、背の高い女子が名乗った。
「俺は泉
水沢が掴みかかってきそうになったが、田中が止めた。
「ところで、あなた……泉くんがメルトダウンの命令権を持っているって本当?」
「『くん』はいらない。それはデマだ。俺がなにを言おうと、原発にいる原子力決死隊は動かない」
「そう、よかった。ところで、海彦って呼んでもいい? 名字の方は嫌いなの」
「どうぞ。俺が蒔絵と呼んでも怒らないのかな?」
「もちろん」
「……じゃあ、あたしもみちるで」
水沢がものすごい表情で言った。
「そんなに嫌なら、水沢と呼ぶが」
「あたしも、泉って名前は大っ嫌い」
「わかった」
まあ、新潟県民の大多数から泉が嫌われるのは当然だった。あの狂人のせいで、新潟県は一年がたっても放射能被爆の危険に晒されているのだから。県内の同姓世帯にはいい迷惑だろうが。
「じゃあ、お互いこれからがんばりましょう、海彦」
「ああ。蒔絵。みちる。またな」
みちるは大股で歩み去った。蒔絵はそのあとを早歩きでついていった。
俺は一呼吸おいて、ブリーフィングルームを出た。出たところですぐに俺は足を止めた。
前腕を胸の前に水平に付ける敬礼をする。新潟軍式の敬礼で、宇宙戦艦ヤマト方式とも呼ばれる。アニメファンによると、ヤマト式にもいくつかバリエーションがあるそうだが。
目の前の上官が答礼して、俺も腕を下ろした。
「大変なお父様を持つと苦労するわね、海彦くん……海彦?」
「はい、浅川大尉殿」
俺は特別新潟のワルキューレのファンだったり思い入れがあったりするわけじゃないが、それでも気圧されるほどの存在感があった。
「私は泉知事のお名前が嫌いなわけじゃないけれど、海彦と呼んでもいいかしら? ああ、それからここでは階級で呼ばなくていいわ。教官、と呼ぶのが統一事項よ」
「わかりました、浅川教官」
「悪いんだけれど、もう一度部屋に戻って座って話せない? あなたたちの話を立ち聞きしてたら疲れちゃって」
「わかりました、浅川教官」
俺は繰り返して、ブリーフィングルームに入った。
新潟のワルキューレが俺に興味を持つのは当然だろう。浅川教官は親父の死後に新潟入りしたが、今となっては死んで新潟建国の礎となった泉知事のあとを引き継ぐ軍神、あるいはアイドルと見なされていて、ある意味親父よりも名が高い。
浅川教官自身、積極的にメディアに露出しようとしているようにも見える。売名行為ではない。強烈なカリスマを持った人物が、新潟には必要だと言うことだ。現新潟県副知事の名前など知っている人間は少ないだろうが、浅川大尉の名前を知らないものはいない。
「泉知事って」
簡素な椅子に座り、机に頬杖している浅川教官の姿は、まるで北欧家具のカタログ撮影をしているモデルのようにも見えた。
「どんなお方だったの?」
「私人としての、ですね」
「そう」
公人としての評価も、未だ大いに議論の余地があるが。
「家庭内でもめちゃくちゃでしたよ。お袋も苦労してましたね。正直、柏崎刈羽原発のメルトダウン発言なんて甘ったるいくらいですよ。福島第一、第二原発を爆破する、とか言ってもおかしくないくらい狂ってました」
浅川教官が笑った。化粧っ気も少ない感じなのに、若く見えるなこの人……。
「お父様が嫌い?」
「少なくとも、卑近なところでは俺とお袋の人生を大いに狂わせてくれましたね」
「……恨んでいるの?」
「いえ、別に。お袋のことは不憫に思いますが」
「でも、海彦も死ぬって」
俺と蒔絵たちの話を立ち聞きしていたんだったな。
「死にたいわけでも死ななければいけないとも思っていませんが、軍人として戦う限り、いつかは死ぬでしょうね。俺が死んで、それがどう評価されるかは知ったことじゃありませんが」
浅川教官は首を傾げて、俺の目をじっと見つめた。
「海彦って、やっぱりお父様に似てるのかも」
「生前の親父と面識はなかったと思いますが」
「その行動と、お言葉からよ」
俺は顔をしかめた。
「どう評価されてもかまわないとは言いましたが、親父そっくりと言われるのは嫌ですね……」
「稀代の狂人、最悪の核テロリスト。真っ向から中央に異を唱えた地方自治体首長の英雄。後世の歴史家は、泉知事をどう評価するのかしらね」
「それはこの戦争の帰趨次第じゃないですか?」
「そうね。でも、海彦。あなたは狂人とは呼ばれない。むしろ、英雄たる資質がある」
俺はまた顔をしかめた。
「それも俺の生まれのせいでしょう。英雄なんてまっぴらですね。……いや。浅川教官と同じで、英雄に仕立て上げられるのかな」
「そうかもね」
浅川教官が微笑んだ。
「そうすると、英雄に祭り上げられた俺は、親父と同じく暗殺されるんですかね。できればウイングマークを貰って空で戦って死にたいな」
「あなた、どうしてまだ生きてるの、ね……」
浅川教官が蒔絵の言葉を繰り返した。
「若い女の子って残酷よね」
「慣れました」
浅川教官がふふっと笑った。
「変ね。私が今の半分若かったら、海彦に優しくしてあげるのに」
「光栄です」
浅川教官が立ち上がった。
「まあ、明日にはあの子たちも含めて少し地獄を見てもらいます。海彦。期待しているわ。がんばってね」
「はい、浅川教官」
浅川教官は妖しげな笑みを残して去っていった。
「泉」
部屋に帰る途中の自動販売機でなにか買おうと思ったら、後ろから声をかけられた。
振り向くと、ポカリスエットの缶が飛んできたので受け止めた。
「ハーレムは終わりか?」
同室の
「そんないいものじゃない。ああ言う時は援護してくれよな、ウィングマン」
「泉が
「単に僚機ってことだ」
「ならいい」
延岡が笑った。俺はポカリスエットの缶を延岡に掲げてから飲んだ。
「軍隊じゃ出会いは少ないんだから大事にしろよ」
「喧嘩を売られたようなものだ」
「そこから始まる恋もある」
俺はポカリスエットを吹き出しかけた。
「なんのキャッチコピーだ? ああ、そう言えば明日は地獄を見せてやるって言われたな」
「田中と水沢にか?」
「いや、浅川教官」
「はあ? 泉、新潟のワルキューレと直接話したのか?」
「俺はあの泉だからな」
俺はわざとらしく笑ってみせた。延岡は泉を毛嫌いしない珍しい新潟県民の一人だ。
「浅川大尉かあ……いいよなあ……あんな美人、テレビ以外じゃ見たことねえよ」
「年の差、倍だぞ」
「それがなにか問題になるのか?」
俺は少し考えた。
「いや、ないな」
「お、泉は浅川大尉狙い?」
「俺が女にうつつを抜かしたりしたら、それこそ背中から撃たれるだろうな」
欠片も冗談ではなく。
「うえ、泉の立場にだけはなりたくねえな……午後からどうする?」
「飯を食ったら、ランニングと筋トレだな」
「朝もやったろ。明日の地獄とかに備えて休んだ方がよくねえか?」
「一晩で回復できないようなら、もうエリミネート秒読みだろう」
「そりゃそうだけど。しゃあねえ、俺も付き合うか」
「うえ」
今度は俺が言った。
「ペースはこっちに合わせてくれよな。延岡のメニューだと俺が死ぬ」
「鍛えてやるぜ?」
延岡がにやっと笑った。
ランニングコースで蒔絵とみちるに鉢合わせした。意地でぶち抜いてやった。
翌日、浅川教官が今日はF―2戦闘機に乗ってもらいますと言った。昨日はそんなことを言っていなかった。
パイロット候補生は複座B型の前部座席に搭乗する。後部座席の浅川教官が操縦して、最大6Gの高G
俺たちに与えられた指示は一つだけ。なにも触るな、だ。
だが、俺が乗る前に、二十台半ば過ぎの頑健な男性パイロット候補生の三人が失神、六人がマスクの中に吐いて死にかけた。九人は即座にエリミネートされた。
俺は一番最後だった。新潟空港を離陸したF―2はすぐに日本海海上に出る。
『アフターバーナー全開』
浅川教官の声が無線越しに聞こえる。すさまじい加速に、パイロットシートに背中が貼り付けられた。
『マッハ2.0』
もうF―2の最高速度か。高度が低いため、海面の波がものすごい勢いで後方へと消えていく。
機種が上向いた。ズーム上昇。上昇限度高度を越えるためのものじゃない。だが、それでも強烈なGで体が斜め下に叩きつけられたような感覚を覚えた。
『まだ息してる?』
浅川教官の楽しげな声が聞こえた。サディストか。
「はい」
俺は荒い息で答えた。
『これからよ』
もう俺にはなにが起こっているのかわからなくなった。耐Gスーツが下半身をぎりぎりと締め付ける。
上下前後左右、あらゆる方向に体が吹き飛ばされる。時に真っ青な空と太陽だけが見えて、時に視界すべてが海で覆われる。空と海が急激に上下を入れ替える。俺は金玉が縮み上がった。
視野が狭窄して目の前がモノクロになりかけた。ブラックアウトの手前、グレイアウトだ。俺は事前に教えられたとおり、下腹部に力を込めて耐えようとした。金玉は縮み上がったままだったが。
『あっ』
浅川教官の変な声が聞こえた。
『ごめんなさい、今ちょっと7Gいっちゃった』
勘弁してくれ。
俺はF―2を降りるとふらふらと滑走路を歩いて、あっという間に十九人に減ってしまったパイロット候補生たちのところへ戻った。整列はしていない。
「よう、泉。ゲロ吐かなかったか?」
延岡が笑いながら言った。こいつはえらく元気だな……。相当適性があるらしい。
「なんとかな」
俺は答えた。
「さすが、って言っておくわ」
蒔絵が言った。蒔絵も俺と同じように青い顔はしているが、足元に不安な様子はない。
「そっちこそ。……みちるはどうかしたのか?」
みちるは長身を屈めて腹を押さえ、真っ青な顔をしている。
「……」
みちるはなにも言わなかった。
「ああ……この子、ゆうべから生理が始まっちゃって」
「言うな!」
叫ぶつもりだったんだろうが、みちるの声は弱々しかった。
「そうか。運が悪いな」
どれくらい苦しいのかは想像もできないが。
「女なら当然の試練よ。むしろあたしなんか、生理の状態の自分を試したいくらい」
「頼もしいな」
蒔絵の言葉に、俺は素直に感心した。
「エ、エリミネートなんかされないからね……!」
絞り出すような声でみちるが言った。
「わかってる。みちるはここに立っている」
さすがに今期たった二人の女性パイロット候補生だけのことはある。
「これで今日の訓練は終わりだろうけど、さすがに昼飯食う気にはならねえなあ」
延岡も腹を撫でながら言った。
「延岡でもきついのか?」
「腹ん中ミキサーにかけられたみたいな感じがする」
「俺もだ。だが、昼は食わせられるだろうな。訓練が終わりとも思えない」
「マジかー」
延岡が空を仰いだ。
「浅川教官は絶対サドだ」
みちるも笑った。
午後の走り込みで、俺は昼に食べたものを全部吐いた。
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