三話 泡沫の夢、あるいは過去の残滓
『神父様、わたしは罪を犯しました。神はわたしをお許しになるのでしょうか?』
『もちろん。神の御前で懺悔し、祈りなさい。神は必ず、あなたの魂を優しく迎えてくれるでしょう』
己の罪に怯える声と、優しくも無慈悲な声が聞こえる。
俺の視界は暗闇に閉ざされ、身体は鉛のように重い。
『キュリロス神父、あなたは人殺しだ。教会に足を踏み入れた者は二度と戻って来ない。どうしてこんなことをするんだ』
『私はただ、救いを求める者を神の御前に送っているだけ。もしも私が間違っているのだとしたら、神が裁いてくださるとも』
声の人物が映画のように切り替わる。すぐにこれは夢だとわかった。これは夢か、それとも過去の記憶なのだろうか。
なんにせよ、どれだけ厳しく糾弾されようとも、彼は揺らがなかった。何が彼を突き動かすのか、どうしてこんなにも盲目で狂おしいほどの信仰を神へ捧げられるのか。
そして、もしも本当に神がこの世に存在するのなら。
果たして神は彼に何をさせたいのだろうか。悠久の時の中での暇潰しか、それとも――
※
鉛のように重い身体が、突如不自然に浮いた。泥のような眠りから意識が浮上し、眩しさに目を擦りながら俺は身を捩って辺りを見回そうとする。
だが、なぜか動けない。動けないのに、景色はどんどん後方に流れて行く。
ここは一体どこだ? パニックになりかけるものの、答えはすぐにわかった。
「起きたかい、レクスくん。おはよう、今日はいい天気だよ」
「し、神父様……ここは、車?」
「うん、そうだよ。私の車さ、何度も乗っただろう?」
隣でハンドルを握る神父様が、俺を見ながら優しげに笑った。カソックを着た姿は黒髪に深緑の瞳と、いつも通りの姿だ。
どうやら、俺は助手席で眠っていたらしい。彼の愛車であるこの四駆も慣れたものだ。こうやって助手席に座るのも、自分で運転するのも一度や二度ではない。
穏やかでありながら、見えない糸に縛り上げられているかのような緊張感。いつも通りといえばそうだが、彼の殺戮が夢だったとも思えない。
「あの、俺……どれくらい寝ていたんですか?」
「うーん、丸一日と半日かな。死にかけてたんだから、無理もないさ」
でも、と神父様が前を向いて笑った。
「ちゃんと処置はしておいたから、安心していいよ。弾丸も取り除いたし、傷口の経過も良好だ。痛みはまだしばらく残るだろうが……指先の感覚はあるかい? 変な痺れや、妙な違和感はないかな?」
「ええっと……」
俺は神父様に言われた通り、少し身を捩ってから両手を握ってみる。ビリビリとした痺れはあるが、これは久し振りに動いたせいだろう。指を開いたり握ったりを何度か繰り返していると、徐々ではあるが痺れも軽減してきた。
撃たれた右肩には鈍い痛みが残るものの、動けないほどではない。身体には何も問題はないように思えた。
……あくまで、身体には。
「あの、神父様……この服は一体」
「え? だって、きみの服は血でどろどろのベタベタになってたから。処置した後で、着替えさせて貰ったよ」
「それは、ありがたいんですけど……これ、神父様の服ですよね?」
胸の辺りを軽く摘んでみる。どう見ても、何度目を擦っても変わらない。
黒いカソック。しかもサイズが合わないのか、袖が少しダボついている。ズボンの裾なんて何回か折られてるし。
思わぬ角度からスタイルの違いを見せつけられげんなりしていると、神父様が満足そうに笑った。
「うん、そうだよ。私は吸血鬼だけど、奴隷とかそういう主従関係には興味がない。でも、思ったんだ。千年間ずっと神父をやっているけど、弟子というものをとったことがなかったなぁって思って。いい機会だからさ、主従じゃなくて師弟関係っていうのはどうだい?」
神父様、ご機嫌である。鼻歌まで歌い始めた彼に呆れつつ、俺は窓の方に目を向けた。
車は大きな川沿いを走っている。地面は最低限の舗装しかされていないのか、時折身体ががくんと浮く。クローゼ村近辺の道路はもう少し綺麗だった筈。
俺が眠っている間に、村からどれくらい離れたのだろうか。考えようとするが、村のことを思い出す度に腹の底で憎悪が燻る。
俺は軽く頭を振って、神父様の方を向いた。
「あの、神父様。運転代わりましょうか?」
「ううん。きみはまだ、ふらつきが残っているだろう? そんな状態のきみにハンドルを任せるのは危ないからね。ま、交通事故程度じゃお互い死なないだろうけど」
「あ、そうなんですか……いや、そういう意味じゃなくて」
道に凹みでもあったのか、再び身体ががくんと浮いた。臓器が持ち上げられるかのような浮遊感に、思わず腹を押さえる。
神父様……かなりスピード出してる。対向車どころか、道路標識もない道をだから気づいていないようだ。
どんなことでも丁寧にこなす人なのに、運転だけ雑なのはなぜだろう。
「あれ、レクスくん……顔色悪いみたいだけど、気持ち悪い?」
「あー……いえ、何ともないです」
「いや、少し休憩しよう。きみにはまだ休息が必要だからね。それに、色々と話しておきたたいこともある」
そう言って、神父様がハンドルを九十度左に切った。タイヤが悲鳴を上げながら、車は道路を外れて河川敷の方へ向かう。
視界が身体ごと小刻みに揺さぶられて、息すらまともに吸えない。胃に何も入っていないことが幸いだった。
……舌、噛んだけど。
「よし、ここなら落ち着いて話が出来そうだね。来てごらん、レクスくん。風が気持ちいいよ」
神父様が車を停めて降りる。まだ揺れてるかのような余韻を感じてしまうが、このままここに居ても仕方がない。
シートベルトを外して、俺も車から降りる。川の影響だろうか、クローゼ村の風よりもずっと肌寒く感じた。
川辺に寄って、膝をついて水面を観察する。深くはないが、結構流れが早い。それでも、水は底が見えるくらいに透き通っている。
そういえば、妙に喉が渇いた。俺は両手で川の水を掬ってみる。指が痺れるくらいに冷たい水を、そのまま口に運んでみた。
次の瞬間、口内に広がる強烈な苦さに俺は水を吐き出すと激しく咳き込んだ。
「ゲホゲホッ、ゲホ!」
「ふむ、水も飲めないのか。これは想定よりも早く駄目になってしまうかもしれないな」
神父様が興味深そうに言いながら、タオルを差し出してきた。それを受け取って口元を拭きながら、俺は彼を見上げる。
「ゴホ……駄目にって、何が」
「きみが。知っているだろうが、吸血鬼の老化現象の一つに悪食がある。つまり、味覚の劣化だ。無味無臭の水を受け付けられないほど、きみの味覚は落ちてしまったってことさ。でも念の為に……うん、この辺りは自然が豊かだから水も美味しいね」
淡々とした調子で説明しながら、神父様も俺の隣に片膝をついて同じように水を救って飲んだ。
水ではなく、俺の方に問題があるのは間違いないようだ。濡れた手を軽く払いながら神父様は立ち上がり、身体を解すように大きく伸びをした。
「さて、じゃあ話を始めようか。まずは今までのことを纏めよう。クローゼ村できみが眠ってしまった後、私はきみに処置をした。ご馳走さまでした」
「え、なんですかその最後のご馳走さまって」
「食事の後にはいただきます、終わったらご馳走さま。食物の恵みを神に感謝すべきなのは、人間も吸血鬼も変わらないよ」
「……なる、ほど?」
「ふふふ、クローゼ村で暮らしていた間は禁欲的な食生活だったから、久し振りにご馳走にありつけて大満足な私なのだ」
俺を見て、神父様がうっとりと笑う。見ているこちらが赤面してしまいそうな美しさだが、完全に食料認定されたということだろう。
ていうか、なのだって何だ。神父様、相当ご機嫌みたいだ。
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