冴えない彼女の育てかた 短編集

Depth

もっとキスがしたい

「倫也くん……」


荒い息遣い、上気した顔、倫也を見つめる瞳。

恵は自身の昂りを必死に抑えながら、ゆっくりと倫也に顔を寄せていく。


「恵……」


倫也も我慢の限界だった。

シナリオの校正中に聞こえてくる恵の荒い息遣い。何ごとかと恵の様子を見ると、巡離とのキスシーンの校正中だった。その校正中のシナリオの内容が問題だった。倫也が悶絶しながら書いた魂のシナリオ。

それは校正中であっても恵の心には響いていた。いや、それはあのときのキスを思い出しているだけだったのかもしれない。それでも、そのシナリオは、テキストは紛れもなく恵の心を動かしていた。

シナリオライターとして、読者にそういった感情を想起してもらうことはクリエイター冥利に尽きるものだ。しかし、今の倫也にそんなことを考えている余裕など微塵もなかった。目の前に自分とキスをしたがっている彼女がいる。


お互いに顔をゆっくりと顔を近づける。

校正中の、初めてのあの甘いキスシーンを想像してゆっくりと、ゆっくりと……


そして、お互いの吐息が触れる距離まで近づき、


「っ……だめっ………」


恵の両腕が倫也の胸を押しのける。あとほんの少しで触れる距離にあった二人の顔が一瞬にして遠ざかった。


「……なん…で?」


こんなにいい雰囲気だったのに、あとちょっとでキスできたのに。ほんの数センチ手前での寸止めに、倫也が恨めしそうな顔でに恵を見つめる。

恵は真っ赤な顔をして、倫也から逃げるように下を向いていた。


「…上にみんないるから、ね。」


このリビングには倫也と恵の二人しかいないとはいえ、同じ家の中の二階にはマスターアップに向けた作業を進める仲間がいる。確かにキスしている状況を見られるのは確かにマズい。


(……マジかよぉ)


がっくりと肩を落としてうなだれる倫也。

確かにこの状況でキスはマズイのは理解はできる。

ただ理解はできても感情はそう簡単に制御できるわけでもなくて。恵とキスしたいという思いを抑え込まなければならないという状況に落胆せざるを得なかった。


「っ……、わかってないなぁ、倫也くんは」


恵の両手が倫也の両頬を包み、下を向いていた顔を前に向かせる。倫也の目の前には苦しそうに想いを我慢している恵の顔があった。


「わたしだって、キスしたい……倫也くんとしたいよ……」


「だったら……っ」


恵の人差し指がこれ以上喋らないでと倫也の唇を抑える。

そして、倫也から逃げるようにして目線を倫也から外した。


「……ここでキスしたら、我慢できなくなっちゃう」


恵だってキスしたい。恥ずかしそうな、不満そうな、泣きそうなそんなないまぜになった恵の表情。


「……止まらなくなっちゃう」


今までに見たことのない恵のその艶っぽい表情に、倫也への愛が溢れた恵の可愛さに爆発してしまいそうな倫也の理性。


倫也は今がマスターアップに向けた作業中であり、仲間がすぐ近くにいる状況であることを改めて意識する。

その上でこの状況をどうしたら解決できるか頭を巡らせる。

倫也は自分の口を押さえていた恵の手を取りその解決策を口にした。


「……じゃあさ、ちょっと気分転換に外に行かない?」


別に難しい問題ではない。

ただ、シナリオの校正がかなり押しているという大変な状況を考慮しなければだが。

そんな大変な状況のはずなのに、恵は倫也の甘い誘いを断ることができなかった。


「あー、そうだねー気分転換しようか―」


二人は上着を着てさっさと外に出た。

二階にいた他のメンバーの誰にも出ていくことは伝えなかった。

別に二人で出かけることを隠そうとしようとしたわけではない。でかけたことがバレたとしても気分転換とか休憩とか言えば特に問題ない。

誰かに外に出かけると伝える時間が惜しかった。

早く外へ出たかった。

キスがしたかった。


二人は手をつないで、ほんの少し早目の歩調で近くの公園に向かって歩いた。

場所なんて家以外ならどこでも良かった。たまたま、思いついたのが公園であっただけだ。

その間、二人はなんとなく恥ずかしさから一度も目を合わせることはなかったが、繋いだ手は二人の想いを表すように強く、熱かった。


公園に着いてから一応隠れそうな場所は探してみたが、この公園にはそんな場所はなかったため、公園にある一番大きな木の下までは移動した。それでも、ちょっとカモフラージュできるくらいで、公園のあちこちから見えてしまう場所。

移動した後、お互いに正面から見据える。

少しだけ早く歩いたせいで、いやそれだけでなく、今からキスをするというう緊張も相まって、大きく乱れた呼吸を整えようと、一旦深呼吸をする。


「恵…」

「倫也くん…」


今からキスをするという合図として、お互いの名前を呼びあう。

倫也が恵の背中に両腕を回し、恵を抱き寄せ、そのまま唇を重ね合わせた。


「んっ」


恵も倫也の背中に両腕を回す。

お互いがお互いを抱き締め合い、力を込める。

最初は唇を重ね合わせるだけだったが、全然物足りない。

倫也の方から恵の唇に舌を割り込ませる。恵もそれを受け入れるため、口を少しだけ開く。


「…んっ…はぁ…っ」


恵の口から艶っぽい声が思わず漏れる。

倫也は恵の口腔内を犯すように舌を奥まで侵入させ、恵のそれと絡め合わせる。倫也は少しでも恵の舌を感じたくて、恵は少しでも倫也の舌を感じたくて、ひたすらお互いの舌を絡み合わせる。


くちゅ


んちゅ


ちゅぷっ


唾液同士が絡み合うねっとりとした音が耳に響く。それがまた甘美な音でありそれがさらに二人を昂らせる。


(もっと、もっと感じたい……!)


少しでも体の、舌の密着面積を増やそうとより近づこうとする。抱き合ってるのだからそれ以上近づけるはずはないのに、それでももっと近づきたくて。倫也は両腕に力を込め、恵は少しだけ背伸びをする。 

倫也の鼻をくすぐる風呂上がりのいい匂い、恵のいい匂い。

いろんな要素が絡み合い、よりキスを激しくさせる。


「んっ、倫也…くん……好きっ……!」

「恵っ、俺も、俺も好きだっ」


昂った感情はお互いの気持ちをストレートに吐き出させた。

当然キスをしながらではまともに言葉なんて発することなんてできなくて。そんな言葉を伝えるためには一度キスを中断せざるを得ない。でも、そのお互いの言葉がその次のキスをより激しいものにしていた。


「はぁ……好きっ…大好きぃ……っ!」

「恵、好きだっ…!」


キスをし始めてどれだけ時間が経ったかはよくわからない。ただ、少なくとも今までしたキスの中で、もっとも長いキスなのは確かだった。


「ふあっ…」


ようやくして、二人の口は長い長いキスの時間から解放される。

緊張の糸が切れたように恵は倫也の胸に顔を埋めた。

倫也はそんな恵を愛おしそうにぎゅっと抱きしめた。

激しいキスの余韻に浸るように、その抱き心地を楽しみながら。





「はああああああぁぁ…………」

「……なんでそんな重いため息が出てくるんですか、恵さん……」


キスの余韻から醒めて最初に恵の口から出てきたのは、先程の激しいキスの甘い感想とは程遠い、そして超絶に重いため息だった。

『凄い幸せなキスだった』とか『恵がすごく可愛かった』とか恥ずかしい感想を考えていた倫也からすれば、拍子抜けもいいとこである。


「んー、自己嫌悪、かなぁ」

「自己嫌悪?」

「だってさぁ、シナリオの校正も作業も放り出して、キスするためだけに抜け出して来ちゃったんだよ。しかもサークルの代表と副代表がそんなことしてるんだよ。」

「……確かにマズいことしてるような気がしてきたな」


キスをしたことで頭の中の思考が少しクリアになってくる。改めて考えると確かにこんなことをしている場合ではないはずだ。


でも、そんなのは仕方がなかった。


「……しょうがないだろ。……恵とキスしたかったんだから」

「あー……うん、……それは、わたしも……だね」


ちょっとだけ、さっきのキスを思い出して恥ずかしさが湧き出てくる。そんな恥ずかしさを忘れるために、


「なあ恵」

「何?倫也くん?」

「……もう一回キスしよう」

「……うん」


二人はもう一度キスをした。

今度はさっきより短く、唇を合わせるだけのキス。

それでも、二人にとって気分を落ち着かせるにはそれでよかった。


「ね、早く戻ろう。校正作業の続きを進めないとね」

「ああ」


二人は公園から出て家へと歩き始めた。行きはいつもより早い歩調だったのに、言葉とは裏腹に帰りはいつもよりゆっくりとした歩調で。キスをしてお互いが好きであることを改めて確認して、この甘いふんわりとしたこの雰囲気を少しでも長く味わうために。




「やあ、お二人さん。気分転換かな?」


予想だにしていなかった声だった。

二人の前に現れたのは、ニコニコと笑う伊織だった。

さっきまでニコニコしていた恵の表情が一瞬にして黒くなる。


「……倫也くんってシナリオライターだよね?」

「し、素人だけどなっ!」

「10秒以内にあの人を抹殺しつつ、それが誰にもバレないシナリオを考えてくれないかな?」

「んなもん無理に決まってるだろ!?て言うか伊織も大事なメンバーだから!そんなこと言っちゃだめだから!」

「あはは。加藤さんなかなか物騒なこと言うね。大丈夫だよ。全部知ってるから」

「……っ、全部ってどこまでなのかな?」

「え?君たちがお付き合いし始めてることだけど、他に何かあるのかい?」

「〜〜〜〜っ!」

「もしかして気分転換とか言って他に何かしてたのかな?」

「これ以上煽るのはやめろおおおぉぉ!!て言うかマジでやめてください!お願いしますうううぅぅ!」

「あはは、まぁ冗談はさておき」

「……その冗談で恵はお前を殺しかねないぞ?」

「さっさと家に戻ろうか。まだ作業は残っているよ」

「はいはい……というか、波島君も一緒に戻るの?」

「恵もそんな露骨に嫌そうな顔しないで!」

「そっちの方が都合がいいと思うよ。二人がいなくなったのがバレてて二人が一緒に戻ったら一体何をしてたんだとひどく追求されるよ?」

「…むう」

「だったら僕も一緒に戻って気分転換しつつちょっと外でサークルの話をしてたってことにすればいい」


確かにその通りだった。2人で外に出ててそれがバレたらどんな追求が来るかわからない。しかも、そういう追及に対して非常に凶悪な詩羽先輩もいる。

最初は気分転換とか言って外に出てこればいいとか思っていたが、あんな激しいキスをしてしまっていて、いろいろ追求されたら簡単にボロが出てしまいそうで心許ない。

恵はあまり納得していない様子だったが、倫也はその提案を受けることにした。


「じゃあ、まあ、そういうことで。」

「了解。ところで、公園で2人何をしていたんだい?」

「〜〜〜〜〜〜っ!」

「お前マジで煽るのやめろおぉ!って言うかいつから見てたんだよおぉ!?」

「あっはっは」


倫也は真っ赤に顔を染める恵をなだめつつ、そんな二人を伊織は笑いながら3人はそろって家へと向かった。

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