第23話 バランスを崩そう。

「ただいま」


 マリコさんは翌日のお昼近くになって、スーパーのがさがさ言う袋を二つ手にして帰ってきた。

 あ、お帰りなさいとまほの声に出迎えられる。


「まほちゃん夕べと今朝、何食べました?」

「バタトーストとコーヒーが夕べ…… 今朝はゆでたまごと生野菜サラダとチーズトースト」

「作ったのはあなたですね」

「うん」


 だろうな、とマリコさんは思う。ちゃんと掃除はしておいたからね、とまほは付け加える。


「ハルさんは?」

「音楽の部屋。朝ごはんの後ずっとこもってるの」

「こもって」


 ははん、とマリコさんは感じた。

 

 また何処か混乱しているな。


 ハルの行動は複雑なようで簡単である。頭の中が複雑怪奇になると、身体で何かと発散させようとする。ドラムはそれにうってつけの楽器である。そして今朝のその原因が自分であることは容易に想像がつく。

 まあ頭の中のごちゃごちゃを身体で発散させようというのは正しい、と彼女も思う。

 考えたってどうしようもないことは世の中にも山程あるわけだし、それにいちいち悩んでいては頭がもたないし、たいていの人々は、いちいち悩もうなんて思いもしない。

 悩むのは生活にそう困っていない証拠である。だから思春期の少年少女は悩む。

 ドアを開けるとけたたましい音が溢れ出した。さすがにもう慣れたものである。


「ハルさん?」

「あ? マリコさん帰ってたの?」


 そう言ってハルは手とメトロノームを止める。


「さっき帰りました。まほちゃんの方がやっぱり家事は安心ですね」

「で、ユーキ君は元気だった? 最近来ないようだけど」

「ドラムの先生としての用はとりあえず済んだ、と言ってましたけどね」

「友達の用は済んでないわよ」

「そうですね」


 だけど。マリコさんはユーキの表情を思い出す。


 このままの状態って、続くと思う?



 窓に雨が強く打ちつけて、騒がしかった。ユーキの部屋には雨戸がついていない。だから時々突き刺さるような青紫の光が飛び込んでくる。夕方から夜のうす暗がりの中、時々彼の表情が判った。

 このままの状態って? とマリコさんは訊ねた。


「僕もあなたもハルさんが大好きな友達、という穏やかな三角関係」

「三角は無理ね」

「あの子が入ってきた」

「そう」


 ユーキの声のトーンがそこで少し下がったような気がした。


「ハルさんはあの子を『友達』になんかしておかないわ」

「僕もそう思う」


 ユーキはうなづいた。


「あの子を見た時、そう思った」

「あなたも?」

「僕たちは似ているから」


 マリコさんはユーキといるのは割合心地よかった。

 根のところで似ている相手、というのはやや緊張感もありながらも、一緒にいて「楽」である。何しろ「自分」という個性をわざわざ説明しなくとも「判る」のだから。

 根の部分の似ている相手というのは、気がつくと、持っている知識に妙に共通点が多いことが判ってくる。

 もちろんマリコさんの専門は医学だし、ユーキは音楽だ。

 だが、それ以外の部分において彼らは共通の知識もまた多かったのである。

 たとえば彼の本棚にある本の大半は自分も読んだ覚えのあるものだし、部屋の色合いだの、配置だのに既視感を覚えるような。

 その「似ている部分」はハルとまほが外出するような時に訪ねてくる彼と話しているうちに見えてきた。そして彼の部屋へ来た時、それは明確なものになった。

 マリコさんは彼のことはわりあい好きである。

 「似ている」から好きなのである。

 だがそういう「好き」は、それ以上に発展はしにくい。「それ以上」で、「結婚未満」な相手というのは、「違う」から好き、という方だろう、と彼女は考えている。

 だから、そのバランスを越えてしまうとすれば、現在保っている、この過去の日常を真似た状況が、その不自然さを主張しだした時だろう、とも。

 だからどうしよう、と悩むことは彼らはしなかった。

 とりあえず自分は自分の感情のままに動いている。それでその結果としてどうなるか、はそれこそ「神のみぞ知る」だった。

 バランスは崩れ始めている。ハルとまほによって。そして自分たちはハルにそのバランスの崩れを主張できない。

 何度目かのいなづまがカーテンのすき間から差し込んだとき、ユーキは言った。


「寝てみない? マリコさん」


 バランスを崩そう。彼は宣言した。

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