誕生日

麻生慈温

誕生日

 誕生日当日の夜明け、ペンギンの夢を見た。


 私はなぜか南極にいて、氷の上をペンギンと並んで歩いている。横を見ると、隣を歩くその二足歩行の生き物のつぶらな瞳と目が合ったので、きっと私もペンギンの姿になっているのだろうと夢の中で思った。同胞の愛らしい瞳からは何の感情も読み取れず、ただ、澄んだ黒い瞳に悲しみをたたえているように見えた。


 目が覚めても、自分がまだ南極の氷の上を歩いているような妙な錯覚があった。しばらく布団から出ず、寝室の天井を見つめてみる。見慣れたその白い天井を見ているうちに、少しずつ意識が現実に戻ってきた。ようやくスマートフォンのアラームが鳴ったので、私は布団から出た。


 会社へ行くために身支度をし、朝の紅茶の用意をしながら、ペンギンのことを考えた。正確にはペンギンの夢を見た、という事実について。それを自分の三十九歳の誕生日に見た意義について。私は眠りが深くて、睡眠中に夢を見ることは少ないのだが、時折、目が覚める直前に短い夢を見ることはある。内容までは覚えていない。何か色のついた夢を見たという曖昧な記憶があるだけだ。


 身支度を終えて、ダイニングテーブルについて朝の紅茶をすすりながら、テレビの天気予報を見たり、そばの窓をあけて空を見上げたり、とりとめのないことに思いをめぐらせたりするのが毎朝の習慣になっているのだが、今朝のペンギンの夢はなかなか興味深い、と思った。生まれ変わったらペンギンになるのも悪くないかもしれない。南極とか北のほうの海の、氷山の下を自由に泳ぎまわるのも楽しいだろう。


 紅茶を飲み干して口紅を塗り直し、コートとマフラーを着けてマンションを出た。最寄り駅までおよそ五分ほどの道のりを歩きながら、冬の朝の、抜けるような青空を仰ぎ見る。何歳になろうと、自分の誕生日が晴天なのは嬉しいことだった。途中、必ず登校中の数人の小学生達とすれ違う。お互いにじゃれ合って騒ぎながら歩く子ども達はいつも同じ顔ぶれなので何となく覚えてしまった。向こうは私など気にも留めていないと思いきや、ひとりだけ、子ども達の中でとりわけ体の小さく、伏し目がちに歩く女の子だけが、擦れ違いざまにじっと私に視線を当てていることがあるので、あの子だけは私の顔を覚えているのだろう。だからといって声をかけたり、笑いかけたりはせず、知らん顔をして通り過ぎるだけだ。でも、もしあの子に今日はおばさんの誕生日なのよ、と伝えたらどんな反応をするだろう。驚き、怯えながら、おめでとうくらいは言ってくれるだろうか。そんなことを想像してみる。


 電車に乗って職場へ向かう。うまくドアの脇に立つようにして、車窓から景色を眺めている。私の自宅のある最寄り駅と、職場のある駅は三つしか離れていないのであっという間なのだが、その途中の景色にちょっとした楽しみがある。ひとつは大きめの公園で、敷地をぐるりと桜の木が植えられている。今は枯れ木のようだが、春が来て開花するとちょっとした見応えがあるので気に入っているのだ。

 朝陽に照らされた桜の木が今日も変わりなくそこにあることを確かめて、私は電車を降りる。歩いていると、後ろから、睦月さん、おはようございますと声をかけられた。同じ部署に勤める結城美冬が小走りで追いついてきた。高校時代から着ているという紺色のダッフルコートとタータンチェックのマフラーが、美冬の華奢な体に巻きついているようだ。おはよう、今日も寒いわねと挨拶を交わし、一緒に歩く。私より二十歳下でまだ十九歳の彼女が入社して同じ部署で働くことになった時、美冬と私は同じ苗字なので、彼女ふくめ事務所の皆が私達を下の名前で呼ぶようになったのだ。最初は遠慮していた彼女も、入社して一年近くたち、最初は慣れない業務に失敗したり、体調を崩して休みがちになった時期もあったが、今では仕事に慣れ、体力も取り戻したように、自然と私を名前で呼んでくれるようになった。


 駅から十分ほど歩いて、会社がある複合オフィスビルに着いた。私の勤める会社が、大手企業も複数入っているこの小綺麗なビルに引っ越したのは数年前だ。それまではぼろぼろの雑居ビルのワンフロアを借りて、社長や部長とも机を並べて仕事をしていた。六基あるエレベーターホールでエレベーターを待っていると、グレーの仕立てのよいコートを着た社長がやって来た。私と美冬が勤める人事総務課と社長室はフロアが違うので、会社が引っ越してからあまり会える機会がなくなってしまい、会うのは久しぶりだった。おはようございます、と挨拶すると、久しぶりじゃないか、元気だったかと気さくに応えてくれて、そのままちょっとした世間話をした。社長はすでに七十代に入ったはずだが、真っ白な頭髪は多すぎるくらい豊かで、顔の血色もいい。少し太り気味になったが、背の高い人なのでスーツがまだまだ似合っている。美冬はやはり相手が社長だとかなり緊張するようで、私の後ろに隠れるようにしている。


 社長より先にエレベーターを降りてオフィスに入りながら、美冬がああ緊張したあ、などと息を吐きながら言ったので笑ってしまった。社長は優しいから大丈夫よ、と言ってみたものの、美冬は苦笑いするばかりだった。

 オフィスでは、私より年下の課長が自席で新聞を読んでいた。他の社員の姿は見えなかったが、各デスクのパソコンが立ち上がっているので出社していることが分かる。まだ始業前なので美冬はトイレに化粧直しに行き、私は給湯室で自分用にコーヒーを淹れに行った。勤続二十年ともなると、給湯室を自宅の台所の延長のように遠慮なく使うことができる。自前のインスタントコーヒーやマグカップを置いて、毎朝、淹れ立てのコーヒーを席で飲んでいる。朝は紅茶と決めているが、会社で茶葉を用いて紅茶を淹れるのが面倒なのでインスタントコーヒーで済ませている

 

 給湯室には、顔見知りの営業部の女性社員がいて、立ったままヨーグルトを食べていた。笑いながら朝の挨拶をして、ポットに水を入れて沸くのを待つ間に軽い世間話をした。そこへ別の若い男性社員も入ってきて話に加わった。今日は午後から社長も出席する営業企画会議があると少し緊張した面持ちで男性社員が言う。ヨーグルトを食べ終わった同僚が、社長はそこまで恐くないでしょ、大丈夫よ、などと気休めとも慰めともとれる言葉をかけている。会社の業務から離れれば恐くはないのだろうが、社長は仕事に甘い人間ではないことは社員の誰もが知っている。


 コーヒーを持って席に戻ると、ちょうど始業のチャイムが鳴った。美冬が慌ててトイレから戻ってきて、朝イチの雑貨在庫チェックと補充をやると申し出てくれた。コートを脱いで白いゆったりしたニットを着ている様子は、ハンガーにニットが引っかかっているみたいに痩せていて見るたび心配になってしまう。私は少しの間、のんびりとコーヒーをすすった。他の社員や課長は、来年度の新入社員教育とマニュアル作成について話している。課長があれこれ指示をしているのを聞きながら、私も自分の業務を始める。いつもと何ら変わらない一日の始まりである。

 

 さっき、エレベーターで社長と会った時、今日が誕生日だと言いたい気持ちが募ったが、美冬もいたし、我慢して言わないでおいた。そんなことを言ったら社長にも、美冬にも気を遣わせてしまうだろう。社長はあの時のことを覚えているかもしれないが、日付までは忘れてしまっているだろう。

 社長に、一度だけ誕生日のお祝いをしてもらったのは十九年前の出来事だ。あの日、会社で残業していた私に社長が心配して声をかけてくれて、私はうっかり自分が誕生日だとこぼしてしまったのだ。事務所がまだ小さく、社長室もなくて、社長が同じ部屋の席で仕事をしていた時代だ。社長は驚きながら笑い、仕事を切り上げて食事に連れ出してくれたのだ。てっきり駅前の居酒屋とか安いバーだろうと思ってついていったら、上品で、明らかに高級そうな寿司屋だったので若かった私は大げさなくらい驚き、こんなに高そうなところでいいんですかと言い、また笑われた記憶がある。社長が先に立って檜でできた引き戸を開いてくれて、カウンターにふたりで並んで座り、寿司をご馳走になった。二十歳になったお祝いだからと、どこか地方の名酒という日本酒も飲ませてもらった。高校時代の友達とビールやカクテルを飲んだことはあっても、日本酒を飲んだのは初めてで、大げさにはしゃいで見せた。人の善い社長は終始にこにこと楽しそうに笑っていた。

 お酒が入ったせいもあり、調子に乗っていろいろな愚痴や悩みごとを聞いてもらった。その当時つきあっていた男の子の話もした。社長は笑いながらもじっくりと話を聞いてくれて、誕生日に彼女を放っておくなんてひどい男だと一緒に憤慨してくれて、君は頭もいいし仕事も頑張っているし、まだまだ人生は始まったばかりなんだから、何もかも上手くいから大丈夫だよと励ましてくれるのだった。 


 社長の話もいろいろ聞いた。会社を立ち上げたばかりの頃の苦労話は少しだけで、社長の学生時代の話が中心だった。多少、面白おかしく装飾したのだろうが、それでも私が生まれる前の時代の大学生の話は面白く、ずいぶん笑った。奥様との馴れ初め、結婚前のつきあっている時代に社長の下宿に食事の用意をしに来てくれたのはよかったのだが、奥様の作った料理がことごとく失敗に終わりお互い気まずい雰囲気になった話や、新婚旅行で訪れたロンドンの話も私には物珍しく楽しかった。

 社長に誕生日のお祝いをしてもらった夜から五年後、私は長年つきあっていた男の子と結婚して、新婚旅行で初めてヨーロッパに行った。結局、結婚生活は三年ほどで破綻してしまったのだが、その間もずっとこの会社で働き続けた。ひとつの会社で働き続けるのも、朝に紅茶を丁寧に淹れるようになったヨーロッパ旅行のきっかけも、二十歳の誕生日の思い出があるからだと思っている。正式に離婚するまでの諍いの時期で心身共に疲弊しきっていても、朝の紅茶の習慣と、同じ会社に出勤し続けるという生活のルーティーンがあったおかげで乗り越えられた気がしているのだ。そして、心配いらない、何とかなるものだという社長の言葉をしみじみと思い出すようになった。二十歳の頃の私にはぴんとこなかった。年を取って分かるようになったことも多いが、人生の機敏が分かるようになる日がくるなんて昔は思いもしなかった。もっと年を取ったら、分かってくることもまた増えたり、変わったりするのだろうと思う。


 始業と終業のチャイムは鳴るのに、昼休みを告げるチャイムだけが鳴らないのはこの新しいオフィスビルに引っ越してからなのだが、最初の頃は慣れずに昼食に出るタイミングを逃してしまったこともあった。社員の誰かが言い出して、昼休みの時間になったら皆に報せる係を当番制でやろうということになり、本当に順繰りに正午を過ぎたらお昼ですよ、と声を掛け合ったりしてきたが、今の課長が異動してきてそれも終わりとなった。昼休みを誰かに教えてもらわなきゃ分からないなんておかしいだろう、と。

 そんな訳で、正午を過ぎたら各自それぞれのペースで昼食に行くようになった。課長は自分が昼休みコールをやめさせた自負があるらしく、いつも一番に出て行く。その次にさっといなくなるのが美冬で、静かにいなくなるので誰も気がつかない。私は適当に出て行くことにしている。昼食は自宅からお弁当を持ってきたり、外食したりとさまざまだ。同僚と行くこともたまにあるが、大抵はひとりで過ごしている。今日はコンビニか、人気の惣菜屋で買って来ようと思いながらエレベーターで一階まで降りて、広いロビーを横切った時、ロビーの片隅にある病院の待合室のようなベンチに美冬がちんまりと座っているのが見えた。遠かったが、小さなおにぎりと紙パックの飲み物を手にしているのが分かった。このビルのロビーで美冬がひとりで昼食をとっているのは何度か見かけたことがあり、いつも小さなおにぎりかパンひとつしか食べていないようだった。以前は、痩せているだけあって少食なのだなと思ったが、それより食べるということに興味がないのかもしれないと思うようになった。私は特に美冬に声をかけたりせず、自分の昼食を買いに出かけた。


 昼休みを終えて席に戻ると、課長が電話で何やら必死な口調で話していた。支社のひとつから、先週打ち出した数字とデータにミスがあったという報せだった。今からメールとFAXで正しいファイルを送るので修正してほしいという。やれやれと思いながら、立ち上がってFAX機の前に行き、送信された紙をまとめていると電話が鳴った。休憩から戻ってきた美冬が受話器を取り、対応した。今度はまた別の支社からで、同じようなデータミスが発覚したという。どうやらシステムトラブルが発生しているらしいので調べてほしいとのことだった。外部のシステムセンターに状況を説明して原因を調べてもらい、二社から届くFAXとメールを皆で手分けして処理した。

 ばたばたしているところへ、思いがけず社長が顔を出した。システムトラブルの件を聞いたと言い、会議の前に様子を見に来てくれたらしい。課長がことの次第を説明するのを横目に、私と美冬でデータ修正の作業を進めた。社長は説明を受けながら、なぜか手に持っていた万年筆をしきりにくるくる回していた。

 昔、社長が電話で話をしながら、やはり手にしたボールペンをくるくる回していたことを思い出した。あの時は電話を終えた社長に、誰かがペン回しお上手ですね、などと声をかけていた。社長は照れくさそうに笑い、集中したい時の癖なのだと言い訳していたと思う。妙なところで変わっていないのだなと思うとおかしかった。


 時間がきて社長は会議に出席するために行ってしまった。部屋から出て行く時、ちらりと見ると、社長が頼んだぞ、と手を振ってくれた。


 誕生日の話など持ち出せるわけがなかった。


 作業に追われて、気がつくと定時の五時を過ぎていた。やっとひと段落したと思ったら、システムセンターからメンテナンスの電話が入り、テストデータを送るので見てほしいと言われた。すぐ終わるだろうと思ったから、美冬に先に帰っていいよと言ったのだが、そのテストデータというのがなかなか送られてこない。美冬もこの状況で自分だけ先に帰るのが気まずい様子で、結局、課長と美冬と私の三人でお茶を飲んだり明日の業務の確認や準備をしたりして待った。課長が、進捗状況を説明しようと社長に内線電話を入れてみたが、社長は会議の後、急に人と会う予定が入ったと外出していた。


 ようやくテストデータが来たのは一時間ほどたってからだった。課長と美冬と私で手分けして、システムセンターとやりとりしたり支社にも連絡を入れたりした。

 ようやくすべてが終わった時は七時半を過ぎていた。課長が気を遣って、コンビニでお菓子を買って私と美冬に配ってくれた。それが駄菓子のチョコレートケーキだったので思わず笑ってしまった。今日はもともとひとりで外食して帰るつもりでいたけれど、これで誕生日のケーキは十分だなと思えた。


 結局、美冬と一緒にオフィスを出た時は八時をまわっていた。エレベーターを待ちながら、こんな日もあるんですねー、と言い合った。


 私、今日誕生日なのに。


 一瞬、私の心の声が聞こえたのかと思った。え? と横を見ると、美冬が恥ずかしそうに笑ってうつむいていた。


 あなた、今日お誕生日なの? 聞き返すと相手は苦笑いで首をかしげた。いくつになったの? 二十歳です。

 驚いて、少しの間、次の言葉が出てこなかった。こんな偶然があるなんて。

 エレベーターに乗ってから、やっとおめでとう、と言葉が出てきた。今から時間ある?ご飯食べて行かない?

 私が続けてそう言うと美冬は慌てた様子で首を振り、いえ、いいんです気を遣わないで下さいと言った。そんなつもりで言ったんじゃないから。


 どうせ、今日ひとりで食事するつもりだったの。よかったらつきあってよ。お腹空いてるでしょ? そこまで言ってから、美冬の困惑したような顔を見てはっとした。昼休みをいつもひとりで過ごすくらいだし、友人でもない、年の離れた会社の先輩と食事するなど本当はしたくないかもしれないと気づいたのだ。


 しかし美冬は少し考える様子を見せてから、お邪魔じゃなかったら・・・と言った。

 予定とかあるなら、無理しなくていいのよ? いいえ、何もないです。

 私は自分から誘った以上、やはりやめておきましょうかとも言えなくなった。じゃ一緒に行きましょう。エレベーターから降りてビルを出ると、私は先に立ち、目的地もないまま歩き出した。美冬も慌ててついて来て、歩きながら今日大変だったことを話し合い、笑った。


 どうして美冬を誘うつもりになったのか考えた。彼女が今日誕生日だと言ったから、勢いで口走ってしまった格好だ。でも誕生日が同じという偶然は驚いたものの嬉しかったし、なかなか忙しかった今日を乗り切ったことへの慰労会をしたい気持ちもあった。

 話しながら美冬の顔を見た時、今朝のペンギンの夢を思い出した。澄んだ悲しみをたたえた瞳のペンギンと、隣の若い女の大きな黒目がちの瞳が重なって見えた。近くで見ると美冬の白い肌は若い女に似合わず少ししわが寄り、乾燥して荒れていた。


 とりあえず駅へ向かったが、どこへ行けばいいか決められずにいた。美冬に何を食べたいかと訊いてみたが、何でもいい、ただ今日は疲れたので近いところがいいですという返事だった。最初は、昔、私が社長に連れて行ってもらったようにお寿司にしようかと思ったのだが、この近くに寿司屋がない。タクシーで移動してもいいのだが、美冬が疲れていると言ったのでそれはやめにして、結局、駅に近い洋食レストランに落ち着いた。店内は空いていて、窓際のテーブルに案内される。ウェイターがボトルに入れた水とグラスとおしぼりを運んできて、メニューを渡してくれた。美冬はそれを見て戸惑ったような顔つきになった。主なメニューはオムライスやハンバーグなど、身近な洋食なのに、料理を持ったウェイターが近くと通りかかると、初めて見るもののように大きな目を見開いてそれを見つめている。彼女はずいぶん時間をかけて、結局オムレツを注文した。私はハンバーグステーキとサラダのセットにしてロールパンを頼んだ。


 料理がくるまで、当たり障りのない話をした。主に会社の話で罪のない噂話だ。よく考えたらお昼を一緒にとることもないし、飲み会などがあまりない会社なので、美冬とこうして向かい合って座っているのは初めてのことだった。今日で二十歳になったのだし、お祝いにワインでも頼もうかと提案してみたが、焦ったように首を振ってそれはだめなんです、と断られた。その切羽詰まったような言い方に違和感を感じた。


 料理が届いた。美冬の前におかれたオムレツは出来たてで湯気を立てていた。私にも注文したサラダがまず届いた。最後にウェイターが瓶入りのケチャップをおいた。美冬は当惑した目つきでケチャップの瓶ををしばらく眺めてから手に取る。その骨張った手がかすかに震えているように見えた。意を決したように蓋を取り、さっとオムレツの上にケチャップの赤い線を描く。指が震えているせいで蓋を取り落とし、何とか元通りにしめるまで、皿の上のオムレツを凝視している様子は尋常ではないものを感じて不安になった。震える手でナイフとフォークを取り上げるまで、私は先に届いたサラダを食べ終え、後からきたハンバーグステーキを半分ほど平らげ、ロールパンを千切ってハンバーグのデミグラスソースにつけてひと口食べるだけの時間がかかっていた。


 美冬はようやく手にしたナイフとフォークをぎこちなく使い、オムレツの端を小さく切り取り、その卵のかけらをゆっくりと口に運んだ。時間をかけて咀嚼して飲み込み、また小さなかけらを切り分けて口に運ぶ。


 すみません、ナイフが使い慣れないから、遅いんです、と美冬は消え入りそうな声で言った。気にしなくていいから、ゆっくり食べなさいと私は返す。他に言いようがない。美味しいかと訊いてみると、はい、と短い無感動な返事がきた。

 私はこの子を誘ったことを後悔し始めていた。会社の年上の先輩に誘われて仕方なくついてきたのだろうが、どう見ても食事を楽しんでいるように見えない。どことなく病的なものを感じていた。余計なことをせず、私ひとりで食事に来ればよかった。私はまたパンを千切って口に入れた。


 ふいに、レストランの照明が落ちて、辺りが暗くなった。いきなりのことで他のテーブルから小さな悲鳴が上がり、店内がざわついた。しかしほんの一瞬のことで、すぐに場違いなほど明るいアメリカンポップな曲調のハッピーバースデーの歌が流れ始めた。ろうそくの代わりに花火のようなものが刺さったケーキの皿を掲げたウェイターが、にこやかに笑顔を振りまきながら調理場の奥から登場した。私達のテーブルの近くまで来たので驚いたが、ケーキは三つ隣のテーブルに座るカップルの元へ届けられた。カップルの女の子の方が大げさに笑っている。店のスタッフがいっせいにおめでとうございますと声を張り上げ、拍手するので、私達も仕方なく、苦笑いで弱い拍手を送った。


 ようやく店内が明るくなり、騒ぎもおさまった。美冬はケーキで盛り上がっているカップルから私に視線を向けて、びっくりした、睦月さんが私のために用意してくれたのかと思いました、と笑った。

 私も笑い、今からお願いする? と言ってみた。美冬はまた笑った。同じ誕生日なんて、こんな偶然あるんですね。私は深く同意した。同じ誕生日の女が、三人も同じ場所に居合わせるなんて。例のカップルをちらりと見ると、女の子は恥ずかしそうに顔を赤らめながら、スマートフォンでケーキの写真を撮っている。幸せなのだろうなと思い、そう思うとちくりと胸が痛む。私にもかつて記念日を一緒に祝った相手がいたのに。


 いいなあ、あんな風に恋人にお祝いしてもらってみたい。美冬がふいにそうつぶやき、私は苦笑いして訊いた。彼氏、いないの? いないですよぉ。

 美冬も苦笑いで語尾を伸ばし、何気ない風に、私、病気だったんですと付け加えた。


 そう聞いても驚きはなかった。彼女の痩せ方や顔色の悪さからたやすく想像できることだ。それでも、彼女からそう打ち明けたということは、私に聞いてほしいのかもしれないと思った。


 どんな病気? ご飯を食べられなくなる病気です。

 ストレスとか精神的なもの?


 美冬はそっとうなずき、オムレツの残りに取りかかった。すっかり冷めて固くなってしまった卵を小さく切り分け、口に運びながら、彼女の両親が中学三年生の時に離婚したこと、それ以前から父親と母親の不仲を見て精神的に不安定になり、ものを食べられなくなっていったことを話してくれた。何とか高校には入学できたものの、すっかり体が弱ってしまい、休みがちになり留年して卒業が一年遅れたこと。それを聞いて私は美冬が高卒で入社したことを思い出した。普通に高校を卒業して就職したのなら、現在十九歳のはずなのに、彼女は今日で二十歳になったと言ったのだ。


 美冬は話しながら、ゆっくりとオムレツを食べ進めた。高校生活の間に病院に行ったりして、少しずつ食べ物を口にできるようになったのだが、かなり胃が小さくなってしまったのでたくさんを食べられないのだという。それでも、何とか学校も卒業し、就職もできて、今は毎日が楽しいのだと精一杯の笑顔を見せた。


 話すという、ある意味自分の思いを吐き出す行為をしながら、一方で少しずつ卵のかけらを食べて飲み込むという相反する動作は、彼女の瞳に弱々しい光を生み出し、その生命力を表しているようだった。おそらくは美冬の若さが彼女を生かそうとしているのだろう。 

 私は別れた夫のことをまたぼんやりと思い出していた。私達には子どもがなかった。だから離婚したわけではないが、もし子どもがいたら。それでも別れることになったら。私達は子どもの前でも喧嘩をしただろうか。どんなに隠そうとしても、子どもは両親の確執を敏感に見抜くのだろう。そうすれば、私達の子どもも美冬のように傷ついたかもしれない。心だけではなく、体も。


 ねえ、誕生日のことは言わないで、ケーキを食べてみない? ひとつを半分ずつ分けましょうよ。美冬は、え、でも、と口ごもった。一番小さいケーキひとつだけよ。それを半分にしたら何とか食べられるんじゃない?


 美冬は少し悩んだ末、うなずいてくれた。私は皿を下げに来たウェイターに、面積の一番小さなケーキは何かと訊いた。ウェイターはえっと驚き、少し考えた後、チーズケーキだと思いますと言った。それと美冬は紅茶を、私はコーヒーを注文した。ケーキがくるのをまつ間、美冬が小さな声で、病気になる前はケーキとかアイスクリームとか、甘い物がとても好きだったのだと言った。


 私が、これからまたいくらでも食べられるようになるよと言おうとした時、先ほどのウェイターが慌てた様子でやって来て、すみません、面積で言えばモンブランの方が小さいかもしれません、どうしますか? と言った。

 私と美冬は顔を見合わせた。どうする? と訊くと、ではモンブランをお願いします、と美冬が自分から言った。

 ウェイターが去って、すぐケーキと飲み物が運ばれてきた。やって来たモンブランは確かに小さく、載っている白い皿が大きいせいで、クリームをひと絞りした粒のように見えた。それでも着色料をたっぷり使った黄褐色のクリームを満遍なく塗りたくったそれは、つややかで美味しそうに見える。ウェイターがフォークをふたつおいてくれて、ごゆっくりどうぞ、と言って去った。


 私はフォークを手に取り、慎重に皿の上のものを真ん中からふたつに割った。マロンクリームの下の普通の白いクリーム、スポンジケーキ、栗の実、一番下のメレンゲからなる断面が現れた。

 美冬は自分のフォークを手に取り、真ん中から分けられた半分の、マロンクリームを少しだけ掬い、口に入れた。

 美味しい、と言って、彼女は今夜、初めて心からの笑顔を見せてくれた。私は嬉しくなって、自分の分を口に入れる。妙に甘ったるくて軽いクリームだが、とても美味しいと思った。


 三口ほどで自分の分を食べ終えてしまい、私は美冬が時間をかけてケーキを食べるのを、コーヒーを飲みながら見守った。美冬が時間を気にしないよう、当たり障りのない世間話はできないものかと話題をひねり出して場を持たせた。美冬は笑いながら私の話に耳を傾け、ケーキを食べ続けた。このまま時間を忘れてくつろいでほしい、と思った。


 彼女がケーキを食べ終えた時には、ラストオーダーの時間になっていた。少し休んでから店を出る。美冬は自分の分を払いますと言い張ったが、私は聞き入れなかった。


 駅へ向かいながら、遅くなってしまったが疲れていないかと訊いた。美冬は笑って首を振り、こんなに楽しい誕生日は子どもの頃以来だと言った。睦月さん、ありがとうございました。


 帰る方向は反対だったので、改札で別れ、美冬は大きく手を振って自分の乗る電車がくるホームへ向かった。やはりぶかぶかのコートに包まれた頼りない背中を見送って、私も電車に乗るためホームへ向かう。何だか自分がとても年を取ったような気がした。


 人気の少ないホームに着くと、ちょうど反対方向の電車が発車するところだった。美冬の姿が見えないかと首を伸ばしてみたが、彼女の姿は見つからなかった。





 

   

      

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誕生日 麻生慈温 @Jion6776

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