最後のお願い

みなづきあまね

最後のお願い

急に春めいてきた。雨の日や風の日が増え、ときどき暖かな晴れの日に外を歩くと、水仙や桃、梅などを目にし、すぐそこまで桜の季節が迫っていることを実感する。


彼と出会って1年が経とうとしている。昨年の3月末、新入社員として彼が紹介された時、私は全くと言っていいほど、彼に興味を示していなかった。だから、どんなスーツを着ていて、どんな顔だったかさえ覚えていない。


彼を好きになって9か月が過ぎようとしている。梅雨が本格化した6月、私は不思議な夢を見て起きた。いつもと同じ神妙な面持ちで私を呼んだ彼のほうへ歩みを進めようとしたとき、私は何もない場所で躓き、彼の胸へ受け止められたのだった。


今思うと、本当に単純だと自分に苦笑してしまう。それでもきっかけは夢だった。急に私の生活に彼の存在が根付き、見える景色が変わった。彼がいつ帰るのか、何をしているのか、初めて目を向けるようになった。


もう春がやってくる。なんでもする、できるならあの夢を見た日に戻りたい。ただの憧れが現実味を帯び、彼との仕事が増え、接点が増え、絶対ないだろうと思っていたのに、連絡を取るようになり、無邪気な会話が増えた。一緒に帰り、笑い、悩みを話した。


私はどこかでしくじってしまったのだろう。彼と一緒にいたい気持ちが勝り、気づかれてしまったのか。連絡をしすぎたのだろうか。ぽんぽんと弾むようだった、もちろん本当にときたましか連絡はしていなかったものの、その弾みは消え、既読スルーされたまま履歴は途絶えている。


そして不思議なことに、その日は突然来るのだった。今までは話せなかった日や、連絡が来なかった日はあまりにも憂鬱になり、週末をはさむと、ぼんやりして過ごしたものだった。


しかし、彼からの連絡を待つことはなくなり、憂鬱さも半減した。仕事が早く終わった日の午後、まだ明るい日差しが燦燦と輝いていた。電車の車窓からそれを見ていた。心の奥底が湧き水で浄化されるかの如く、彼のイメージが次第に滲み、「さようなら」という声が体の中から聞こえた気がした。


頭の中では既に自分でも失敗したこと、取り返しがつかないこと、彼が冷たいのは私を嫌いになったからだとわかっている。今まで気のせいだと感じていた視線や、多い会話、帰るタイミング。そういうものがもちろん自分が画策したものもあったかもしれないが、こうぱっとなくなると、実は気のせいではなく、少なくともいくつかは彼が意図したものだったということに気づいた。


確かにまだ苦しい。静かな部屋で一人になれば、彼が好きな曲を流し、歌詞を反芻し、彼の顔を瞼の裏に描く。あてどもなくスマホをいじり、何かヒントがないか調べたりしてしまう。それでももう、望み薄だという現実が自分に忍び寄っていることも事実だった。


彼の顔を見ることはできる、しかし、彼とのやりとりを顧みることだけはできないのだ。今の冷たい彼は前の彼と変わらない。私が恋をしていた短い期間の、あの彼との思い出を掘り起こすことは、自分で自分を痛めつけるのと同じなのだ。


それでも願わずにはいられない。最後のお願い。もう二度と一緒に帰れなくてもいい。連絡が来なくてもいい。だけどあと一回だけ、笑顔で他愛もない話を彼とするチャンスが欲しい。笑顔でこの気持ちに区切りをつけたい。そうじゃないと、一生私は切ない思いを抱いて今後生きていくことは避けられない。


もちろん本音はもっと欲深い。だけど、これだけ。これだけかなえてもらえれば、もう望まない。神様、お願い。最後のお願いです。もう一度だけチャンスを頂戴。

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最後のお願い みなづきあまね @soranomame

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